2010年、教会員の証し

 

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2010年12月 (NO.144)

《 クリスマスの贈り物 》 

クリスマスはイエス様の誕生日です。何故1225日でしょうか? 

ローマ時代春の始まりである冬至祭をこの日に行っていたそうです。冬枯れの野 あらゆる物が死んだように見える冬も この日から昼間が少しずつ長くなり 春に向かっていく 新生の春がやってくる最初の日 イエス様も天国から地上に来られて アダム以来犯し続けた罪の為 死が避けられなかった人間に赦しを与え天国で永遠の命を生きるよう導いて下さった。

もっと昔 神様によって創られた人間は 神様の下でイブと仲良く幸せに暮らしていた。しかし蛇の誘惑を受け 父のような神様を裏切って 怒りを買い 遂にエデンの園から追われたが この地上で 再び神の国に戻る為の訓練の時を与えられました。残念ながら人間はその後も殺人 戦争 破戒・・ 強欲や自己中心の為に 嘘 裏切り 嫉妬 傲慢等の罪を犯し続け このままでは地獄に堕ちるしかない人生を生きてきました。

 

よく考えてみると 聖書の「創世記」にある通り 神様は多くのプレゼントを人間に与えておられます。私達が生きているこの地球 自然をお与えになったのも神様です。光 空気 水 大地 そして 動物 植物・・ 人間の生活に必要なものばかりです。この自然環境なしには 人間は生きていけません。人の生命を与えられたのも実は 神様です。

神様は 自分が創られた人間を憐れみ 再び神の国に迎えるため 愛する一人子イエス様をこの世に遣わされた。それはイエス様が私達の罪の身代わりとなる為でした。自ら十字架にかかって亡くなられ 黄泉の世界にまで下られたのです。この犠牲 とても人間には出来ないことです。

イエス様が黄泉から復活され 死に勝利され 私達にも永遠に生きる道を開いて下さいました。私達はこのイエス様を 救い主(キリスト)と呼んでいます。イエス様のことは新約聖書に書かれています。この方の贖いによって 人間が犯してきた罪が赦され 再び神様と共に生きる機会が与えられています。私達はイエス様の素晴らしさを讃え 感謝し神の聖い愛を喜んで受け入れています。私もその一人 心の平安が与えられました。

人々の集まる所に 神の国があります。神様のご計画の中に あなたは既に入っています。クリスマスソングを耳にする時 どうぞ教会に来て下さい。私達はいつでも歓迎します。

高尾教会は あなたの街の あなたの教会です。

あなたは神様に愛されています。私達人間は皆 兄弟、姉妹です。孤独に泣かないで下さい。哀しみに自分を沈めないで下さい。どうぞ重荷を下ろして下さい。

あなたは1人ではありません。イエス様は 誰よりもあなたの親友です。心の友です。どうぞイエス様を受け入れて下さい。

クリスマスイブには 世界の人々がプレゼントを交換します。サンタクロースはお馴染みですね。でも神様からの本当のプレゼントはイエス様だったのです。地上に贈って 重荷を負う人々を救う 素晴らしい贈り物を貰った私達 世界を、人間を創り とことん人間の面倒をみようという神様を讃え 私達に贈られた御子イエス様の誕生を心から祝うそんなクリスマスにしたいものです。教会で神様の愛を感じ 神様に感謝する讃美歌を歌いましょう。

同封のチラシのように 三つの楽しいクリスマス会があります。どうぞご家族でお出かけ下さい。 

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2010年11月 (NO.143)

《 人生を変える力 》 

 あなたは'いい生き方'について考えてみたことがありますか?まだ、10代の未熟な私ですが私はそのいい生き方というのが少しは分かるようになってきました。

謙遜で、善を行うことに戸惑いが無い事。貪欲を持たない事。他人の為に尽くすことの出来る純粋な犠牲精神。好ましい生き方というのは、きっとこんなことであるでしょう。しかしこれは別にクリスチャンでなくても皆が分かっていることです。でも、自分は本当にこういういい生き方をしているんだと胸を張って言える人はどれだけいるでしょうか。

私は子どもの頃から礼儀正しい子と呼ばれることが多く、中学時代からはイギリスの紳士道を学んで身につけておりましたので気品のある態度とマナーなどに対してはかなり自信がありました。もちろん出来るだけ他人を助けたいとも思っていました。しかし、大変優れた力を持った道徳性の際立つ人間でない以上、ここまでが一般な人々にとっての限界です。いくら頭の中でこんな紳士道や礼儀などを考えて丁重に振る舞っていても、我らの心の根深い所に宿るエゴイズムは消えません。なんでもかんでも自分の事が一番大事だという風に思ってしまいます。

他人を手伝うのは都合のいい時で良いし、いざとなったら嘘をついたり、多少卑怯な手を打ったりしてでも自分を庇います。私はこれらが決して許されないことだとか、クリスチャンになったら完全に直るんだとかの話をするつもりではありません。

エゴイズムは人間固有の性質であり、私たちクリスチャンだってこういうエゴイズムに飲み込まれないようにいつも奮闘しています。

クリスチャンにとってもこの戦いは決してやさしいものではありませんが、私の場合は信仰を持つ以前の時よりは確実にこの戦いで勝利しています。神さまから天国行きのチケットはもちろん、あまりにも素晴らしい祝福を沢山頂いているので、もう人間世界のくだらない物質や財産についての貪欲などは持ちません。家族と私の勉強と趣味や未来、そして他人を助ける為に使える程のお金さえあれば十分なものです。

自分がいくら人に誉められて礼儀を分かるとしても全知全能なる神さまと御子イエス・キリストの善と業を分かるので自分の小さい善行などは誇りになれそうもなくなりました。

自分にとっても差し支えのあることでない限り機会さえあれば人を助けて手伝いたいと思います。自分は高貴な神の息子であり、いつも神さまから見守られているので、不道徳なことや人に堂々と言えなさそうなことには近づくことさえありません。それでも、まだとても未熟な所の多い私ですので、もっとちゃんとしたクリスチャンになるために日々努力しています。

一つ面白いことはこういう話を聞くとクリスチャンてよほど淑やかなものでなんかすごく縛られそうだって風に感じる場合が当然多いと思いますが(私も昔すごく感じていました。)実はそうでもないということです。

 ロックが大好きでギターを学んでいる私は激しいメタル音楽を聞きながら聖書を読むことだっていつものことで、教会には普通に楽しくて愉快な感じの人が大部分です。

 キリスト教は最も現代的な宗教であり、模範な人格体としての資質を備えるに最適な宗教であります。

欧州には昔から'キリスト教が真理であるかは分からないがそれは確に立派な市民を産み出す。'という諺がありました。恐ろしい程の速度で変化していたヨーロッパ社会の中でもクリスチャンたちの模範は人々の心に良い刺激を与えていたのです。

皆さんもぜひ教会に来てより幸せな人生への道を確認してみてください。

 

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2010年10月 (NO.142)

 《 静かに心の戸を叩く主イエス 》 

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし彼もわたしとともに食事をする。」

(ヨハネの黙示録320節)

聖書は神についてどのように教えているでしょうか。神はあなたを創造した方です。あなたが生まれる前から神はあなたを愛して、あなたをよく知っておられます。この御方があなたを日夜探し、訪ねてあなたの心の戸を叩いておられるのです。あなたがたとい神を知らなかったとしても神の熱いまなざしがあなたに注がれているのです。

この熱い思いを持っておられる神は肉眼では見えませんが、私達全ての人を見ていて下さる方、真実に語って下さる方、私達の語る言葉や思いを聞いて理解して下さる方です。その証拠に聖書が世界に与えられているのです。又、天地万物が創造される前から存在しておられる方で、「わたしはあってある者である。わたしのほかに神はいない。わたしはわたしのほかに神がいる事をわたしは知らない。」(聖書)とはっきり記されています。

神は宇宙及び、全世界のあらゆるエネルギーをも何をも頼みとしない、全てを超越した力ある神です。神は人には出来ない事を何でも出来る方です。その証拠に天地万物を創造して下さり、あなたや、私をも愛情込めて創造して下さいました。

神は聖い方でアガペーの愛(敵をも赦し、愛する愛)を持っている方です。良い人にも良くない人にも太陽を上らせ雨を降らせ、収穫の喜びを与える恵み豊かな方です。又慈しみ深い方で喜び、平和、親切、寛容、謙遜でどこまでも真実な方で御自分を決して偽らない方であって、全ての良い事に満ち満ちている方なのです。又、罪のない方、正義を愛し、公義、公正、公平を愛して、貧しい人や虐げられている人、見捨てられている人の為に正しく裁き、悪しき者を退ける事が出来る神です。又、病を癒し、原因を取り除く事が出来る方です。

優れた人格の持ち主で、とっても優しく柔和で、曖かくて善意のある神です。真実で偽らない方、常に変わらない御心で私達に接して下さるのです。人の思う事や考える事、行う事等々何もかも御存知で良い方向に導き人を助け、全ての面において働いて下さいます。

人の知らない所や気付かない所で多くの良い事をしておられるのです。

そして人々を罪の悔い改めに導く事の出来る唯一の神です。永遠の命や神の国をも惜しまずに与えて下さる心の広い方です。ですから信ずる者には永遠の喜びが心の底より湧き上がってくるのです。真の神はこの様に素晴らしい神です。

この神こそがあなたと共に過ごす事を考えておられるのです。

しかし、残念な事に人間には神がそば近くおられるにもかかわらず、罪というものがあって邪魔してしまい真の神を知る事が出来なくなってしまったのです。罪は的外れという意味で神の愛と一致していないという事です。神から離れ自分勝手な道を歩んでしまうなら、神の愛が受け入れられず、拒否し、遂には敵対までしてしまうのです。その結果、真の神を知ろうとしない心や、二心、高慢、人殺し、盗み、偽り、姦淫、悪口等々の悪い実を結んでしまい、とり返しのつかない事になってしまうのです。罪は愛を引き裂き、正しい神の教えを受け入れさせず命を失わせるのです。さらに神の愛を拒み、認めません。これが罪です。

神は本当の御自分のみ心を正しく人間に知ってもらいたい為に、愛する独り子、主イエス・キリストをこの世に送り、あなたや私に与えて下さいました。神の愛を解り易く伝えて下さる為に神の子が人の姿をとってこの世に来て下さいました。にもかかわらず、今から約2000年前、当時のユダヤの人々、祭司長や律法学者等によって捕えられ尋問を受けました。その中で彼らの問いに答えてイエスは「わたしは神の子である」と主張しました。

しかし、それは神をけがすことであり、神への冒瀆の罪としたのです。そしてイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、あざけり、侮辱に侮辱を加えた後、おざなりの裁判を行い、その果てに十字架刑の宣告をしたのです。こうしてイエスは十字架に付けられました。深刻な苦痛を受けながらイエスは、自分を十字架に付けた者たちのために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。……」(ルカの福音書2334節)と祈られたのです。罪のない神の子が自らの血をもって罪深い人々の身代わりとなって死に、罪の償いをして下さったのです。しかし主イエスは前から語っておられたように三日後に復活をし、死に対して勝利を収めたのです。主イエスによって罪が滅ぼされ、罪のあがないがなされたのです。主イエスを殺害した人々や真に救いを求める人々、生きがいある人生を願う人々にとって主イエスは唯一の救い主、喜びと希望と勝利の源となられたのです。

この御方があなたの心の戸を静かに叩いておられるのです。あなたが心の戸を開いて救い主イエス・キリストを受け入れ、永遠の命と祝福を得られるようにお祈りします。

高尾キリスト教会ではあなたがおいで下さる事を心よりお待ちしており    

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2010年9月 (NO.141)

《 礼拝する喜び 》 

あなたは、何を大切にしていますか。守るべきお方は、いますか。私は、全知全能なる神を愛し、大切にしています。

私たちクリスチャンは、週の初めである日曜日に、教会で礼拝を捧げ主を讃美します。

聖書に、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイの福音書633節)とありますように、人のおもな目的は、「神の栄光をあらわすことと、永遠に神を喜ぶことである。」と教えられているからです。

人間的な弱さを支え、かつ守って頂くために、クリスチャンである私たちには、礼拝を守ることが生活の基本となります。

私は、17歳のときに初めて聖書の御言葉に触れ、20歳になったときに受洗(洗礼)しました。そのころは、礼拝を守れないことも度々で、今にして思えば何とももったいないことをしたものだと反省しきりですが、充分とはいかないまでも、努めて神さま中心の生活をして来たことにより、人として歩むべき道を大きく踏み外すこともなく今日まで来られたように思います。

クリスチャンにも、人の道を踏み外す原因となるような試練がない訳ではありません。

最近のことですが、私の家族にも人生に希望を失いそうな試練が発生しました。祈っても問題解決には程遠く、辛さが増すばかりでした。そのような時にあって聖書の御言葉が注がれました。

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコの福音書1124節)

この聖書の力強い御言葉に勇気づけられ、慰められました。このため、信仰を守りつつ自らを全面的に御言葉にお委ねすることが出来ました。もし信仰がなければ、家族間で憎しみ合いお互いを思いやることも、共に助け合いながら苦境を乗り越えようとも思わず、傷つけ合い、自我(エゴ)を先行させ、家族崩壊への道を歩んでいたことでしょう。

今は、狭くとも家族仲良く愉しい我が家で、肩を寄せ合いながら生活できていることが、何にも増して私の喜びであり感謝です。家族の絆は、悲しみや苦しみを分かち合いゆるしてこそ深まります。

「主イエスを信じなさい。

そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き1631節)

ハレルヤ。

この世に生きている限り、理不尽なことや悔しい思いに遭遇します。礼拝において、しっかり神さまと向き合い自分の弱さをさらけ出すときに、「すー。」と神の力が入り、心の重荷を取り除いて慰めてくださることは間違いありません。残りの人生が11秒となっても、イエスさまを信じ受け入れたなら、いくらでも人生をやり直すことができます。

逆転勝利の道を得ることが叶います。1人の信仰者が、礼拝を守ることで祝福を頂きますと、家族も清められます。家族間にも平和をもたらせてくださるとは何とすばらしいことでしょう。

ご一緒に礼拝を守る喜びをお味わいになりませんか。

926日(日)に教会が初めてという方のための集会があります。

どうぞおいでください。お待ちしております。

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2010年8月 (NO.140)

  《 イエス様に出会って 》 

あなたは心に孤独を感じたことがありますか。孤独といっても程度の差は大きく、状況も千差万別だと思います1

私がキリストの存在をはじめてはっきりと感じたのは短大生2年の終わりでした。

4年生大学への編入を希望しており、周りの友人がみな、当時のバブル買い手市場で就職先を決め、自分だけ進路も決まらず3月を迎えていました。

当時はまだ「クリスチャン」ではなく「求道者」でした。それまでいたミッションスクールの学びの中でキリスト教の真髄を求めて、聖書研究会へ通ったり授業も熱心に聞いていました。そして次の進路もキリスト教の大学を考えていました。

それまでは教え、宗教としてのキリスト教でした。しかし、編入試験の前の晩、不安と恐れで心が真暗闇、あまりの不安に泣いていた私の前に、キリストがいらっしゃって私を愛して“恐れるな″と励ましてくださるのを感じたのです。私の心はあたたかくなり、恐れは消えていました。それは翌日まで続き、思い描いていた通りの試験問題が出題され、無事にそのキリスト教の大学に入学できました。

しかし、大学に編入したものの、途中入学の私は、喜びと期待を抱えながらも、ひどく孤独を感じていました。それは学内だけでなく自分の存在自体の孤独感にまで及んでいました。両親、家族は私を愛してくれて、仲も良いが、一生一緒にはいられない。友人は何人もいるが、全てを打ち明け、ゆるし合えているわけではない。

一生この孤独は続くのだろうか。1人だけの寂しさを感じていました。

また、入学し歴史を通して何かを見つけ出したいと思っていたものの、何を目標にし、土台としてこの人生を歩んでゆけばよいのか、学べばよいのか心悩んでいました。そして、もう一つ苦しかったのは、高校生の頃から、自分の心の内の自我(エゴ)が何とも醜く見え、けれどもそこから逃げることも離れることも出来ず、まとわりつくことが苦しいのに、それを人に気づかれることを恐れていました。

そんな時、1人の宣教師が、ぽつんと教室に座っていた私に声をかけ、伝道してくれました。その方は学内伝道団体のスタッフでした。彼女は友人を連れて、翌週私に福音を伝えてくれました。神さまは私を熱く愛しておられること、私の苦しんでいたものは、自分の中の“罪”であり、この自己中心な(エゴの)罪によって神さまとの間に深い隔たりがあること。

しかしキリストは、自分の体を犠牲にして、十字架で罪をゆるし、神さまへの道となってくださったこと、私は神さまの熱い愛を信じて受け取るだけで新しい命が頂けるということです。この福音は、私がまさに求めていた真実だと信じ、祈り、クリスチャンとなりました。

この愛なるキリストに感謝し、悔い改め、仰いでいく、この愛こそ私の求めていた人生の目標、旗印でした。罪からも解き放たれました。

また、どんな時でも熱く愛し、教え、見守って、くださるのでもう一人ではありません。

その後先輩から個人的に聖書の学びをして頂いたり、友人とバイブルキャンプ、学びでは実習、ワークキャンプなど神さまからたくさんのプレゼントを頂いたことも感謝すべきことです。

 

“そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、

その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。”

(ローマ人への手紙721節)

 

“あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。

救いの勇士だ。

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、

その愛によって安らぎを与える。

主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。” (ゼパニヤ書317節)

20年近く経った今、クリスチャンの夫と出会い家庭を築き、4人も子どもを頂いて、孤独と言っていられない程忙しい毎日です。

けれどもあの時キリストに出会えなかったら、弱い私は孤独感に負けていたのでは?

聖書は、神が孤独の内にいる者を見つけ出されると至る所に書かれています。

1匹の羊を探されるキリストにあなたさまも早く出会われますように。

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2010年7月 (NO.139)

《 心の「ともしび」と「羅針盤」を 》    

あなたは毎日元気で暮らしていますか。

それとも真っ暗な闇のなかで鬱々と暮らしていますか。

私は当年50歳、大学生の女の子を筆頭に3人の威勢のよい子供たちに囲まれ、毎日日銭を稼ぐべく、サラリーマン生活にいそしむ日々を送っています。

私の人生の目標は(少々大仰ですが) 

① 社会人として立派に貢献できる人材となること。

3人を社会人になるまで養育し、無事に社会に送り届けること。

③ 家のローンが75歳まで残っているので、定年後も働き続けられる自己を確立すること。

 こんな在り来たりの目標ですが、シンプルでいいじゃないですか。と、思いますがこれだけだと、何か心に疲弊感が残りませんか。

 そんな私も、心の中ではイエス・キリストをあがめながら暮らしています。毎日家から高尾駅に歩く間お祈りしているのです。

・私の家族を今日1日お守りください。

・高尾のお父さん、お母さん、岡山に残している母親の健康を今日もお守りください。

・高尾教会のみんなが今日も元気に暮らせるよう守ってください。 等など。

 

こんな私も人生の低空飛行の時期がありました。

一つめは少年時代、病弱な父親を持ち、職場を休みがちな姿をみて、憎しみにもにた感情をためていた、ゆがんだ青春時代。その反動で学生運動にのめりこみ、矛盾に満ちた社会を呪うように生活しました。

二つめは5年前、職場のトラブルや空き巣被害などで心労が重なり、強迫神経症に罹り、延べ1年余りの休職および入院生活をおくった事。

 

この二つの出来事は、キリスト教入信と並んで、私の人格形成の大きな基となりました。現在はこの二つの出来事があってこそ、自分が成り立っていると思います。むしろ喜んでいます。

 

一つめの少年時代で学んだこと、それは貧しさのなかでも確かに父親を愛していたという自分の発見。経済的に恵まれない人たちを心から理解しようと努力できる自分になった事です。

 

「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。

その中で一番すぐれているのは愛です。」  (コリント人への手紙第一 1313節)

 

二つめの精神科への入院生活では、贅肉のようなプライドは全てなくなり、心の病を抱える友人たちと共に生活できた事です。私は人に対して決して偏見を持たない人間になる事ができました。また、またお金がなくても、祈れば、神様は願いをかなえてくれます。

 

 「絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」 

(テサロニケ人への手紙第一 51718節)

イエス・キリストは心のともしびであり、心の羅針盤です。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、

わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

(マタイの福音書112830節)            

 

あなたも高尾キリスト教会にきて、みんなと一緒に、心にともしびと羅針盤を持った生活を送ってみませんか。

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2010年6月 (NO.138)

《 天国への道 》   

 ある日突然、末期ガンを診断され余命三ヶ月と病院で告知されたら、あなたはどうしますか。

昨年4月、義母に付き添って初めてとある大学病院の産婦人科に義父とともに行きました。義母は、最近体調がすぐれない(お腹が腫る)ということで、いつものように気軽に町医者にかかっていたそうですが、今回は大学病院を紹介されいろいろな検査を行っていたそうです。

今日は、その結果の説明が医師からあるということで病院を訪れたのですが、まさかもう何も手の施しようのない末期ガンであり、積極的な治療方法もなく余命三ヶ月などと言われるなんて、誰も夢にも思っていませんでした。しかし、当の本人である義母は信仰を持っているためか至って冷静で、「天国に行く準備はできています。でも、痛みで苦しむのだけはいやです。」と、その場ではっきりと自分の意思を伝えていて、すでに死を受け止めているように見えました。

その後、義母は9ヶ月間をかけて天国への階段を登り始めたのですが、義母の信仰は揺るぎのないもので、天国へ招かれることへの不安はその後も一言も聞かれませんでした。

しかし、急な告知であったために義母は、残された人生の中でやっておかなければならないことが多く頭を過(よぎ)るようで、気が焦っているように見えました。

そして、日々気力も体力も失われていく中で、その課題を成し遂げられないもどかしさに、日々打ち拉(ひし)がれているようでした。

しかし、神さまは、肉体の死後に天国を用意してくださっています。また、神さまは耐えられない試練は与えられないということを約束してくださっています。実際に義母は、突然の告知であったものの、ガン特有の痛みがほとんどなく、亡くなる1ヶ月前まで義父とともに自宅で生活を送ることができました。

また、半年以上も待たなければ入院できないと言われていたホスピスにも、本人の希望する時期に入院することができました。最後は話すこともままならない状態になりながらも、義母はベッドの上で、神さまを誉めたたえ、苦しむことなく天国へ召されていきました。

人の死はいつ訪れるかわかりません。神さまがあなたの心の扉をたたいている今こそ、勇気を出して一歩神さまに歩み寄ってみてはいかがでしょうか。

 私は数年前にも、実の父親を天国へ見送っています。父は信仰を持っていなかったのですが、熱心な家族の働きかけにより、亡くなる5日前に神さまを信じることができました。

いま、私の心のささえは天国でもう一度、2人の親に会えることを心から信じることができることです。

 最後に私は神さまに感謝します。今まで子育てが忙しいことを理由に、義母と接する時を持たなかった私ですが、介護を通じて短い間ではありましたが、娘として心から義母と交わる時間を与えられたことです。

 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」    

  (ヤコブの手紙112節・・・義母の好きだった御言葉より 

 

 

 

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2010年5月 (NO.137)

《 祈れる事の幸せ 》  

 私が教会に通い始めたのは、主人の仕事を手伝いながら3人の子供の育児や家事に追われた大変忙しい日々を送っていた頃でした。ある日、姉に教会のクリスマスに誘われて子供達と一緒に行きました。その時の印象は楽しくて自分も教会で過ごしたという喜びを感じました。

 その後暫くの間はあまり教会に行けませんでしたが、春のイースター等に行ったりしているうちに、いつしか子供達が、教会学校に行くようになっていました。今思いますと、その頃から私や家族は神様に守られ導かれていた様に思います。娘がある日私に「お母さんあんなに忙しい生活をしていて、よく私達3人の兄弟を事故や怪我をさせないで無事に育ててくれたね」と言いました。その時、私ははっとして、ほんとうにそうだと思いました。

そして、いつしか私は足繁く教会に行くようになり、そのうち日曜日は行かなくてはならないという気持ちにさせられ、47才の時にクリスチャンになりました。

 クリスチャンになっても、まだまだ大変忙しかったので、主人に気兼ねしながら教会に出掛け、礼拝が終ると一目散に家に帰るという日々が長く続きました。

 主人は真面目で几帳面な人でしたので、毎朝必ず仏壇に線香をあげ、手を合わせて拝んでいました。でもその主人も、私が教会に行く時、たまに嫌味は言いましたが、全面的に否定しませんでしたので、今思いますと、その頃から神様は主人の上にも働いていて下さったものと思います。その主人も五年前に亡くなる直前に信じて天国に行ってくれましたので、神様の愛を心から感謝しています。

 その後1人になった私は礼拝や集会等に出席しておりますが、子供達も皆結婚して1人になった今、教会に行っていなかったら、どんな生活をしているのだろうかと、ふと思う事があります。毎週日曜日には聖書を学び、讃美歌を歌い、大勢の教会員や娘達家族と一緒に楽しく食事が出来、その他婦人の会(ハンナの会)やゴスペルフラの練習等、有意義な集いの中で充実した生活を送っています。

その他、週の半ばには、祈祷会という集いがあって、お互いのいろいろな悩み等を話しあって一緒に祈り合っています。そして神様からの励ましや、癒しの御手を差しのべていただいて、平安と喜びの中で日々過ごしています。

 私がクリスチャンになって本当に良かったと思う事は、どんな時でも神様に祈れるという事です。「信じて祈れば叶えられる」「耐えられない試練は与えられない」という神様の御言葉をいつも心の支えとしています。

今も生きて働いていらっしゃる神様の存在を信じ、どんな時でも祈れるという事の幸せを感じながら、これからも生きて行きたいと思っています。     

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2010年4月 (NO.136)

《  生かされて生きる   

一、はじめに

あなたは神道や仏教を信仰して居られますか。それともご自身の力のみを信じて生きて居られるのでしょうか。

私は本年78歳の春を迎えました。32歳の時、当時商社マンとして駐在していた米国シカゴ市の教会で、キリスト教の信仰に導かれ、帰国後40歳の時にこの高尾キリスト教会に入会させて頂きました。今も牧師としてご健在の藤田正先生のご指導を頂き、親子3代の教会員生活を守らせて頂いて居ります。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

(使徒の働き1631節)

このみ言葉の真実をここに証させて頂く幸せを感謝致します。

一、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書1128節)

神棚と仏壇のある家庭に育ち、戦前は軍国主義、戦後は民主主義教育への180度の転換を体験し、青年期は社会主義的時代環境の中で過ごした私は、その後の日本経済の高度成長期を商社マンとして人生を送りました。

 世の中の急激な変化と、折々の時勢に追随する大人やマスコミの定見のなさを見るにつけ、若い頃は、神仏はもとより、他人を安易に信用してはいけない。自分でこれだけは確かだと納得した知識に基づき、自力で生き抜かねばならないという偏った人生観を身につけていったのです。しかし世の中そんな甘いものではありません。社会に出れば、仕事や人間関係でさまざまな困難に直面します。本来恃む筈の自分自身が、実は無知や非力であり、抑え難い罪の思いからくる失敗や挫折、不安感を自覚し、より謙虚に生きねばと反省するようになりました。

初めての海外勤務、米国シカゴでの厳しい職場環境の中、神様はこうした私に、救いの手を差しのべてくださったのです。

英語の勉強を目的に通っていた教会の牧師先生から聖書の個人指導を頂く機会が与えられ、神様に生かされて生きるキリスト教の信仰に導かれたのです。

生まれながらに持っている人間の罪を悔い改め、天地万物の創り主である神とそのひとり子イエス、聖霊の存在を認める。聖書の訓えに従がって明るく正しい生活を追及し、日ごとの感謝と祈りを通じ、常に前向きに生き抜いていく人生の道が示されたのでした。

「祈って、求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」                 (マルコの福音書1124節) 

これまで数々の重荷を神様にお委ねした都度、神様は折に叶った解決の道を与えてくださいました。ただただ感謝するばかりです。

一、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書316節)

60歳代まで比較的健康に恵まれていた私も七十歳代に入ってからは、喘息、腰痛、鼻腔癌などの病気に悩まされています。78歳、男子の平均寿命に近く、いつ天に召されてもおかしくないものと覚悟して居ります。クリスチャンには、死後の復活と天の御国での永遠のいのちが約束されています。老人といえども死を恐れる事無く、余生を平安の中に力強く送ることが出来ます。

 この10年来、闘病生活の傍ら、私は日本国際ギデオン協会の会員として、病院やホテル、学生を対象とした聖書の無償配布の事業に参加させて頂いて居ります。最近は特に下校時の中高校生を重点に聖書を手渡し、いずれの日か彼らやその家族が教会を訪れ、キリスト教の信仰に導かれることを祈って参りました。

 この証を読まれたひとりでも多くの方々が、お気軽に当教会に来られ、聖書の学びに参加されますようお薦めいたします。

 皆様のご自愛とご多幸を心よりお祈り申し上げます。         

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2010年3月 (NO.135)

《 こんな時代だからこそ、教会にお出で下さい  》  

つい、先日(平成221月末)韓国ソウルに初めて観光旅行に行って来ました。日本の東北辺りと同じ緯度なのでこの時期のソウルはとても寒かったです。

さて、平成1710月の国勢調査によると、日本人の人口数は約12800万人弱との事です。

其の内、日本のクリスチャン数は1%弱と云われておりますので これから推しますと日本人のクリスチャン数は、多くて120万人前後でしょうか。資料によりますと、韓国の人口は約4950万人と云われ其の内27%がクリスチャンだそうです。

従って、これから推しますと約1330万人がクリスチャン数となります。単純な比較は総人口数の違いがありますので一概には云えませんが クリスチャン実数だけを云えば日本人の10倍強と云う計算になります。だからでしょうが、(今回はソウルの街だけを見て来ましたので他の街の様子は分かりませんが)ソウルに行かれた事のある方は皆さん実感なされた事でしょうが 街のそこかしこで教会の十字架が眼に付きます。日本の街並みには決して無い風景です。 

 日本は今、宗教の信仰は自由の国です、韓国も又同様に信仰は自由の国です。そして、キリスト教が所謂、オープンになったのも日本で云えば明治以降で、韓国もほぼ同時期と聞いて居ります。 

 何故、日本と、韓国のクリスチャン数は、この様な差となったのでしょうか? 

 今回、機会がありまして、韓国の牧師先生にこの事を尋ねましたところ この差は、歴史的、民族性、社会風土、そして宗教環境、の違いからではないのかと云われました。(端的に云うなら、キリスト教を受け入れる状況、状態、土壌、が日本より容易であった・・・・)

 又、別の韓国の牧師先生 (今、ご家族で韓国から日本に来られ当該高尾教会を中心にして日本人の為に宣教活動をされて居ります)と、こんな話をしました。

 「日本では昨今、常識では考えられない様な酷く、残忍な事件がほぼ毎日の様にニュースになっている。特に、何十年前には考えられなかった、親が子供を、子供が親を殺してしまう事件が発生している。韓国でもこの様な事件はあるのか?」と、いう問いに「韓国も以前には考えられない様な事件が起きてはいるが、理由も無い無差別殺人や、親が子を、子が親を殺すという事件は聞いた事が無い」と。 

 私は、韓国は昔から儒教の国(親を大切にする、目上の人への礼儀、礼節等々)です。それに加え、クリスチャンが多いとの事ですから、イエス様の「愛の教え」が、良い影響となって作動しているのではないかと勝手ながら考えます。今日本人が問われているのは、正に宗教心の無さではないでしょうか。ご存知の方も居るでしょうが、キリスト教(イエス様の教え)の中心的な教えは「愛」についてです。

イエス様は、信者間、親子兄弟姉妹間、他人との間、又特に弱者に対してこの様に教えています。

 

「あなたの右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい。」  (マタイの福音書539節) 

「何事でも、自分にしてもらいたい事は、ほかの人にもそのようにしなさい。」

(マタイの福音書712節)

「神は愛です。」                                             (ヨハネの手紙第一 416節)

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」                                  (コリント人への手紙第一 1313節)

 私は、この愛の教えが地球上の皆に(特にその国の指導者層)あれば、戦争も飢餓も、勿論 訳の解らない残忍な事件は決して起きないと思います。

 「キリスト教は外国の宗教だし、難しくて嫌だ!」と、 云う方がいますが、今の混沌とした世相、時代の中で「愛と恵みと平安」を、説く(イエス様の教え)教会に一度お出でになりませんか? 心に安心感が広がりますよ。私達は何時でも誰でも喜んでお待ちして居ります。  

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2010年2月 (NO.134) 

《 苦しみを担ってくださるお方 》 

 ある朝の事でした。私は起き上がろうとするが、まるで腰に重石を付けられたかのように重苦しくて動かない。一瞬夢かと思ったが否、現実であり全く初めての経験でした。その内に良くなるだろうと無理をして家事を済ませ、翌朝のさわやかな目覚めを期待して就寝しましたが、期待とは裏腹に重苦しさが痛さに変わり、お腹に全然力を入れる事が出来ず、その時私は初めて気付きました。多くの方が腰痛に悩んでおられたので、とうとう私もと変に納得し、闘いが始まりました。

身近にある家具につかまり歯を食い縛り「ヨイショ!」の掛け声と共にお腹には力を入れずに両腕の力だけでやっと立つ事が出来ました。どんな体勢をとっても痛く、特に寝返りは超スローモーションでした。何しろ寒い1月、突然のくしゃみや咳は容赦なく出るので、その度に悲鳴をあげました。あんなに元気で動いていたのに、突然自分自身の事も出来なくなり、人の手をかりる情けない姿に、人間のもろさ、無力な存在である事をつくづく思い知らされました。レントゲンの結果、背骨の腰の所が、一ヵ所骨がずれていてその為痛みが発生している事が分かり、原因が分かったからには、自分の気持ちまで負けてはいけないと強く思いました。何故なら、イエス・キリストは人間()を罪から救うために十字架の苦しみを受けてくださり、私の痛さ等比較にならないことを聖書で知っているからです。

十字架の場面が見えるように浮かんできました。「イエス様は私の現状を全てご存知です。この痛さに負けない心の強さを与え、そして癒してください。」と祈り続けました。

私だけが一人で苦しんでいるのではなく、イエス様が、私の痛みを共に担ってくださっている事を思い起こさせてくださり、何ともいえぬ心が温かくなり平安と力が湧いてくるのを感じました。このような祈りの特権を与えてくださった神さまに感謝しました。

腰痛を通して神さまはもう一つ示されました。障害のある娘がいますが、いつも私は世話をしてあげているという思いがありましたが、私の悲痛な声に娘が手を差し伸べて、立ち上がるのを助けてくれたのには驚きと本当に心から「ありがとう助かるわ!」という言葉が出ました。

 今までとは立場が逆転し、初めて自分の高慢さと無力さに神さまが気付かせてくださいました。自分の弱さを認めて主の前に謙虚になりなさいという警告だと思いました。元気な時には気付かない事も自分が弱い立場に立った時、初めて気付く事が多々あります。だから神さまは様々な事を通して教えてくださるお方だと思います。

人という字は互いに支え合って出来ているように自分の力だけで生きているのではなく、神の愛、憐れみを受け多くの人々の中に弱い自分は生かされ支えられている事に納得しました。

腰という字は「要」とあるように人間の体の要は腰であり、その一ヵ所のために不自由な体になってしまうとは想像もしませんでした。

私たちの人生においても同じ事が言えるのではないでしょうか。つい健康な時は自分の力で生きていると錯覚しがちですが、人は神さまによって造られ、生かされていると聖書にあります。ですから人生の「要」はイエス・キリストを信じる信仰であり、これを人生の土台とし、日々神さまの教えに素直に従う生活を送るように努力したいと思います。

困難や試練の中にある時、弱い私は、一旦は怯むことがあってもこの腰痛で経験した事を思い起こし生かしてこれからも信仰生活を送りたいと願っています。

一人一人の全ての事をご存知の神さまであり、恐ろしい反面、安心して委ねることの出来るお方ですので、天国を目指して希望と平安を与えてくださる道をともに歩んで行こうではありませんか。

今年高尾教会が目標とする聖句は、「主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。」 が与えられました。皆さんも教会にお出でになり、神さまのお恵みをいただいてください。

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2010年1月 (NO.133)

《 2010年 生涯の友を得よう! 》  

「自然に守られている」と朝の散歩をしながら思うようになった。朝の太陽の神々しさ 澄んだ空気 美味しい天然の水 私の身体を支える大地・・ 生命はこれら自然に支えられ 守られている、私は生かされている のだと実感するようになった。人間だけでなく動物も植物も自然の中で生かされているし 相互に生かし合って存在している。人間も一滴の水のように いつか大海に注ぐまでの人生、それももう間近にあることを思うと命そのものが愛おしくなる。この生命を創ったのは誰か・・自然を造り コントロールしているのは誰か?見えないが 宇宙には大いなる存在 働きがある。神の存在を感じるようになった。「朝まだき、野原は露で白々と見えるが、われ生きる日々が願わくば 自然への畏れで結ばれんことを。」 英国の詩人ワーズワースも詩(うた)っています。

今私達は資本主義という金持ち優遇社会に生きています。激しい競争の中で少しの金持ちが造られ 多くの人がカネに喘いでいる。去年は特に不況の嵐が吹いた。一見豊かで 便利な世の中もカネがないと 全く面白くない世界。しかしカネに目が眩んでいると アリ地獄のように欲望の世界に落ち込んでいく・・ 実は悪魔(サタン)が大きな口を開け カネと欲で 私達を誘惑しているのです。甘い餌と共に大きな地獄を用意して残酷な程に人を苦しめるのです。 
 手探りでこの世を歩く不安 生活の不安 健康の不安 かつ死の道への不安は誰にも言い得ない不安でしょう。周りを見れば不安だらけです。都会では多くの人々がいるのに 皆無関係、無関心に生きています。他人に優しい思いやりを持つ人は少ない。(そんな余裕がない。)自分が生きるのに精一杯の社会で 愚かなことをくり返して 人間は死を迎える。ほとんど自力では動かし難い世の中 あきらめと刹那的な生き方 外見のみ飾るような生き方に身を委せています。これで幸せでしょうか? 今求められているのは心の平安ではないでしょうか。

同じ身を委すなら 神様に身を委ねた方がいい。心の平安を与えてくれるのは大いなる存在である神様しかありません。イエス様はこの世の救い主です。神から離れ サタンの息の中で苦しむ人間を救う為 地上に来られた神のひとり子です。イエス様が いつも私達のそばにいて  悩みに寄り添い  一緒に涙を流し 重荷を分かち合ってくれます。カネを守護神とするより 神の愛に包まれて生きていきましょう。その時孤独感は消え  心に平安が与えられます。神の愛に癒されるのです。病気の時も 自分ひとりが何故こんな苦しみを負うのか という孤独感から人は余計に苦しむといいます。イエス様は生涯あなたと共に人生を歩んでくれる心の友です。もう寂しくありません。

信仰がないと人生の確信も安心もありません。信仰には喜び・感謝・祈りがあります。今までの人生を悔い、イエス様を信じるなら、賜物として心に聖霊を受けます。神の御心・神の愛です。神様はあなたの罪を赦してくれます。それは裁判所で裁かれる罪ではありません。このままでは地獄に堕ちる心の罪です。古い自分を捨て、神の下で生きる新生した自分を発見してみませんか。自分の為だけではなく、家族・友・周辺の人々を神の愛で包んであげて下さい。神はあなたの進む道を光となって照らしてくれるでしょう。生涯の友があなたの背中を押してくれます。2010年の新しい年、どうぞ教会にお出で下さい。