2012年、教会員の証し


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2012年12月 (NO.168)

    神さまがあなたに願っておられる事  

今年最後のトラクトをお届けします。

12月は、主イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスです。今年も、教会ではクリスマス記念礼拝とゴスペルナイトを準備して、あなたのお越しをお待ちしております。毎年、主イエス・キリストの誕生を祝うのは、何故でしょうか。

それには、このお方がどんな方なのかを知る必要があります。どんな生涯を歩まれたのかについても。聖書では、この主イエスを、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれています。(イザヤ書96節)この方は、「人となりたる生ける真の神なり」とも記されています。

主イエス・キリストは、神が完全な人となってこの地上に来られた、まさにそうしたお方なのです。しかし、この方の生涯は、大変厳しく過酷なものでした。この方は、神であることを捨てられないとはとは思わないで、かえって、ご自分を無にして、実に十字架の死にまでも従われたのです。何故、神が十字架につけられ、死ななければならなかったのでしょうか。神が何故、むごい死に方をしなければならなかったのでしょう。主イエスも、ご自分がそうなることを理解されていました。まさに、そうなるために、自分は生まれて来たと認識されていました。ある者は、十字架上の主イエスを見て、「他人を救ったが自分を救えないのか。神であるなら、今すぐこの十字架から降りてきてもらおうか。」と罵っていました。

主イエスは、何故苦しまれたのか。これを理解するには、十字架の死の意味を理解することが必要です。しかし、当時のユダヤ人はおろか、主イエスと生活をともにした弟子たちでさえ理解していなかったのです。それが証拠に、弟子たちは皆、逃げ出したのです。12弟子の筆頭格のペテロでさえ、3度も主イエスのことを「自分は知らない」と否んだのでした。自分に火の粉が降りかかって来ないために。そして、イスカリオテのユダに至っては、銀貨30枚で主イエスを祭司長、律法学者に引き渡したのでした。実に、主イエスは、孤独でした。だれひとり、真に彼を理解する者がいなかったのです。それ以上に、十字架上の死は、父なる神に見捨てられることを意味しました。実に、キリストは、人にも神にも捨てられ、神の裁きを一身に受けたのでした。主イエスは、神であられたが同時に完全な人でした。人として、全人類の罪の裁きをその身に受けたのです。何故、神であられる主イエスがそうされたのでしょう。

 聖書にはこう書かれています。

 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 

(ヨハネの福音書316節)

神は人を愛しています。ご自身に似せて造られたのもそのためであったのかもしれません。だから、1人も滅びて欲しくないのです。全ての人に永遠のいのちを与えたいと願っておられるのです。しかし、私たち人間には、神に逆らおうとする根の深い罪の性質があります。

神は、全く聖く、正しいお方であるが故に、この罪の性質が人と神との関係を断絶してしまったとしています。ですから、ありのままの人間は、神と共に生きる永遠のいのちに入ることが出来ないと。この断絶した関係を再び回復するには、この罪を贖う必要があります。主イエスは、まさに、この全人類にある罪を贖うために、十字架についてくださったのでした。

「わたしは、道であり、真理であり、いのちである。」と言われました。

この方を通してでなければ、決して父のみもとに来ることができませんと聖書に記されているのです。私たちキリスト者は、主イエス・キリストが、真の生ける神であり、自分の罪の身代わりになってくださったと告白する者です。それによって、私たちは、全ての罪が神の前に赦され、罪の支配から完全に自由とされ、新しくされたのです。

主イエス・キリストを信じるとき、これまで行ってしまった罪や心の中だけにあった自分だけが知っている罪など、全ての罪が赦されるのです。この喜び、これが良き訪れであり、福音です。

 この肉体はいずれ滅びます。しかし、主イエスは、ご自分が十字架上で死んだ後、三日目によみがえられました。そして、永遠のいのちがあることを、身を持って示されたのでした。

 これは、私たちに、その望みが真実であることを示しています。

 主イエスは、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいてすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書281920節)と言われました。

 

 主イエス・キリストは、この永遠のいのちをいただく上で、私たちに無くてはならないお方なのです。ですから、世界中でクリスマスをお祝いするのです。是非、あなたも、キリストによる神との和解を受け入れてください。良きクリスマスとなりますように。

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2012年11月 (NO.167)  

            生かされて生きる                          

私は本年80歳を迎えさせて頂きました。

喘息、腰痛のほか持病を抱え、介護タクシーによる通院が月に3度以上、生活は年金のみ、体力的にも都心への外出は控えがちな生活を送っておりますが、32歳でキリスト教に入信、40歳でこの高尾キリスト教会に入会させて頂いて以降、常に神さまのご愛とお恵みの中に生かされて生きる幸せを感謝して参っております。

このトラクトを読まれた1人でも多くの方々が当教会に来られ、祈りと聖書の学びを通じて、希望と喜びに満ちた新しい人生へ踏み出されますよう願っております。

 

一、「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言17節)

 

知識というと、個人や社会生活を過ごしていくための知恵や情報のように受け止められていますが、聖書では、本来神さまに創られ愛されている人間が、見えざる神の存在を認め、謹んでその教えに従って生きる。これこそ人間に与えられた知識の基本であり、最高の英知であることを様々の事例を通じて伝えています。

一、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書316節)

 

キリスト教でいう罪とは刑法上の罪を意味するものではなく、人間が生来持つ自己中心的欲望、自力では抑え難い肉体的欲望言わば現実の罪の温床ともなり得る自らの原罪を自覚せず、自分勝手な生活に甘んずることを意味しています。

聖書は、すべての人間の罪の贖いのために、ひとり子主イエス・キリストをこの世に送られ、十字架の刑に処せられたことを伝えています。その神のご愛とキリストの十字架上の死と復活を信じることにより、本来は罪人の人間がその罪を許され、永遠のいのちが与えられることを、聖書は約束しています。

 

一、「すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住むすべての者よ。耳を傾けよ。

低い者も、尊い者も、富む者も、貧しい者も、ともどもに。

私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。」   (詩篇4913節)

 

世界総人口、70億の約30パーセント、20億の民がキリスト教を信じています。

日本では自然崇拝を含めた神道や、インドから伝来の仏教の伝統が広く受け継がれ、特に鎖国による切支丹禁制、明治以降、太平洋戦争終戦までは国家神道の教育、終戦後は、宗教は麻薬と断ずる社会主義イデオロギーの影響もあり、キリスト教の普及には不適切な環境にあったため、現在日本人のキリスト教信者は、100万人以下にとどまっています。

ただ経済や文化の面で国際交流が一段と進み、国内外の厳しい環境のなかで、日本人が正しく力強く生き抜いていくためには、キリスト教の信仰と伝道が、ますます必要となるものと信じております。

 

 一、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

(テサロニケ人への手紙 第一 51618節)

 

キリスト教というと、何かむずかしくて、堅苦しいもののように感じておられる方々がおありかもしれませんが、高尾キリスト教会には女性や子どもも多く、常に平安で和やかな、雰囲気に満たされています。

 

聖書が判りやすく解説されるコースもありますし、子どもの教会学校、女性の集い、さらにはエレキバンドや、ゴスペルフラダンスのクラスもあります。教会員のための墓地も備えられています。

50年前、当教会を創立され、今もご健在の藤田 正牧師のご指導の下、全員主にある一致により、明るく楽しい信仰共同体としての歩みを日々感謝の中に、続けて参っております。

 

一、「求めなさい。そうすれば与えられます。

    捜しなさい。そうすれば見つかります。

      たたきなさい。そうすれば開かれます。」    (マタイの福音書77節)

 

どうかお気軽に当教会の扉をたたいてください。クリスマスほか折々の集会や、日曜日ごとの礼拝にご参加ください。教会員一同心よりお待ちしております。

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2012年10月 (NO.166)

《 復活の奇跡 》

 皆さまは今から約2000年前にこの世にお生まれになった、イエス・キリストというお方のことをご存知でしょうか。

 盲目の人の目を開いたり・・いろいろ病に苦しむ人をいやし救ってくださったり・・イエスのお話しを聴きに集まった5000人もの群衆にわずかなパンと魚で空腹を満たしてあげたり(パンの奇跡)数々の奇跡をされた方です。

 そしてこれは人々への深い深い愛にもとづいたものなのです。おそらく皆さんはこうした奇跡の話に対して、そんな馬鹿な、これは後世の人の作り話にすぎない、信じられないと思われることでしょう。しかし、複数のお弟子さんの書き残した記述(聖書・四福音書)にそれぞれわずかな差異があるものの同じ記述があることからもこれらはまぎれもない歴史的事実であることが理解できます。

 そして、こうした中にあっても最大な奇跡は十字架刑にあわれたイエス様が墓に葬られた、三日後に死から復活されたという事実です。そしてそのことを祝うのがイースター(復活祭)

というものでキリスト教ではクリスマスと並んで大きな行事となっています。

 イエス様の名声が世にひろまることに妬みと脅威を感じた時の権力者がイエスを十字架につけて殺したが預言通りに三日目によみがえられたという驚くべき事実です。そして、この出来事も複数のお弟子さんの書き記した四福音書に具体的に記述されている歴史的事実なのです。

 安息日の翌日イエス様の遺体に香油を塗ろうと墓をおとずれた女たちが目にしたものは、遺体が忽然と消えていたこと(ルカの福音書2423節)・・墓の外で泣いていたマグダラのマリヤの背後に忽然と姿を現されたこと、また、弟子たちがひっそりと集まっていたところに忽然と現れ復活がなかなか信じられない弟子トマスに「手を伸ばしてわたしの脇腹に手を差し入れてみなさい。」(ヨハネの福音書2027節)と言われたのです。

 では、イエス様はこうした数々の奇跡を、ただ人目を驚かせるためにおやりになったのでしょうか。いえ、ここにイエス様の弱い私たちに対する深い深いあわれみ、愛があったのです。

 地球創成の始期、神さまの命令にそむきエデンの園を追放されてしまった人祖アダムとエバ以来、万物の創世主である神さまと断絶し、「自我」というものに振り回されてきた人間に、もう一度、神とのただしい関係に立ち返るよう、私たちの犯してきたもろもろの罪を「贖う」(清算)ために身代わりの死を遂げられたこと、イエス様を信じる信仰により神さまと共に生きる「永遠のいのち」を与えてくださる真の救世主であることを証明されたのです。

 聖書の勉強は1人ではなかなかむずかしいものです。どうぞ勇気をもって教会の門を叩いてください。きっと新しい光が貴方の心に差しこむことでしょう 。   

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2012年9月 (NO.165)

《 暗闇から光ヘ 

 私は島根県の片田舎の農家に生まれました。子どもの頃を思い浮かべますとつい時間を忘れてしまう程に、今となってはすべてが懐かしく走馬灯のごとく鮮明に浮かんでまいります。

当時は3世帯揃っていた時もあり、私たち子どもを含めて10名の大家族でした。

大人は夜明け前には起きて外に行って一仕事終えてからやっと朝食です。子どもは登校前に土間を掃き、縁側の拭き掃除が役目でした。夏は清々しく、冬は手が切れそうな冷水で雑巾を洗うのが辛かったのですが、「きれいになったね。」と喜んでもらえるのが励みであり達成感でもありました。祖母が朝食の準備をしてくれていましたので、食べる前に仏壇にご飯とお茶を供え、弁当箱に詰めることも役目でした。全員揃うのは夕食時なので散らばっている家族に合図の手段として拍子木を打ち鳴らしました。全員食卓に着くと、戸(祖父)から今日1日を通して何か一言があってからやっと「いただきます。」となりました。

大家族の大黒柱である祖父がよく拝んでいた姿が浮かびます。農作物の豊作、無病息災、家庭円満等願っていたのでしょうか? 何しろ仏壇、床の間、稲荷、水神、山の神、それぞれに向かって拝んでいました。年に1回神主さんに祝詞をあげてもらっていましたがこのように多くの神と称するものに囲まれた生活でした。当時は戸主の統率力が強く存在も大きく感じました。でも所詮人間は弱いものですから、転ばぬ先の杖としてあらゆる物に対して手を合わせ助けを必要としていたのではと思います。

確かに戦中戦後の貧しさは経験しましたが、皆が同じような境遇でしたから頑張ることが出来、今は懐かしい思い出となっています。そのような環境で育った私もやがて大人になり家庭をもって初めて今まで経験したことのない苦難に直面しすっかり落ち込んでしまいました。

私が知人に相談したところ即座に「教会に行くしかないわね!」と自信満々に言われたのがとても印象的でした。藁をも掴みたい気持ちで早速次の日曜礼拝に行ったのが現在の高尾キリスト教会でした。私にとって知人の一言は、すごく確信に満ちた言葉として響きました。それもその筈あの一言で、私の人生の大きな方向転換となったのです。神さまは、私が困った時、悲しい時、うれしい時いつでも共にいてくださり、幸せな道に引き戻してくださいました。

生まれて初めて真の神さまとは、このお方であることが解りました。「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。」(聖書)

「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。」(聖書)

この世界とその中にあるすべての物をお造りになった方は、この方であると聖書に明記されています。ですからその造り主にこそ私たちは日々祈りを捧げるべき存在であることを知りました。私は初め物事(悩み)の解決のみを求めていましたが、その前に主を求め信じ従うことが大切であり、神さまに長年背を向けて自己中心に生きてきた自分の罪を神さまの前に悔い改める必要があることを教えられました。そして3年後に受浸させていただきました。クリスチャンとなったら病気や苦難が無くなるわけではありませんが、以前のように1人で悩むのでなく、私のすべてをご存知で共にいて助けと力と励ましを与えてくださる、生きて働かれる主に何でも祈って打ち明け、神のみこころにかなった祈りならば答えくださるという大きな恵みをいただきました。「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからである。」(聖書) これからも主を信頼し、祈りを捧げつつ歩んでいきたいと願っております。     

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2012年8月 (NO.164)

《 神さまに守られて生きるために 》

 私は、「教会は、罪人が救いを求めて集まるところである。」と教えられ、現在は、そのように理解しています。ただし、ここでいう罪人とは、神との約束に反する行為をなした者(内心において神の戒めを破る者もここにいう罪人に含まれます。)のことであり、いわゆる制度的犯罪者のことではありません。

 しかし、教会の門を叩いたその時からすぐさまそのように理解することが出来たわけではありません。聖書には、その趣意のことが書かれており理屈では解りましたが、感覚的になじめないまま、なかなかこの教えに対する違和感を払拭できずにいました。聖書がいう罪人の意味を、抵抗感なく受けいれられるようになったのは、クリスチャンとなってから何年も経ってからのことでした。

 現在は、この言葉の意味するところを真剣に受け止め、実生活に生かすべく努めているつもりですが実際には感情が先行し、理性的思いとは逆の思いや行動に支配されているのが現実の姿です。

 「父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々(ユダの手紙1節)。

『守られている』・・・これはキリスト信徒にとって本来の姿である。よく人に躓いたという人がいる。あの信者に躓いたと言うと、いかにも自分は正しかったのにあの人のゆえにこうなったという意味になるが、他方から言えばイエスの守りからもれたということでもあるのだから言わないほうがよい。イエスの守りの中に私たちがいつもおかれていることを感謝していたならばそういうつぶやきは起こらないのである。」これは、今は亡き榎本保郎牧師が、ある説教のなかで説いておられるお言葉です。

 私たち一人ひとりが、この人間存在の本来の姿を正しく理解し行動していれば、ごく日常的に発生するトラブルも、自ずと未然に回避しことさら罪を犯すこともなく、互いに幸せな対人関係・社会を構築することができるのではないでしょうか。

 しかしながら、私たち人間は傲慢であり、かつ大変弱い存在です。ややもすれば自分たちが存在することのできる本来的意味を忘れ、眼前の誘惑や躓きに目を奪われがちです。

 毎日を何の心配もなく平安に暮らしていけるのは、「イエス・キリストのお守りの中に置かれているからだ。」という観点から自らの周囲を見つめ直してみると、日頃不平不満を言いつのっている人は、概ね経済的に恵まれて精神的にも安定し、一般的には不平不満など生まれにくいと思われている人、いわゆる順境の人に多いような気がいたします。

 不平不満を言いたくなるのは何故でしょうか。躓きの原因を人の所為にしたくなるのは何故でしょうか。真実、豊かな人生を送るために、自分自身が存在している本来の姿・意味というものを見直してみる必要はないのでしょうか。代わり映えのしない日常の中においても、ほんの小さな思い違いから無意識のうちに人を傷つけて罪を犯し、結果的に自らも傷つくような不幸が、少なからず発生します。

 このようなことに思い当たることがない人は幸せですが、「神のお守りの中からもれることがない」ためにも、もう一度、自らがこの世に存在している本来の姿・意味を問い直してみるのも意味のあることと思うのですが如何でしょうか。 

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2012年7月 (NO.163)

《 心の栄養 》

 「心身ともに健全に成長したい」これは誰もが願うことです。今や身体の健康に関してはどれ程の時間とお金を費やしている時代でしょうか。身体を健康に保つことは大切なことです。病気をしないで一生を終えることが出来たら幸せです。

一方、心の健康についてはどうでしょうか。現在、日本では、身体は丈夫であっても自殺する人が沢山いるようです。身体だけが丈夫であっても、家庭や職場や学校で問題を抱えていたら、心は重く、元気がなくなります。身体と同様に、いやむしろ、心の健康が第一に大切です。人間は、心と身体で一つです。

では、心の栄養は処方から得たらいいでしょうか。旅行、スポーツ、趣味、友人との交流…。どれも一時的に気分を変えたり、心を落ちつかせるためには有効かも知れません。しかし、一旦、人間関係が悪化したり、環境の変化で中断しなくてはならないかも知れませんし、人の心の悩みがそういったことで解決できないことははっきりしています。

 25年程前になりますが、子どもがミッション系の高校に入学したとき、初めてクリスチャンの先生方にお会いしました。先生方の私たちに対する誠実で真剣な態度や愛情に感動しました。団塊の世代に育った私は、1学年700人という生徒数の中で、教師と親しく口を利いたことがありませんでした。また、子どもたちが教わった教師の多くともこの方たちは違っていました。

初めて教会の門を叩いたとき、牧師は初対面の私のために祈りを捧げてくださいました。

全くの他人に示してくださった愛に、味わったことのない涙がこみ上げてきました。自分だけが頼り、自分が頑張らなければという一杯一杯の日々の私の心は潤いの無い固い土のようでした。この方たちの他に対する思いやりや柔らかな心は処方から来るのでしょうか。

その後、私はクリスチャンとされ、判ったことは、「神の愛」の栄養を与えられているということでした。何も問題が無いという方たちではありません。完全ではなくとも、神に愛され、

守られているという安心感が、心に余裕が生まれて他者を愛することが出来るのです。

 「愛されているから愛せる」これは神さまから与えられなければ判らないことです。

現代はいろいろな危険な宗教がはびこっていて一般的に宗教に対する警戒心が強くなっています。しかし、私たちの心を元気にしてくれる食物は身体の食物と同様に大切な栄養です。

今までの自分の人生を振り返ってみませんか? 人を愛することはあらゆる問題の解決に繋がります。キリスト教というものがすぐには解からなくとも、成熟したクリスチャンの人たちの生きた愛の姿に出会うとき、証明されます。「無償の愛」です。私などはまだまだ未熟な者ですが目指す処は同じです。

現代は子どもたちにとっても自由の名のもとに非常に危うい世相です。子どもたちを悪いものから守るために幼い頃から、神さまの愛を信じる子に育ててください。そういう子は、正しく力強く生きてゆける大人に成長します。

 日曜の朝十時半に始まる日曜学校に、是非どうぞお越しください!

 母親たちの愛の輪があります。尽きることの無い、心の栄養をお互い受けましょう。

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2012年6月 (NO.162)

《 豊かな旅路 》

私は普通のサラリーマンです。妻とは私がノンクリスチャンの時に結婚しました。妻は子供を連れて行くので、子供の子守がてら教会に通う様になりましたが、最初は全くキリストを理解できませんでした。
まず信じられなかったのは、「キリストを信じ洗礼を受けるならば、永遠の命が与えられる」ということです。

そんな馬鹿な、と思うのは当たり前の感情かもしれませんが、キリストの言葉はもっと霊的で次元の高い所にあったのです。信じる者に希望が与えられると聖書に記されています。
 私が教会に通い始めて20年になりますが、その間に数回生活の危機が訪れました。
そのとき、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という使徒の働き1631節のみことばは
、危機を乗り越える、最も励まされるもののつでした。
 本当に魂が揺さぶられ、「キリストを信じるなら、永遠の命が与えられる」という教えを素直に信じ、洗礼を受けました。
 「希望を持って生きて、希望を持って天国に行ける。」こんな素晴らしい生活が私たちクリスチャンには与えられています。こんな幸いなことは他にはありません。

先日、高尾教会の宣教50周年記念の行事が行われました。ここ最近、あんなに充実した行事はありませんでした。何がそんなに素晴らしいか、少し話をさせて下さい。
 普通の男性は家族を守る為に、或いは社会に貢献するために一生懸命働くと思います。言わば、仕事は「経済的に人を幸せにする」活動だと言えます。しかしながら、心の救済はどのような活動から生まれるでしょうか。
 多くの方は「旅行」や「サーフィン」や「スキューバダイビング」や「野球」や「ゴルフ」や「テニス」や「バーベキュー」をやってストレスを発散させておいででしょう。多くの人は友人同士や家族など、限られた人たちとの中で心のケアを行っていると言えます。
 高尾教会の牧師先生は献身的に大変多くの人の心に、キリストの教えを届け続けた50年だと思います。
 キリストはご自分の命を捨ててまでも他人を救いに導きました。
キリストは2人の者と共に十字架にかけられました。その囚人の中にバラバという強盗がいました。当時の習慣では囚人の1人が許されるということがありました。人々はキリストではなく「バラバを許せ」と叫び、そのバラバを釈放し、キリストを十字架につけたのです。人間はみな本来罪人ですから、全人類の身代わりとして十字架上で罪の贖いの死を遂げられたのです。
 キリストは、人の命を救うためにご自分の命を捨てられたのです。高尾教会はキリストによる救いを皆さんにお知らせするために建てられているのです。
 私は高尾教会の50年の歩みに感激するとともに、「自分の貧しい生き方」を恥じ、「もっとしっかりしなくては」との思いが込み上げ、涙となってあふれ出た式典でした。みなさんも教会においでくださり、ともに聖書を学び、私達との交わりを楽しみつつ、信仰への豊かな旅路を始めませんか。

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2012年5月 (NO.161)

 《 命 の 教 会 

「 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって

満たす方の満ちておられるところです。」    エペソ人への手紙 123

 

 「 また、御子はそのからだである教会のかしらです。

御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。

こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」

              コロサイ人への手紙 118

 

 神学校を卒業してから同期生と一緒に開拓伝道を始めました。教会の名前を「命の教会」と名付け、私は宣教師として出かける前までこの教会で奉仕することを約束しました。

でも、心の中では礼拝堂もない、教会員もいないこのような弱々しい教会が自力で生きて行くのは無理だと思いました。

 やはり、1年半経ってから教会に危機が迫ってきました。共に協力して来たLee牧師が、卒業した神学校から良い誘いを受けました。

「アメリカの神学校に留学して博士学位を取って欲しい。戻ると教授要員として採用する。費用に当たる全額を学校側が奨学金で払う。」Lee牧師は、首席で卒業するほど優秀な学生だったので学校からそう誘われたのです。 

少年の時から彼の夢は留学して勉強する事だったので、やっと神さまが自分の夢を叶えさせて下さるのだと思って大喜びしました。でも、心に引っかかるのは生まれたばかりの教会でした。そこでLee牧師は、「自分が戻るまで教会を守ってください。」と私に頼みました。しかし、「宣教師として出かける前まで」と約束した私の計画を変えることはできません。生まれたばかりのこの小さな教会をどうすれば良いのか。私たちは、しばらくの間迷いましたが、すぐ合意しました。

「新学期に合わせ、急いでアメリカに行かなければいけないから、教会を閉めましょう。

それを教会員には来月発表しましょう。」と。

ある土曜日から祈り始めました。「神さま、この小さい教会への奉仕も残り僅かしかありません。少ない人数でしたが、1年あまりの奉仕は楽しかったです。しかし今は少し寂しい気持ちです。」祈りが終わるやいなや、神さまの御言葉を示され、たいへん感動しました。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」(イザヤ書558節)

 そしてこの教会に対する、私たちには分からない神さまのご計画が別にある事を強く確信しました。

 1週間後、Lee牧師から電話がありました。「学校から新しい通知がありました。直接アメリカへ留学する代わりにインターネットで勉強する課程に登録しなさいと。しかし年2回、夏休み、冬休みには必ずアメリカの神学校に出席してセミナーに参加する過程です。」と。

Lee牧師は、「留学できないことは残念ですが、あまり悪くはない通知です。」と言われました。その経験を通して、何よりも神さまは、教会を守り維持することが神さまのみこころであることがはっきり分かりました。

 

それからこの「命の教会」の信徒の不治の病気が癒されたり、学校の暴力クラブに入った女子中学生が模範生になったりする奇跡的な出来事が連続的に起こりました。(後でこの女子中学生は大学生となって高尾キリスト教会の祈祷会に来て、一度証しした事もありました。)

それから教会の人数もだんだん増え始め、開拓伝道を始めてから4年目になった時、新しい会堂を購入するまでに成長しました。

それから私と私の家族はこの「命の教会」から日本に派遣されるようになったのです。

今日も、生きておられ、助けてくださる神さまに感謝しています。

「人は心に自分の道を思い巡らす。

しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言169    

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2012年4月 (NO.160)

《 キリスト教で云う罪とは何か? 》 

神様から見た人間の罪はいろいろありますが、その一つである「心の罪」についてお話しします。

今までに「教会に行きませんか?」と、誘われた方々は多いと思います。

でも、多くの方々の「教会になんか行きたく無い!」と云う理由の一つに、教会に行くと、牧師さんから「あなたは罪人だ!罪を改めなさい!」と、云われるのが嫌だから!があります。「自分は今まで罪を犯した事はない、他人に迷惑を掛けた事も無い、ましてや刑務所に入った事も無い!」と云います。その意味ではよく分ります。

只、「罪を犯した事が無い!」と云う、其の「罪」とは、人間社会における「罪」の事で、人間が作った“法律違反”と云う「罪」の事です。その意味では、私も、又多くの普通の生活者の方々は法的な「罪人」では無いでしょう。

我々、一般生活者の多くは、他人を騙したり、傷つけたり、殺したり、は無いです。でも、それは単に人間が作り、定めた法律違反をして無いと、云う事であって刑務所に入る程の悪い事はしてないと云う事です。

勿論、聖書の教えでも人間が作った法律違反は厳に是を戒めておりますし、立派な「罪」です。

では、キリスト教(イエス様の教え)で云うところの「罪」とは何でしょうか? 分りやすく云うと、それは、「心に持つ、又は 心に思った罪」の事です。

我々人間は小さく、弱く、その割には高慢で、愚かな者ですから、自分にとって不都合な事や不利になったりすると、人に危害を与えるまではしなくとも、心の中で他人を恨んだり、悪口を言ったり、極端に云えば、「こんな奴は死んでくれればいいのに!」と、思ったりします。そんな経験が、(私も、皆さんも)あるでしょう。実際には心で思っただけで、表面的には何もしてはいませんが、神様から見ると、「心に思った!」その事が立派な「罪」なのです。

つまり、「人間世界の法律上の罪」と、「神様の眼から見る罪」とは次元が違うし、目線が違うのです。「心の罪」は神の世界の法律では立派な「罪」なのです。

(人間社会の法律では「心に思っただけ・・・」では、裁かれませんし、罪になりません)ですから、多くの人間は、神様の眼、基準から見ると、「罪人」なのです。人間には相手の心の中は見えませんが、神様にはお見通しなのです。

教会の牧師さんの云うところの「罪」とは、神様に対する自分の心の「罪」です。実は、この様に偉そうに云う私も、まだまだ未熟者で相変わらずの罪深い者です。では、どうすればよいのでしょうか?どうしたら救われるのでしょうか。

神の御子なる、主イエス様はこのように云っておられます。「わたしを信じるなら、あなたの罪を許します。わたしは、あなたの今までの罪と、これからも犯すかも知れない罪の為に(天の御父・神様に対しあなたの罪を許してくださるように)あなたの身替りの十字架刑を受けたのだから・・」と。人間は、小さく、弱く、罪深い者です。また、病気や、

トラブルを抱える生き物です。この世に生きていて問題の無い人は一人もおりません。

教会に来て、ご一緒に、神様(イエス様)のお話に耳を傾けませんか。心が安らぎますよ。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。… 」(マタイの福音書1128)       

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2012年3月 (NO.159)

《 人生で一番 大切なこと 》  

私達の教会の藤田牧師は、今年就任50年になります。半世紀―これは大変な時間です。

生涯を神に捧げてこられました。私が近くにいて思うことは、牧師はまさに『祈りの人』だということです。祈りは何の為でしょうか。

皆さんも神社・仏閣でお祈りをされるでしょう。苦しい時の神頼みもあるでしょう。でも普段は、神も仏もあるものか!なんて言いながら生きていませんか? 

牧師はあらゆる機会に祈っておられます。その姿を通して私達も祈りの大切さを学びます。私も朝夕祈ります。神様とつながる為です。教会には、『祈祷会』があります。自分の祈りもしますが、多くの人々の為に祈ります。

天地の創造主である神を崇め、病気や人生の重荷を持つ人々に神の御心が成るように祈ります。美しい自然を造り、生き物に命を与え、愛をそそいで下さる神様を知ってほしいのです。

大昔エデンの園で神様と幸せな関係にあった人間の祖先アダムは、自我や欲の為に神に背を向け、この世で自分が主人公の生き方を始めました。時代は流れてもアダムの子孫である私達は、自分の力を頼りに自分だけを信じ、この世の成功者たらんと頑張ってきた訳です。

でも金や地位、目先の損得に迷い、競争で自分を見失い、生きる自信をなくし、もう疲れた!生きているのがつらい!と、心を閉じてしまう方も多いのではないでしょうか? 

私達が神から離れる時、サタン(悪魔)が近寄り、甘い誘惑で私達の目を曇らせ、神様が見えない様に企むのです。誰でも人生を幸せに、豊かに暮らしたいと思っていますが、世の中ますます混沌としています。

新聞、TV、悪いニュースばかりではありませんか? そんな中で自分しか頼れない、自分の力でしか生きていけないと思う生き方に孤独な不安がありませんか? 

そんなあなたにいつも寄り添って下さる方が神様です。『見えないけれどもあるんだよ』

「星の王子様」も言っています。神様は、私達に神の御心を知り、受け入れ、神に導かれる生き方を望んでおられるのです。

私も還暦を迎える迄の60年大きな失敗に迷い、心の罪に悩み、神様を無視し続けた1人でした。60の角を曲がった時「このままでは地獄行きだなー、自力では悟りなど出来ない、人生を善く全うする為に自己中心で欲に執着する生活を悔い改める為にも神様に委ねよう。」と思いました。その時、心は安らぎ肩の力が抜けました。重荷を神様が持って下さったと、後になって分かりました。

今常識となっている『科学万能』の考え方を横に置いて、いつも私達と共にある方、イエス・キリスト(救い主イエス)を祈りの中で心に思ってみたら如何ですか? 

祈りは肉眼では見えない、科学では分からない神様を知る唯一の方法です。神に従い、委ねる生き方の中に心の平安、喜び、感謝・・神様の恵みを感じられることでしょう。

人生で一番大事なことは、私達を愛し新しい命を下さる神様に出会うことです。

神は『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』と言われました。朝夕心静かな祈りの中で、神の平安が与えられていることを心から有り難く思います。教会へあなたのお出でをお待ちしています。

 『 慈しみ深き 友なるイエスは 我らの弱気を知りて憐れむ

悲しみに沈める時も 祈りに応えて慰め給わん 』新聖歌209『慈しみ深き』から    

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2012年2月 (NO.158)

《 隣り人を愛する 》 

「やさしい」という言葉には、何故か心ひかれるものがあります。その訳を、個人的には愛が「やさしさの源泉」となっているからではないかと思っています。愛のある人から発せられる視線には、ほのかに温もりが醸し出されているようにさえ感じられます。

それがどうしたことか、近ごろは温もりのある視線に触れることがめっきり少なくなったように思われます。そればかりか最も愛に満たされている筈の肉親間においてさえ、愛とは真反対の行為である傷害、殺人など、甚だ不幸な事件が頻発する悲しい現状を認めざるを得ません。

戦後で食糧事情が大変悪く、わずかのご飯を分けあわなければならないような困窮した経済状況下にあった時でも、互いに家族を思いやり、食を奪い合って争ったりすることはありませんでした。今は亡き私の母が「お父さんは、自分は食べないで畑の生茄子をかじりながら働いていた。」と言っていたのを思い出しますが、物が豊かなこの時代に愛を基本とする人間関係が崩壊しているのは理解に苦しみます。

愛が行われるためにはその前提条件として、愛を行う側に自己犠牲、すなわち何らかの痛みが伴います。物が不足していた時代に愛豊かな生活があったということは、物不足が継続する中で、忍耐が養われて人格が陶冶され、愛ある精神が培われたということでしょうか。その反対に、物質豊かな現在は、精神鍛錬の機会に恵まれないまま、愛のない精神的貧困の社会が醸成されたということになるのでしょうか。

聖書に、皆さんもご存知の「自分と同じように、汝の隣人を愛せよ。」とあります。

私たちは、ともすると最も大切にしなければならない肉親或いは隣り近所といさかいを起こしがちです。お互いが自己主張ばかりしないである程度の痛みを分かち合うならば、平和で仲のよい生活が保証されると思うのですが。

聖書は、隣人とは誰かについて、たとえを用いて次のように述べています。

「ある旅人が強盗に襲われて衣服を剥がれ、半殺しの状態で路傍に倒れていた。そこに、たまたま祭司が通りかかったが、見てみぬ振りをして反対側を通り過ぎて行った。その次の人も同様であった。その次に通りかかったサマリヤ人はかわいそうに思い、応急手当を施して宿屋に連れて行き、介抱した。翌日、費用を負担し『この人を見てやってください。余計に費用がかかったら帰りがけに私が支払います。』と言った。」(ルカの福音書1025節以下)。

当然のことながら、ここでの隣人について聖書は、「強盗の被害者に哀れみをかけてやった人である。」と教えています。私は、ある入学試験の英語長文読解問題でこの箇所に出会い、感動したのを今も鮮やかに憶えています。

ここから学ぶ隣人の本質とは、ただ単に親しい人にとどまらず、見ず知らずの人であっても「自分がしなければならないことをするべき対象である。」ということが解ります。 今一度、隣人愛という観点から自らの人間関係を考えてみてはいかがでしょうか。    

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2012年1月 (NO.157)

《 心の中の罪の清め 》 

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第1189節)

皆さんは心の掃除をしていますか、苦しみや妬みや自己嫌悪等ちゃんとさっぱり洗い流していますか。

罪とは苦しみや妬みや自己嫌悪などを心の中に貯め続けている状態の事も指します。

みなさん、教会にきて神様の前に罪を言い表し、キリストの許しを頂いて心を清めませんか。今、四苦八苦していることがあれば高尾キリスト教会にきて、牧師先生や教会員に相談してみませんか。そんな事を言っている私は、ある携帯電話会社で働くサラリーマンです。今は元気で働いていますが、一生に何回かは危機的状況に追い込まれる事があります。私の場合のそのひとつは「強迫神経症」という病気に罹ってしまった事です。

強迫神経症とは、自分が恥ずかしいとは思いながらも、ついつい心配で確認行為を何回も行ってしまう病気の総称です。

例えば、不潔恐怖というのがあります。手を洗っても洗っても自分の手が汚いのではないかと思い何分も手を洗い続ける病気。私の場合は食べ物に埃や異物が付着しているのではと心配になり、食べ物を食べられなくなる症状が続きました。

あるいはガスの火を消し忘れたのではないかと不安になり、何回も確認を行うとか、家の鍵をかけ忘れたのではと何回も確認を行う行為も「強迫神経症」に当てはまります。

この病気に罹ってしまうと、心の休まる時間がありません。いつでも心は何かについて心配しているのですから。仕事を続けるのが困難になり、休職して実家のある岡山に帰って療養を試みましたが一向に治る気配はなく半ばあきらめ気分で八王子のK病院に入院して治療を行うこととなりました。

休職の間は収入が殆どない訳ですから、妻は最悪の場合、家屋を手放す事も考えていたようです。妻にも子供達にも辛い思いをさせました。職場復帰まで1年半休職しましたが、幸い解雇には至りませんでした。

病気になる前は、どちらかと言えば仕事一筋型の人間で、幾分周りからも認められ始めて、自分が高慢、鼻高々になった頃でした。そうした心の隙から病魔が入り込んだのだと思っています。意気揚々と闊歩していた自分から心の病で入院という天と地の生活を一瞬にして味わいました。こんな私でも、復帰後、牧師先生は大事にして下さり、教会員の皆さんも変わることなく親切にしてくれます。

病み上がりの私に、ちゃんとイエス・キリストと教会は大事にしてくれるのです。私はやっと一つわかりました。意気揚々とか鼻高々とかそんな精神状態では人間というものは成長が止まり、体たらくになるだけだと判ったのです。

教会で、神様からの「注意事項」をちゃんと開いて、自分の胸に手をあて反省し、日々勤め励むことが大事なんだと。もちろん神様は「注意事項」だけを教えたがるだけの方ではありません。そこには慰めもあり、安らぎも待っています。

とにかく、高尾キリスト教会にいらして下さい、そして神様の前に自分をさらけだして下さい。そうすればあなたは清められ、幸せな心になることが出来ます。