2014年、教会員の証し


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2014年12月 (NO.192)

《 讃美しつつ 》

「この世の闇路を 照らし給う たえなる光の 主は来ませり 

主は来ませり 主は 主は来ませり」

クリスマスに教会で歌われている「諸人こぞりて」という讃美歌の歌詞です。

今から30年前、主人に誘われて、娘2人と一緒に初めて教会でクリスマスを過ごしました。何もわかりませんでしたが、この讃美歌を歌い、勇気と希望が湧いてきたのを思い出します。

その時、イエスさまの御降誕をお祝いすることがクリスマスの本当の意味であること、また、イエスさまが私たちの罪のために、十字架にかかって死んでくださったということを知りました。教会に誘ってくれた主人も、13年前に天に召されました。私は当時、毎日のように泣いて苦しんで、主人にしがみついていました。とても辛くて、自分を見失ってしまうほどでした。しかし、イエスさまは、そんな私にも希望を与えてくださいました。「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書316)

救い主イエスさまが、この世に来てくださったので、私のような罪深い死ぬべき人間が救われて、永遠のいのちをいただけるようになった。なんと、ありがたいことでしょう。

この世での主人との別れも一時に過ぎず、また天国にて必ず会えるということが、私の心の慰めとなりました。地上にいるときも、この世を去るときも、平安と大きな希望が与えられているという、これ以上の幸せはないと思います。

 今年の3月、長年勤めていた職場を定年退職しました。65歳まで心身共に守られ、仕事を続けることができたのも、教会の皆さまのお祈りに支えられていたからです。感謝の気持ちで一杯です。この4月からフリーの身となり、思いっきり聖書を読む時間が与えられています。難しいところも多いですが、少しずつでも理解できればと思っています。これからの私の余生、神さまを讃美しながら、精一杯生きていきたいです。

「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」(マタイの福音書416) イエスさまの御降誕の喜び、クリスマスの恵みが、一人でも多くの方にありますよう祈っております。ぜひ教会へいらしてください。

お待ちしております。御一緒に心から、クリスマスソングを讃美いたしましょう!

私の大好きな詩人、水野源三さんの「母」という詩を心に留めていただけましたら幸いです。        

          

          母

ガラス戸越しに

雪は降っているが

暖かい部屋に

やわらかなふとんで

眠るみどり子を

見守る母は

感謝だ 感謝だと

涙ぐむ

       

風が吹き込む

寒い馬小屋の

そまつな馬槽に

寝かされていた

御子イエスを

思い母は

感謝だ 感謝だと

涙ぐむ

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2014年11月 (NO.191)

《 特別伝道礼拝で感動したこと 》

今年も高尾キリスト教会では、秋の特別伝道礼拝が行われました。毎年、この時期に他の教会から牧師を招いて、教会に初めて来られた方や求道中の方を対象にメッセージをしていただきます。今年は、駒ケ根アルプスシオン教会の細田裕介先生が『大切なあなたへ』というテーマでメッセージをしてくだいました。

聖書の箇所は以下の二か所です。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

(イザヤ書434節)

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたの

です。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」                      (エペソ人への手紙210節)

一.人間は、神さまにすべての人が尊く造られた存在であるとともに、神さまに愛されている

存在であると話されました。しかし、人間は、それを知らないから互いに傷つけあったり争い合ったりすることがあります。学校では、「うざい。消えろ。」などという言葉が友だちの間でいわれているそうですが、存在を無視したことばは心に深い傷を残します。青少年の自殺にはこうしたことが根底にあると思いました。

二.「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」と、聖書は生きる目的にも触れていると指摘されました。私たちは、人に良いことをしたとき、困っている人を助けたとき、

またそうした話を聞くとき、何とも言えない温かさを感じます。逆に、人を憎んだり、許せな

いときは落ち込んだり、自分で自分が嫌になってしまいます。人生の目的をどこにおくか、こ

れは哲学者だけの問題ではありません。実は、私たち一人一人の大切な問題です。あなたの目

的はいかがでしょうか。

.どんなに高価な骨董品でも、その価値がわからなければ我楽多同然に扱われてしまいます。しかし、見る目のある人には大切なものとなり、価値が認められます。そのように人も神の

手に握られたとき、尊い存在として生きると話されました。

人は神さまの光の中でのみ本当の存在価値があるということだそうです。私は、本当にそうだなあと思いました。そして、メッセージを聞いているうちに、真の神さまに愛されていることを実感し、生きている喜びがあふれてきました。それは、私の心も乾いていて、このようなメッセージを求めていたことに気付きました。実は先日、ある若い方の自殺を耳にして、何故、自らいのちを落とすのか、真の神さまに愛されていることを理解していたらと無念でならなかったのです。

神さまの愛について、あなたはもっと知りたいと思いませんか。是非、教会においでください。一緒に聖書から学んでみませんか。              

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2014年10月 (NO.190)

《 しあわせとは 》 

 暑かった夏も終わり吹く風もさわやかになってまいりました。そろそろ山の紅葉の便りが聞かれるようになります。この1年も後半に入り少しばかりほっとした気持ちも出てきました。私自身も人生の後半、振り返ってみるといろいろなことがあったなと思います。これは私だけでなく誰もが感じることだと思います。でも、よくここまで来れたなと今は感謝の気持ちでいっぱいです。と言うのは神さまに出会えたからです。

 誰もがそうだと思いますが、日々の生活の中では楽しいことよりも苦しいこと、つらいこと、悲しいことの方がたくさんあります。そういう中にあったとき教会に誘ってくださる方がいてついて行きました。温かく迎えていただきうれしかったことを覚えています。

でも、聖書は難しく、自分の苦しみや悩みと結びつかず足踏み状態の時間がずいぶん続きました。キリスト教では神さまに祈りをささげますが、その祈りにおいて神さまとつながって来られたのではと思いますし、キリスト教には離れられない何かがあると感じていました。日々の生活で職場での人間関係と仕事の難しさのこと、上の子が大学卒業時、就職氷河期となりなかなか仕事が決まらずしばらくぶらぶらしていました。やっと決まっても転々と仕事を変わらざるを得ない状況になり、いつも履歴書を手元においている姿に哀れさを感じて悩みました。私自身のことなら何とでも思いようがありますが子どもの将来のこととなると簡単に割り切ることはできませんでした。また、昨年は私の健康上の問題が起き大きな手術を受け、半年過ぎて少しずつ体力がついてきたと思っていたら地方で一人暮らしをしている父の看病で、片道四時間のところへこの三か月で四往復しました。

身体的には少々きついのですが、何とか過ごしています。

 こんなことを書くといやいや私はもっと大変だったと思われる方がいらっしゃると思います。人間ひとり一人の苦労は千差万別で、比べることは出来ないと思います。また、人から見て小さく見えても当人には我慢ならないこともあるでしょう。

 最近読んだ聖書の解説の中にこんなことが書いてありました。『「しあわせを見つける」という表現の原語は「良いほうを見る」という意味です。人生の大きさを10とするとき、89が否定的な現実だとしても、12の希望は残っています。しあわせを見つけるとは、すでに失った89ではなく、まだ残っている12を見ることです。希望があってもそれが見えなければ、しあわせを味わえません。ですから、良いほうを見る訓練をしなければならない。』と。そして、これは聖書の『見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。』(伝道者の書51820節)に対するものです。神さまは労苦でさえも喜ぶようにされ、彼の心を喜びで満たされる、と約束してくださっています。散歩に行きますと今は黄花コスモスが満開です。群生していると本当にきれいで、思わず立ち止まり見とれてしまいます。そして、神さまはこんなに綺麗な花を用意してくださっていると思うとき、しあわせな気持ちになります。一つでも多くの喜びを見つけられたとしたら幸せではないでしょうか。聖書を紐解き、日々の生活の中から喜びをともに見つけませんか。お待ちしております。         

 

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2014年9月 (NO.189)

《 あなたの存在は間違いではない 》

 旧約聖書イザヤ書434

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

新約聖書ヨハネの福音書316

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

これはクリスチャンが大切にしている聖句です。ちなみに「御子」はイエス・キリスト」を、「世を愛された」の世は人間を指します。

 私たちは好むと好まないとに関わらず、望んでいない人生を送っていませんか? 聖書の使徒の働き172627節「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは神を求めさせるためだ!」とあります。人は環境を選べないし、親を選ぶこともできない。生まれてくる国や時代や文化的背景を選ぶことできないのです。しかし私にこの人生を与えてくださった方、創造主の神は私を愛し、私を慈しみ私のことを大事に思っておられます。その方から「さあ、このカード(環境)で自分の人生を勝負してみないか」と言われこの世に私が生まれて来ているとすれば、私がこの世に存在していることは絶対に間違いじゃありません。おっちょこちょいの私の言動には間違いがあるかもしれませんが、私の存在そのものは間違いではありえない。なぜなら、神は絶対に間違いを犯さないからです。自分の思うようにならないような人生も神さまは悪意を持つ存在ではなく確実に私たちを愛してくださっているのです。私はこれまで人生に失望しこの世から逃げたくなるようなことが幾度となくありました。しかし「私は愛されて、この世に生を受けた。それゆえに私がこの世に存在していることは絶対に間違いじゃありません。」ということを知った私は今毎日を嬉しい気持ちで感謝しながら生きて来れています。神さまにあって喜べることが私にとって大きな福音となっています。

「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」実は私たち人間誰もが「神に愛されている、ということに気づく」ことを神は望んでおられるのです。

 「教会なんかに行ったらクリスチャンにされてしまうから、私は行かない!」と警戒する人はたくさんいます。しかし教会に入ったぐらいではクリスチャンになれません。ガレージに入ったからと言って自動車にはなれません()。聴いて納得しない限り、信じることはできません。信じるためにはまず聞くことから始まります。私は「キリストはどうして世界中の人々にこれほどまでに信頼、信仰されているのか?」という疑問から教会の扉を叩きました。人それぞれ疑問、悩み、不安などありますよね。まず教会の会堂に入って聖書に、牧師に聞いていただきたいと思うのです。

 

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2014年8月 (NO.188)

《 永遠のいのち?! 》

 死にたくない! 死ぬのが怖い! と誰しも思っています。だから病気にならないよう健康に留意します。健康食品の宣伝なども声を大にして健康ブームを煽っています。

 ただ、その場合肉体の健康だけが意識されているようです。いわゆる健康オタクです。一方で心の闇に苦しむ人も多いのです。生活や健康問題のほか人間関係・家族関係に苦しんでいる方が多くいます。先月、この『ひとつぶの麦』で永遠のいのちのお話しがありわたしも感動したひとりです。この冬兄を亡くし、本人の希望でお寺に納骨しましたが本当に幸せな人生だったか、最期の時不安はなかったか?安心を与えられなかった悔いが残りました。

 生前『お前たちの世話にならない』と頑固に言っていた兄も日記風のメモには、神仏への信仰をしながらも何も良いことなど無いとつぶやきの文章を残していました。

 『唯一まことの神を信じる者には、永遠のいのちが与えられる。』と生前に話せばよかったのに・・と後悔の想いです。

 高齢者にとって肉体の衰えは避けられません。私も古希になって思うに任せない部分が増えています。ただ心の平安、生きる喜びが与えられているのが何よりありがたいのです。

 定年のときまで毎日が戦いだと思っていました。男が社会に出たら7人の敵アリで毎日戦場に行く積りで肩肘はって出かけていました。そして戦い疲れ、酒で誤魔化しながらも心は空しさを感じていました。そんな中で自分の人生にとって何が大切なのか、何が幸せなのか・・考えるようになりました。

 定年になって家内の誘いもあり教会へ通うようになり今までの罪を悔い改め、洗礼を受けました。神さまに出会い赦され心の重荷がおりました。イエス様の十字架の贖いで、心に安らぎが与えられました。

 元々私たちの命(霊)は神さまから与えられたものです。神との交わりを持つ特別な存在として造られたのです。私の心の中の霊が神である聖霊に導かれ、肉体が滅んでも神の御国で永遠の命を生きることができます。

 イエス様は『自分の宝は、天にたくわえなさい』と言われます。(マタイの福音書620節) この世で自分の為の成功、名声、権力、財産に重きを置かない生き方です。この世に執着せず天に宝をたくわえていけば神の恵みで永遠に生きる希望が与えられます。

 見えない神さまを実感するには自分の霊を眠らさず、神さまと向き合い、静かに御心を聴き、委ねることです。日頃忙しいだけの心の中に独り自分の心(魂)を省みるときを持つことです。

時々心の闇が現れて自己中心になり、この世の欲に誘惑されます。そんな自分を恥ずかしく感じることもあります。でも神さまは私たちを大きな愛で包んでくださっています。

  『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』

                        (ヨハネの福音書1125節) 

 自然には大雪の冬もあり酷熱の夏もあります。晴れる日、雨の日もあります。花は四季それぞれに咲きます。豊かな自然の中に私たちも生かされています。この世に悩み、不安、つらいものを感じておられるなら是非高尾教会を訪ねてみてください。神さまの恵みがきっとあります。

 

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2014年7月 (NO.187)

《 この世のデザイナーであられる神  

 私は「キリストはどうして世界中の人々にこれほどまでに信頼、信仰されているのか?」という疑問を持ちこの教会の扉を叩きました。解ったことは、私が今まで見聞きして来た神は、実は人間が作った神(偶像)だったということ。人間の宗教心、人の罪責感、恐怖心が作り出した神だったということです。聖書が語る神さまはまったく異なっています。人が作った神ではなく、人をお造りになった方、すなわち私たちの魂、命のルーツ、天地万物の創造主が神なのです。これが私の疑問に対する回答だと確信しました。聖書を聞き読むに従って人間を含めた自然界は創造主なる神がお造りになっていることを身を持って実感するのです。自然の営みをよく観察すると神さまは数多く私たちにご自分の存在を示しておられます。

 私は子どもの頃「おっちょこちょい」「素っ頓狂」などと言われてました。要するに落ち着きのない慌てん坊なのです。現在もそうです。旅行の記録をしようとハイビジョンカメラを事前に購入していたのですが、なんと当日、充電器を忘れてしまったのです。空港カウンターで妻の私に対する怒声がしばらく響き渡ったのは言うまでもありません。こんなことは数知れずです。そんな私でもうっかりして心臓止めてしまった、とか、ついうっかりして息するの忘れた!などと言うようなことはありません。なぜならば、こういう命に関わるような活動は自分の意思とは無関係に動いているからです。そのようにプログラムされているのです。

 ところで飛行機は10万個の部品でできているそうです。部品それぞれは空に浮かばない物ですよね。しかし空に浮かばない部品を組み合わせてできた物がなぜ空を飛べるのでしょう? ご存知のように技術者、設計者の存在が空を飛べるようにデザインしているからです。人間ではどうでしょうか? 人間はおよそ65%の水分、あとは酸素、炭素、水素、窒素、カリウム、カルシウム、リン、鉄、亜鉛、銅、マグネシウムなどの物質でできています。これは土の成分と同じなのです。土のような物質が喋ったり動いたりするんです。非常に不可解ですよね。人間技ではありません。これは知識者、設計者、デザイナーがおられることを自然が示唆していると思いませんか? 絶対的知識者がいるのです。この絶対的知識者、プログラマー、デザイナーのことを聖書では神と呼んでいます。

 聖書は語っています。創世記27節「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」バカバカしいと思われるかもしれません。聖書の使徒の働き1341節に「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。」とあります。人間であれば荒唐無稽(でたらめなこと)と感じるのは、ある意味当然かもしれません。しかし天地を創造した知識者・創造主がおこない、言われていることです。不可能ではないことを人間は知るべきなのではないでしょうか? クリスチャンはどのようにしてこの知識者・創造主の神とつながることが出来たと思われますか? イエス・キリストです。イエス・キリストを救い主として信じることによってクリスチャンは神に帰ることができたのです。どうぞあなたもイエス様を救い主として信じてください。

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2014年6月 (NO.186)

《 永遠のいのち 》 

私の母は13年前、94歳でこの世を去りました。骨折をきっかけに約10年間、近くの病院とその付属の保健施設に入院して、そこで最期を迎えました。母は地方に住んでおり、あまり見舞いに行けませんでした。兄からの連絡で、風邪から肺炎になり、今度は駄目との医師の診断を知りました。急いで見舞いに駆けつけた時は、母は未だ会話もでき、最後「死ぬのが怖いよ」と私に小さな声でつぶやいたのを忘れることはできません。「母さんは悪いことをしてないから大丈夫、いいところに行けるよ・・」というのが精一杯でした。それからは人の死というものについて、よく考えるようになりました。

 母は父の本業を補うために、畑を耕したり雑貨屋をしたりして7人の子どものために一生を

捧げた、無口で我慢強くやさしい人でした。そんな母に私は、これといった親孝行もしないままの別れとなりました。その後、妻と共に教会に行くようになり、そこで「永遠のいのち」と

いう意味を聞いた時、もっと早くこのことを知っていれば母に伝えて安心して天国に送り出す

ことが出来たのにと残念でなりません。

 聖書には、「人間は神のかたちに似せて創造」され、はじめは罪も持たず、神と正しい関係に

ありましたが、人間の先祖アダムとエバが神に従わず、戒めを破り、罪を犯したので、人に死

が入り、罪の性格をもって生まれることになったと記してあります。

世間では、法律違反にならなければ罪を犯したことにはなりませんが、聖い神さまは人々の

持つ高慢や不親切、ねたみ、そしり、悪い考え、どん欲、親に逆らう、かげ口、盗み、姦淫、

不品行など、人の心から出て来るもので人を汚すものを、罪としています。

神は、神からの一方的な愛と恵みによって、私たち人間の罪のあがないのために、神の御子

イエス・キリストを遣わされました。それは神が、そのひとり子を犠牲にされるほどに、この

世を、私たちを、愛してくださったからです。

イエス・キリストは十字架で私たち人間の罪を、その身に負われ、その身代わりの刑罰を受けてくださいました。そして三日目に死からよみがえられました。

このことは聖書に詳しく述べられていますが、このイエス様の復活によって、イエスが神の御子であること、また死に打ち勝って私たちのために救いを成し遂げてくださったことがわかります。

イエス・キリストの十字架と復活を信じるときに、私たちの罪は許され、神の子どもとされ

『永遠のいのち』が与えられるのです。死のからだから救い出してくださるお方が、主イエス

・キリストです。死んで、その先どうなるか分からないことほど、不安なことはありません。

聖書で「死に打ち勝ったイエス・キリスト」魂が永遠に生き続けるというメッセージは、私

たち現在を生きる者に希望が与えられます。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる

 者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

(ヨハネの福音書316節)

聖歌258番「今はただイエスを信じ、喜び限りなし」 現在の私ですが、自分の両親に、このことを伝えたかった、本当の親孝行をしたかった・・・思いです。

 皆さん、気楽に教会へおいでください。 

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2014年5月 (NO.185)

 みんな仲間だ!  

 私は現在54歳です。3人の子どもがいますが、今年、真ん中の男の子が無事就職し、残す所、後1人の末娘が大学に通い始めました。みんな仲間だ。54になって何故このような原始的な言葉を今更、大事にしたいか聞いてください。

1.職場のきびしさ

私は若い頃コンピュータプログラマでした。60歳の定年には延長の嘱託社員とはならず、八王子の地でソフトハウスを起こして独立したいと思っています。

その為、10年ぶりにコンピュータ関連の職場に復帰しましたが、転職してきた上司と全く馬が合わず、とことん虐げられました。上司は、何と、部内に私を追放するグループを密かに作り、散々悪口を職場内の管理職にばらまいていたのです。

詳しくは「不法労働行為」という刑法まがいの手口に落ちようとしていました。

上司は、自分の一身上の秘密を私が知った為、職場に居て欲しくなかったらしいのです。私が「不法労働行為」を会社に報告した為、一時は大騒ぎになりましたが、「証拠不十分」と「部内

に蔓延する「他人事」のおかげ」の理由で「お咎めなし」となったあり様です。

1年間の、「緊張状態」と「不正に対する怒り」で、脳が「興奮状態」に入ったまま、寝ても戻らなくなってしまいました。

精神科の先生によれば、「この状態が続けば、体と精神がボロボロになるので、鎮静剤を飲んで、少しゆっくり、楽しくしなさい。」との事で、丸1ヶ月おとなしくしていました。5月の連休明けから平常業務に戻れると思います。

2.根っこを見て柔らかに生きる

一方、私の知り合いの、医療関係者を中心とする団体が中野にて「健康祭り」という、みんなが健康で幸せになるにはどうすれば良いかを語るイベントが有りました。そこでのお医者さんが言うには、「現在の自分と、理想の自分という二つのアイデンティティが人には存在し、理想の自分に向けて努力するが、頑張ってもなかなか理想に届かない。いつしか自分に×を付けていて、そして最後に自分の心に逃げ場が無くなり、人のせいにして、ストレスをためて、やがて病気になる。自分特有の観点や基準点を見直して、心というものを大事にしなければいけない。心を大事にする時代が本当にやって来た。」と言っていました。この先生は、「永遠の命」とは、生きて、新で、土になって他の声明のために存在し、水になってまた、動物になって生まれてくる。」ことだと言っていました。

聖書のいう「永遠のいのち」とは、イエス・キリストを信じるクリスチャンに与えられる神の特別な祝福です。

3.生き甲斐

 この世の中、もはや自分が何故、病気になったり苦労するかは、自分だけが原因では無いということをしっかり認識して、地球全体、日本全体、そして自分自身、総て繋がっていて、みんなを大事にし、助け合うことが結局自分を大事にすることだと最近強く感じてきました。

そのためには、「争うことでの自滅」ではなく、「みんな仲間だ!の精神」なのです。

 クリスチャンとして、あなたの生き甲斐は何ですかと聞かれたら、私は、神さまを心から愛し、また、周りの人々に対し、愛を実践することだと思っています。

 

  「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

(ローマ人への手紙1215節)

 

  「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、

すべての人が良いと思うことを図りなさい」                 (ローマ人への手紙1217節)

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2014年4月 (NO.184)

《 イースター(復活祭)について 》 

 多くの人が毎年1225日は「クリスマス」だと知っています。「クリスマス」は、「外国

のイエス・キリストという神さまの誕生日らしい」ということも知られています。

 では、「イースター(復活祭)」はいかがでしょうか。一般的には、あまり馴染みのない言葉

でしょう。この「イースター(復活祭)」は、クリスチャンにとってとても大事な行事です。

 2千年前、イエス・キリストが人間の罪を一身に背負い、十字架刑で死に、三日後によみがえられたことを記念と、記憶する日なのです。外国ではこの日、お店は休み、役所も休みとなる国がたくさんあります。「今年は420()です」。

 「人間が死んでから生きかえる!」通常なら信じられない話です。「それよりもこの信じら

れないことを信じている人がこの世に居ることの方が、もっと信じられない!」と、云った人

がいますが、世の常識、良識からすれば、最もな事です。でも、それはイエス・キリストが人間の形をした神の子どもだから可能なのです。(後日談として、この方もクリスチャンになった

と聞いております…) それでは、こんなに嘘っぽい、いいかげんな話を信じている多くのクリ

スチャンという人間は非社会的な変人なのでしょうか? いえいえ、国の法律を守り、税金を

納め、家族を愛する、ごくごく普通の人間です。名前は伏せますが、皆さんもよく知っている、

あの高名なお医者さんも、政治家も、哲学者も、科学者等の方々もクリスチャンです。また、

地球上の人口の33(20億人)がキリスト教の信者と言われていますが、不思議なことですね。

では、何故、こんなに多くの人々が復活というこの信じられない話を信じているのでしょう

か。それは聖書の話が、真理、真実だからです。(もっとも信仰心は、人間の知恵と努力だけで

は生まれません。神さまの助けがいります。)

 この復活について聖書(コリント人への手紙第一 151319)ではこの様に記しております(要約です)。「イエス・キリストが復活されなかったのなら、私たちの信仰も実質が無く、むなしいものです。もし、私たちがこの世にあって、イエス・キリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れなものです。」と。

 この復活を信じた初期のクリスチャンの多くは弾圧され、殉教の死を選んでいます。(江戸時

代の日本でもキリシタン禁止令により多くの信徒が殉教死している事をご存知だと思います)

何故、この弱く、小さな人間が死をも覚悟してまで信仰を守ったのでしょうかね…

 イエス・キリストの復活という、この不思議な話を、教会で直接お聞きになりませんか。

 心に安らぎが生まれますよ。

 

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2014年3月 (NO.183)

《 教会の奉仕を通して     

 私は、物心ついた時から親に連れられて教会に通っていました。小学生の私は、大人の礼拝とは別に、教会学校というクラスに出席していました。子どもたちの親が先生となり、イエス様のことを教えてくれる教会の中にある学校です。

そして私も成長し、現在2人の子どもの親になりました。今度は私が聖書を学び、教会の子どもたちに教えています。

 教会は、教会員の奉仕によって成り立っています。例えば、このように教会学校の先生を行うこと、他にも礼拝司会、受付、祈祷、ピアノの奏楽、昼食の準備など、それぞれの役割を分担し、責任をもって奉仕します。何を奉仕するかを考える時に、自分にはどんな賜物があるかと考えます。賜物とは、目上の人からたまわる(いただく)という意味で、私たちクリスチャンは、特技や得意なことを神さまに頂いたものと考えています。

私は他の教会員に比べると、賜物は少なく思えて、何をやっても人より理解も行動も遅くなってしまいます。ですから、今までは自分の力のなさから、様々な奉仕に対して、「無理です、できっこありません。」と拒んできました。しかし、私は最近ある聖書箇所に出会いました。このみ言葉によると、神さまのために働く者には、それに必要なものを与えてくださる、と約束しておられるのです。

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

(ローマ人への手紙828節)

他の教会員の方々は、積極的に奉仕に携わり、神さまのために躊躇することなく、働くことによって、一回りも二回りも人間的に大きくさせられています。皆、謙虚ですが、頼りがいがあり、輝いてみえます。

 私も歳を重ねた時、神さまに喜ばれる者になっていたいと心から願っています。教会の中では、本当に小さな存在ですが、これからは積極的に奉仕に携わっていこうと思います。神さまは私を支え助けて導き、様々な困難なことも乗り越えさせてくださるはずです。

教会奉仕の中には、讃美やゴスペルフラなどもあります。讃美とは、心から神さまを讃える歌(讃美歌)を歌うことで、ゴスペルフラは、動きは穏やかで、体全体で手話を用いて神さまをほめたたえる踊りをします。高尾教会ではこの奉仕を始めて間もないですが、メンバーも徐々に増えてきました。教会員が殆どですが、教会員のお友だちも加わり、30代から70代と幅広い年齢の女性で練習をし、神さまに踊りをささげています。

私は始める時、子どもがまだ小さく、練習にもなかなか出席できないので悩みました。しかし、練習はできる人が負担を感じることなく参加すればよい、という気楽さもあり、今は楽しいので、できるだけ時間を作って参加するようになりました。

ゴスペルフラの踊りを通して神さまを讃え、また幅広い年代の女性たちが集まる中で、その時の悩みを話し合い、神さまを中心に解決の道が与えられて、とても平安な時を過ごしています。

 今、疲れ苦しんで悩みをかかえている人はいませんか? 私たち教会員も同じ人間で、それぞれに悩みをかかえて生きています。しかし、それを信頼のおける仲間と分かち合い祈りあい、神さまの導きによって試練を乗り越えていきます。救いを求めている方、一度教会にいらしてみませんか? 毎週日曜の礼拝では牧師が聖書の説き明かしをしてくださいます。教会員一同でお待ちしております。

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2014年2月 (NO.182)

《 母を語る  

 今年正月2日、私の母は88歳でこの世の生涯を終えて天国に召されました。母は、体は小さいのですが大きい声の持ち主でした。道端で大声で名前を呼んだり、笑ったりする母を私は子どもの頃、恥ずかしく思ったときもありました。

父が交通事故に遭って、体が不自由になったときは、14年間も介護に頑張った強い人でした。しかし20年前、その父が亡くなってからは次第に心配性になり、心も体も弱くなっていきました。私たち子どもが成人してからも、帰宅が遅いと路地やバス停やタクシー乗り場まで出て待っている程でした。

 私たち家族がキリスト教宣教のために、日本に行こうと決めたとき、一番の心の重荷になったことは、独り暮らしの母のことでした。どうやって私たちの生き方を理解してもらおうかと悩みましたが、母は「あなたたちが信じている神さまは真実な方ね」と言って送り出してくれました。私たちが日本に来てから母は、私の妻の電話を楽しみにして一人暮らしの寂しさをまぎらわしていましたが、今から2年程前、初期の認知症を患って倒れてしまいました。

20124月のことでしたが、母の看病のために妻は1週間程帰国した折り、いよいよ日本に戻る日になって、母は「飛行機の切符を変えてもう1日一緒にいて欲しい、もう2度と会えないと思うから。」と小さな子どものようにしきりにねだりました。

妻はその時、「1日で大丈夫なの? 私たち家族はいつか永遠のところに行けるんですよ。おかあさんは永遠に別のところに行ってしまっていいの?」と言うと、母は「いや、私もあなたたちと一緒に暮らしたい。それにはどうしたらいいの?」と答えました。「おかあさん!地上でも引っ越したら住民票も移りますよ。これから天国の住民票を作りましょう。」母は、「言う通りにするから。」と言って泣きました。母のために信仰告白を捧げると安心した顔で「もう私は大丈夫。日本に戻ってもいいよ」と言ったのです。

一番可愛がっていた私の妻と別れたくなかった母でしたが、まるで別人になって、平気で座ったままの姿勢で別れを告げることができました。

イエス様を心に迎え入れてからの母は、神さまへの祈りによって、長い間の心配性がなくなりました。

 

 「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばす

ことができますか。

…だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、

これらのものはすべて与えられます。」   (マタイの福音書62733節)

 

 今は、母の名を呼んでもあの懐かしい声を二度と聞くことはできませんが、聖書の約束どおり、いつか天国の再会を期待しながら、その日を待ち望んでいます。ありがとうございました。   


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2014年1月 (NO.181)

《 子どもたちを怒らせてはいけません 》

 聖書に「子どもを怒らせてはいけません」という聖句があります。子どものためと思いながら子どもを苛立ててしまっていることは多々あることです。もう何年も前のことになりますが、

忘れられない出来事がありました。あるデパートで買い物をしていたとき、23歳の可愛い身なりをした男の子が1階のエスカレーターの前で地団駄を踏んで泣きわめいていました。母親らしき人は1人でどんどん上へ昇っていきます。私は思わず、その子の手を引いて後を追いましたが、その人は上へ上へと行ってしまい、6階の本屋の1隅で足を止めて雑誌を開き始めました。その男の子は「ママ大好きだよ、大好きだよ」と泣きながらたたずむばかりでした…。

 今頃あの子は小学校高学年ぐらいになっているでしょうか。いい子に育っていてくれれば…と気にかかります。あの時、一言「困ったことがあったら教会に来てネ。」と喉まで出ていた言葉が言えなかったことが悔やまれます。あのときの悲しい光景が、何年経っても私の頭から離れませんでした。そういう私も子どもが幼かったときは苦労しました。22歳で長女を、24歳で次女を授かりましたが、夫の転勤でいつも新しい土地で知らない人に囲まれ過ごしました。自由な時間が欲しくて悶々と過ごす時がありました。天気の良い日には次女をベビーカーに乗せて、長女をその脇につかまらせて、遠出の買い物をしました。美味しそうなものを一つ買って家に帰り、おやつに食べる事が楽しみでした。疲れて帰って迎える夕方、テレビの子ども番組を見せながら、台所に立つひとときは、ホッとした安らぎを覚えました。

 当時はファミレスもなくレストランに子どもを連れて行くと迷惑がられ、どこに行っても肩身の狭い思いをしながら、どうにか乗り切った、危うい感じのする子育てでした。

 今では、どこでも子どもたちの姿が堂々と見られ、赤ちゃん連れの集まりもあって昔とは随分環境が整えられたようです。

 しかし、子どもに対する虐待は、年を追うごとに増え続けています。世の中が便利になると、人の心は短気になると言われています。忍耐が必要な子育てには難しい世の中となりました。母親には忍耐が必要であると同時に楽しく子どもを育てなくては心が折れてしまいます。

 教会では、子どもの健全な成長のために日曜学校を開いています。素直に、我慢強く、人とよく調和して生きる人生は、その人の人生を幸せにします。親同士の暖かい交流も楽しいです。孤独な子育てで悩んでおられる方、人とうまくやれないと思っておられる方、一度教会に来てください。歓迎します。

 「『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、

このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように

神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。』

そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」

(マルコの福音書1014b~16節)