2015年、教会員の証し

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2015年8月 (NO.200)

≪ 行動の原点 ≫

 近頃、ハラスメントが盛んに議論の対象とされています。ひと頃はセクハラがその中心をなしていたように思いますが、現在は、パワハラやモラハラ等についても徐々に議論されるようになっています。

 かつては、私も会社に身を置いていましたので、思い当たる経験をしたことが少なからずあります。特に、パワハラでは、理不尽な扱いに夜も寝られぬ悔しい思いをしたこともあります。

少し前までは、違法なハラスメントが批判されず、余り問題にされることもなく過ぎて来たように思いますが、今や是正されるべき社会問題として取り上げられているのは大変よいことだと思います。

 永い割には否定的なことの多いのがサラリーマン生活ですが、私の場合、ハラスメントなどとは全く無縁の、尊敬に値すべき上司がいたことが唯一幸せな記憶と言ってよいでしょう。その上司の立居振る舞いは、今思い出しても静かで謙遜ですが、その一挙手一投足が、正義に裏打ちされた勇気に基づくものであったことを思わざるを得ません。

 ある時、行政機関を標的にして自らの目的を達成しようとする反社会的組織から、業務上の問題に対して釈明を求められ、組織の事務所を訪問せざるを得ない事情が発生しました。闇の組織がからむ問題は、ひとたび対応を誤ればいたずらに問題を複雑にし、解決を一層困難にしかねません。様々なリスクを考慮すると、通常、自らは積極的に関わることに消極的にならざるを得ない場面ですが、その上司は進んで困難に身を投じ、適切な対応力で問題を解決しました。(しかし、相手方の事務所を退出したときは、異常な緊張の中での言葉の応酬で、喉に渇きを覚えているのが傍目にもわかりました。)。その執務態度はそれまでも万事そうでしたが、この一件は、更に尊敬の念を強くさせられる出来事となりました。

いつであったか、その上司から「○○さん、貴方はヒルテイの『幸福論』を読んだらいいと思いますよ。」と言われたのです。信頼する上司の言葉でしたから、早速、岩波文庫の『幸福論』全三巻を手にとりました。読後感としては尊敬する上司の行動の原点がここにあるのではないかと思わせるものがあり、それが聖書に基づいて書かれたものであることに思いを致さないわけにはいきませんでした。

 同時に、「イエス・キリストの復活が歴史的事実であり、五百人以上の人が肉眼で見て経験した(聖書、コリント人への手紙第一 十五章六節)。このことが、ユダヤ教の祭司制に対抗し立ち上がる勇気を使徒たちに与えたのである。復活が事実でないとしたらキリスト教全体が誤謬か錯覚に基づくばかりでなくまさに虚偽の上に立つことになる。」と、最も信じられそうにないことが、五百人以上もの人が同時に目撃し、経験した歴史的事実であり、だからこそ今日までキリスト教が存在し得たと記述している点は、私の内部を言うに言えない感動で満たしました。

 それからというもの、上司の行動の原点と思われる聖書について出来るだけ多くの機会をとらえて読むように努めています。私の上司が、「幸福論」を通して聖書を読むことを示唆し、そのことにより、聖書を読む機会をより多くされたことは、今の私にとって大きな財産となっています。あなたも教会に来られて、聖書に触れて見られては頂けませんか。




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2015年7月 (NO.199)

≪ 平安と苦しみ ≫

 この頃自然災害の多さに驚いています。火山の噴火は口永良部島、三原山、箱根山、御岳山・・地震は世界で日本各地で起こり、大雨に雷に竜巻にと地球は大丈夫かしらと思ってしまいます。

住んでいる地上がこれではいつ何が起こってもと不安を感じます。

 また、日常の生活の中でも不安なことやトラブル、辛いことなど数えきれないほどあります。

 私は若いころ悩みはあまりありませんでしたが、年を取るにしたがって増えたような気がします。年を取ったら心穏やかにと思っていたのに計算違いでした。子ども、孫と守りたいものがあるからでしょうか。

でも、人は心穏やかに年をとることを願いますが、その根拠を何に置くかで異なってくると思います。またこれは自分自身としっかり向き合うことも必要と思います。どんな人生を歩みたいか、何に喜びを感じるか、最後まで何を大切にして生きたいのか。難しい選択です。

今の時代たくさんの誘惑があります。私が子どもの頃は貧乏で物が無いのは当たり前で有ることは恵まれた人という分別がありましたからうらやましいということを感じませんでした。ある意味無いということは幸せ?だったのかなとさえ思ってしまいます。

私は嫌われっ子で結構それには慣れていましたが、やはり限界があります。そのとき憎しみの塊になり恨みを心にいっぱいためていました。すると、心の中にいる客観的に物を見るもう一人の私がいつもの私に言いました。「おまえ、憎しみにあふれたいやな顔になるよ」と言って消えたのです。その一言にはっとしました。確かに日々の生活やものの考え方がその人の顔を造っていきます。怖い顔をしていても目がやさしい人、きれいな顔だけど冷たい感じの人と様々です。私はどうしたいのと自分の心に聞きましたが答えは決まっています。

そのとき、はじめて心と思いにずれがあることに気付かされました。そんなころ教会に誘われて行くようになり、人を憎むことは罪だといわれました。罪とは警

察沙汰のことと思っていたので驚きました。でも考えてみると確かに人を憎むことはいいことではありませんが、人を赦すことは簡単に出来ることではありません。

そんな私に牧師さんはイエス・キリストは人の罪の赦しのために十字架にかかり罪を贖ってくださったのだと言われました。えっ私のためにイエス様が十字架?そんなことがあるの?と信じられませんでした。

しかし、聖書を読み進んでいく中で少しずつわかるようになりました。そして

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのこと

を心配してくださるからです。』   (ペテロの手紙第一 五章七節)

というみことばに出会ったとき心に慰めと平安を感じ、人を赦すことの練習をしてみようという思いを与えられました。その思いを与えられたということは私にとっては大きな変化でした。でも、やはり難しい、出来ない、しなきゃというジレンマの中にいますが少しは前に進んでいると自分では感じています。牧師さんはそれでいいといってくださいます。

イエス様が私のために十字架と思うとき、イエス様の犠牲と優しさを糧に勇気をいただいています。また、こんな強い励ましのことばが聖書には記されています。

『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。

雄々しくあれ。恐れてはならない。

おののいてはならない。あなたの神、

主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。』                

  (ヨシュア記一章九節)




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2015年6月 (NO.198)

≪ 目には見えないけれど見えるもの ≫

 『星の王子様』という本を読んだ方はたくさんいるでしょう。

一九〇〇年、フランス人作家サン・テグジュペリが書いた本で世界では、八千万部以上、日本でも六百万部以上出版されたベストセラーです。この本の中の一節に有名なことばがあります。

「物事は心で見るもの、本当に大切なものは目には見えません!」言い換えると、「本当に本物ほど目には見えない!」と、同意でしょう。

 ところで、皆さんは神さまを見たことがあるでしょうか?先ず、そんな人はいないでしょう。実は、我々クリスチャンも神さまを見たことがないのです。

 こんな方も多くいます。「私は神さまをこの目で見たなら神を信じます」 と。しごくもっともで、解るような気もしますが、残念ながら人間の目では神さまを見ることが出来ません。聖書では神さまについて、このように言っております。

「いまだかつて神を見た者はいない」    (ヨハネの福音書一章十八節)

また、「神は霊であるので、人間の目では見られません」と。

では、神さまとはどんな存在なのでしょうか? それは人間の目では見られませんが、『心に神を受け入れた者が心で感じる方』なのです。われわれ人間社会にも目では見えませんが、心でまた身体で感じるものがあります。

詩人金子みすずさんの言うところの「昼間の星」もそうです。昼間の星は見えないけれど在るのです。「風」もそうです。色も無いし、目には見えませんが、我々は、それが在ることを感じます。

「親が子に対する愛」「子の親に対する愛」「夫婦の愛」「恋人の愛」等々。金銭、プレゼントで「愛情表現」は出来ても「愛」そのものは心に感じるもので、姿・形は見えません。

 このように、我々人間の実生活の中でも目には見えませんが、心で感じるものが多々あります。神さまも同様に目には見えませんが、実に『在る』のです。

私は、こんな風に教わりました。

『神さまは、神さまを求め信じようとする者の心に宿ります』

「信仰」も、心の中のものなので目には見えません。

「信仰心」は神に対する「信頼」です。

では、聖書は何と言っているでしょうか。

『信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目には見えないものを確信させるものです』               (ヘブル人への手紙十一章一節)

イエス・キリストは、いつもあなたの心の扉をノックしています。教会で、ご一緒に神さまについて学びませんか。



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2015年5月 (NO.197)

《 私の信じる宗教 》 

 現代ほど宗教が危機にさらされている時代はないように思います。宗教者同士が争いによって人々を苦しめ悲しませるなど、もはや宗教とはいえません。こうした現状が人々を正しい宗教からも離れさせてしまっているのは、本当に残念なことです。

 では、人に宗教は必要ないのでしょうか。「心身ともに健全」であることは幸せな人生を送るうえで大切なのは皆さん賛成されるでしょう。身体のために私たちは日々トレーニングをして気を使いますが、心のケアは身体の健康よりむしろ重要なのになおざりになっています。

 私は信仰に入る前、結婚式は神前式でしました。両親の葬儀は仏式でした。祖母は庭にあるお稲荷さんに毎日炊きたてのご飯を供え、朝日に手を合わせていました。正月には神社に初詣、春にはお釈迦さまの花祭りで甘茶をいただき、夏は盆踊り、秋は山車を引いて秋祭り、冬はクリスマスパーティーをしました。これは多くの日本人の習慣だと思いますが、これを「日本人は、どんな宗教も受け入れる寛容な国民です」と誇らしげに言う人もいます。私は、はたして「どうかな?」と思います…。

 結婚する伴侶を選ぶとき、「私は心が広いから、どの人でもいいです。」とは言いません。一生を共にする大切なパートナーを真剣に考えると同時に、宗教はなおさら真理を追究しなければならない重要な決断だと思うのです。

人生の中で自分ではどうにもならない苦しい局面に立たされたとき、病気や人との関係、子どもの学校生活の問題、職場や家庭内の悩み、抜け出せない悪い習慣など、さまざまな問題に対して具体的に指針を示し、力ある言葉で解決への道に案内してくれる宗教こそ私たちが必要としているのではないでしょうか。

 どんな宗教でも寛容に「O・K」と言ってしまうには、あまりにも人の生きていく道は険し過ぎます。

 私は朝起きると祈ります。「今日、新しい1日を、お加えくださり、命も与えてくださって有り難うございます。今日1日、自分のことより他の人を思い、心清く穏やかな心で過ごさせてください。アーメン」

 夜床に就くとき、「今日1日のお守り有り難うございました。今日の私の言動の罪をお赦しください。私に連なるひとり一人を有り難うございます。アーメン」と祈ります。

 週の始まりの日曜には教会に行って、今週のお守りがありますように、また過ぎた先週を感謝して、牧師から聖書の教えを学びます。日々聖書を読み、祈り、奉仕を心掛けます。

 堅苦しく思われがちですが、神さまに守っていただき祝福された日々を過ごすには、私たちも日毎、礼を尽くすようつとめます。険しい山道を登った者が頂上の美しい景色を見られます。険しい山道とは、神さまの教えを守ろうとする自らの葛藤ともいえます。

 私はいま、山の中腹の木々の間から見える広々した景色を眺めながら、涼しい風に吹かれているような心地良さを味わっています。頂上は、まだまだ先ですが、希望を持っています。苦しいときにも喜びがあります。

 私が信じる神さまは生きて働き、慰め、励まし、私の心をケアしてくださる、力ある、お方です。

 『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。恐れるな。わたしはあなたとともにいる』(イザヤ書41910節)

みなさんも、お任せするに足るイエス・キリストを信じる幸せな人生を歩んでください。 

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2015年4月 (NO.196)

《 汝の敵を愛せよ 》

 昨今の新聞やテレビのニュースはほとんど毎日のように暗い悲惨な事件を報道しています。「親が子を殺す」「子が親を殺す」「子どもへの虐待」「学校のイジメそれによる自殺」最近では「未成年者による中学1年生殺人」等々。

 世界的に見ても「人種格差」「飢餓・貧困」「戦争」[テロ]等々。そして、「憎しみの連鎖」…多くの皆さまも本当に心を痛めていると思います。

いろいろな条件、状況等が、その要因にあるのでしょうが、私は、その要因のひとつに現代人の「宗教心の欠如」があると考えています。

この地球上には、いろいろな宗教がありますが、「世界三大宗教」と言われる「キリスト教」「イスラム教」「仏教」の基本的な教えは、「人類の平和と平安」であると教わりました。

どの宗教にも「人を殺してもよい」「子が親を、親が子を大切にしなくとも良い」という教えはありません。ですから、「自分に不都合な者はすべて殺せ」というような、教えは「宗教」を名乗る資格はないと思っています。

 人間の争いごとの多くは、人間同士の意見の違い、無視、自分だけの主義主張、過激な感情等を原因としています。人間の争いごとを無くすことに、聖書(イエス・キリストの教え)は何と言っているでしょうか?

 

 『自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい』 (マタイの福音書544節)

 『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい』

(マタイの福音書712節)

 この教えがすべての人類にあるのなら、この世に「イジメ、戦争、テロ、殺人」はなくなるはずです。では「あなたは、このイエスの教えを守り、実践していますか?」と問われましたら、私は「この教えに少しでも近づこうとはしていますが、百パーセントは無理です」と答えます。

 人間個人の知恵、知識、努力では不可能なことなのでクリスチャンは、その非を認め、少しでも、その教えに近づけるように神さまに祈り、願っております。

 私は、「自分の敵を愛する」者には未だなれませんが、このように考えてはおります。

「小さく、弱い者にはやさしくしよう」「相手の立場を理解し思いやりの心を持とう」

正直なところ、これも百パーセントは守れていませんが、少しでもイエス様の教えに近づこうとする者です。教会で、ご一緒に聖書を学びませんか 。   

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2015年3月 (NO.195)

《 SEKAINO NO OWARI 》 

SEKAINO NO OWARI(世界の終わり)という人気バンドをご存知でしょうか。奇抜な衣装とユニークな音楽で若者から支持を集めています。私が最初にこのバンド名を聞いたとき正直とてもびっくりしました。というのは聖書によく出てくる言葉であり、日常生活ではあまり使わない言葉だからです。一般的に世界の終わりと聞くと人々は必ずしも心地良くないと考えます。それなのに若者の間で人気なのは本当に世も末なのでしょうか。あるいは人々が深刻に考えないで、ひとつの新しいコンセプト的な受け止め方をしているからでしょうか。

聖書の中にはヨハネの黙示録という書があります。弟子のヨハネが御使いから啓示されたことを記述したもので、新約聖書の最後つまり聖書の最後に出てくる書です。そこには世界の終わりに起こる神様の裁きのことが詳細に書かれており、この世に罪をもたらしたサタンへの裁きや、神様を受け入れたもののみが勝利を得、そして新しい天と新しい地が創造されるということが書かれています。読んでいくと少々恐ろしくなるところがありますが、それがいつ起こるのかという素朴な疑問が湧いてきます。そもそもそこに書いてあることが本当に起こるのかどうか信じられないと人々は思うかもしれませんが、世界に始めがあるならば、必ず世界の終わり(SEKAI NO OWARI)がやってくると考えるのが自然ではないでしょうか。聖書の中で、イエス様は「わたしはすぐに来る」と何回も言っておりますが、いつくるのかは誰にもわかりません。

このヨハネの黙示録の中にはこのような神様の言葉があります。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは渇く者には命の水の泉から、値なしに飲ませる。」さらに、「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」このように聖書にははっきりと世界の終わりがくることが書かれています。そして、神様を信じたものには勝利が約束されています。

世界では戦争、争い、病気、災害、悲惨な事件等が頻繁に起きるようになってきました。世界の終わりは近いのかもしれません。それならば好き勝手に生きればよいのではという考えもありますが、どのように生きたかによって死後の世界が大きく変わると聖書は述べています。それは本当の神様を信じたかそうでないかということです。よく知られるように大学受験は大変です。志望校にはいるため学生達は一生懸命勉強します。万が一ダメだったら次の年にまたチャンスがあります。しかしながら私たちの人生は一回限りであり、一発勝負です。死んでから後悔しても手遅れなのです。そのようなことにならないように神様は私たちに聖書を与えてくださり、どうずれば良いか教えてくれているのです。

私たちは、主イエス・キリストによる罪の贖いを受け、罪を許されたクリスチャンです。毎週日曜日の朝に教会に集まり、礼拝をささげ、いろいろな奉仕に励んでいます。特に神様が人類に与えてくださったすばらしい贈り物=“聖書”を良く学び、信仰の成長へとつなげています。聖書にはヨハネの黙示録のように世の終わりの出来事について書かれた書もありますが、全体としてはイエス様を通した神様の愛が一貫して書かれています。

 

どうか教会に来て下さい。そして私たちと一緒に聖書を学び、神様を信じて世界の終わりがいつ来ても慌てないようにしませんか。

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2015年2月 (NO.194)

 《   キリスト教は本当に先祖を大切にしないのか? 

 昨年の夏頃、ある場所で3人のお年寄りが、こんな話しをしているのを耳にしました。

「私はキリスト教が嫌いだ。お盆なのにお墓参りをしない。家には仏壇も無い。キリスト教は先祖を大切にしていない。」他の2人は「ウンウン」と相槌を打っていました。

 一般的に日本人は先祖を大切にする国民だそうです。先祖を大事に思うことはとても良いことです。では、キリスト教は本当に先祖を大切にしない宗教でしょうか? 答えは否です。

 約2千年前に、神であられたイエス・キリストは人間の姿をとって、ユダヤの国(今のイスラエル)に生まれました。当時も今も、イスラエル人は先祖、系図をとても大事にする国民です。それは日本人の比では無いでしょう。そんなユダヤの国に生まれたイエス・キリストが「先祖のことなど大切にしなくてもよい!」との教えをするでしょうか?

 旧約聖書にも新約聖書にも「親を大切にしなさい」との教えが多々あります。

『あなたの父と母を敬え、これは第一の戒めである。』(エペソ人への手紙62節)

私の父・母も、その両親を。その両親も、またその両親を。ということは、言わずもがな先祖を敬い、大切にしていることに通じないでしょうか。この教えが身近にあれば、今の親子関係のいやな事件は無くなるだろうと思います。

 また、イエス・キリストは「死者と生者と、神の関係」について、このように教えています。『神は死んだ者の神ではない。生きている者の神である。』(マタイの福音書2232節)

 一般的に、人間は死んだらそれで終わりですが、イエス・キリストは「わたしを信じる者は、死んだからと云って、神から離れるのではない。死者は、天国という別天地で新しい神との交わりの中にいる。だから死者の心配はしなくてもよい。それよりも、今、生きている者は聖書の教えを基として、よりよい生き方をしなさい。」と云っておられるのです。

 クリスチャンは、お盆にお墓参りをしませんが、1年に12度は必ず「墓前礼拝」をし、故人を偲びます。

 また、クリスチャンの家に仏壇がないのは確かです。お金がないので仏壇が買えないのではありません。聖書を学び、聖書の教えを身近に感じてくると不思議なことに不要だなと思えるようになるのです。

 キリスト教は、目に見える構造物や姿、形よりも神に対する心構えを大切にします。

キリスト教嫌いの多くの方は、多分その宗教行事の仕方が日本の伝統的な仕方、仕様と違うので、心の中に抵抗感があるためではないでしょうか。

 一度、教会の門をたたいてください。

『されど、我等の国籍は天に在り』(ピリピ人への手紙320節)

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2015年1月 (NO.193)

 《 私に語りかけられる神 》 

 昔、神は「鼻で息をする人間をたよりにするな」(イザヤ書222節)と言われ「若いうちに早く人間に失望せよ」とも言われました。初めてこのことばに触れたとき、神さまに冷たく突き放されたような気持ちになりました。理解出来ないまま、私はある経験をしました。私には中学高校を通して仲良くしていた2人の親友がいます。部活で、ともに汗を流し「人間とは!人生とは!」と青臭く熱く語り合った友でした。

 結婚後も3人で度々旅行に行きました。年を取ってお互い1人になったら、同じ老人ホームに入って、お世話し合おうなどとも言っていました。しかし、やがてそのうちの1人が事情があって離婚することになった頃から、もう1人の友が、彼女の考え方や生活についていけないと言って次第に疎遠になっていきました。離婚した方の友は、学生時代から皆に信頼され、頭も良くて明るく、人望もあって、私にとっても憧れの人でした。片方の友は真面目な人で、少数の人と付き合うタイプなので、社交的な彼女が八方美人的に思えて、理解出来なくなったのが理由のようです。長く続いた仲でしたがあっという間にぎこちなく崩れてゆきました。遠くで見ていた私はどうして良いか分からずだんまりを決め込むしかありませんでした。故郷を遠く離れて暮らす私にとって、ふるさとの古い友人は、何ものにも代えがたい宝のようなものでした。ふるさとが無くなってしまったような悲しみでいっぱいになりました。冒頭の「鼻で息

をする人間をたよりにするな」という神のことばが生きて私に語りかけました。冷たく感じられたこのことばが「不確かなものに大きな期待をかけると失望するよ」という神さまのやさしい慰めの言葉に変わりました。「若いときに早く人間に失望してわたしのもとに来なさい。わたしは確かで、裏切ることはない。」と言われているように思いました。神さまの優しさに触れたとき、私の心は慰められ、嬉しくなってお互いの弱さや違いを受け入れて、尊重しようという思いが生まれました。毎年送られて来る部活の懇親会の案内状に、今年は何故か心が動いて「出席」にしるしをして返信しました。10数年振りで顔を合わせた3人は、昔のようではありませんでしたが楽しく語らいました。それぞれが幸せに暮らしていることにホッとして、穏やかな安らぎを感じながら車上の人となりました。弱く、移ろいやすい私たち人間のことをご存知の方は「あなたがたは、真理に従うことによってたましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」(ペテロの手紙第一 122節)と私に語りかけます。遠いふるさとの友を思いつつお互いの幸せを祈っていこうと思いました。悩みや悲しみのある所に神は働かれます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。だからわたしはあなたを招くためにこの世に来ました。」(マルコの福音書217節)と言われます。私たちは教会に集まって、互いに励まし合い、祈りつつ神の語りかけに耳を澄ましています。自分のものさしで正しいと思うことが正義だと勘違いしていた私に、教師のように、父親のように導いてくださる神の語りかけに従って歩もうと思います。こんなものだと思っていた人生が、素晴らしいものに変えられる経験を是非、あなたも味わってみてください。