2015年  牧師のメッセージ

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   2015年8月 (NO.200)   キリストによる救いの完成


 「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」          (ヘブル人への手紙九章二十八節)

 聖書は旧約聖書と新約聖書から成り立っておりますが、上記の言葉は新約聖書か

らです。

 多くの方がご存知のクリスマス(キリストのお誕生)は初臨(一度目の来臨)と

言いまして、人々の救いのために働かれました。即ち、各地を巡り歩き、福音を説

き明かし、神の御前に自分の罪を自覚させ、悔い改め、信仰し、さらに救いに導く

働きをされました。

 信仰は、キリストのお言葉(聖書)に耳を傾け、真剣に受け止めるときに生まれ

てくるのです。

「蒔かぬ種は生えぬ」とありますように、神の福音も語り伝えられないなら、だ

れもまことの神も、救い主キリストも、永遠の命(真の救い)も、本当の幸せも知らないで一生を送ることになります。

 キリストは一人でも多くの方が福音を聞き、救われ、本当の希望と喜びに生きら

れるように反対に合いながらも続けられたのです。

聖書の示す「救い」は、キリストの十字架上の罪の贖いによって裏付けられた確

かなもので疑いの余地はありません。天に帰られたキリストがもう一度地上に来られます。その事をキリストの再臨と言います。

人々の救いのためではなく、すでにキリストを信じ、信仰に堅くたって、キリス

トによる救いを宣べ伝える奉仕や信仰に基づいた数々の働きに専念している人々や、キリストを信じているキリスト者全体の救いを実現するためにおいでになられるのです。これにはすでに天に召されたキリスト者の全ての方々も含まれているのです。

 聖書の約束は誤ることなく「確実に成就(実現)」されるのです。

「…このように、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです」

(ペテロの手紙第一  一章二十一節)

高尾教会では何時も地域の皆さまの上に、神さまの祝福がありますようにお祈りしています。


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2015年7月 (NO.199)          互いに赦し合いなさい



「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

   (エペソ人への手紙四章三十二節)

 同じ屋根の下に住む家族の夫婦間において、また親子の間に、兄弟姉妹間において、ぎくしゃくすることがしばしばありますが、まして他人との関係においては、なお更のことです。どんな社会や職場においても人間関係の難しさは多くの方々が経験なさっていることではないでしょうか。

冒頭の聖書のことばにより、自分自身の生き方、在り方を学びたいと思います。

「お互い親切にし」~「親切」について聖書の他の所では、神の「あわれみ深い」、キリストの「いつくしみ深さ」等と訳されている言葉です。即ち、「一緒にいても苦痛やきゅうくつさを感じさせない思いやりの心」と言えます。

「心の優しい人」とは、「あわれみ深さ」を表しており、他の人の苦境への深い共感と親身になって相手を気づかう心です。

「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」、神が罪深い私たちの身代わりに全く罪の無いキリストを十字架につけ、罪を赦してくださいました。(罪の贖い)。

キリスト者が他の人を赦そうとする根底に、キリストの十字架の死、罪の贖いがあるのです。キリストを救い主と信じ、キリストを愛し、心からキリストに従う者のみが赦しを確信し、互いに赦し合えるのです。「赦す」と言うことばは、「恵み」ということばから出ています。

ある聖書学者は、「イエス・キリストが私たちも他の人々を処遇(あつかい)されたように、私たちも他の人々を処遇しなければならない」と述べています。その結果、「互いに赦し合いなさい」と言う勧めがくるのです。聖書のことばは、神のことばですのでその教えは高度です。

なかなか実行できませんが、神は信じる者に力を与えて助けてくださいます。

皆様とご一緒に聖書の学びが出来ますよう、お祈りしています。

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2015年6月(NO.198)     人々を救うために自ら犠牲となられたお方


「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの(罪)のた

めに砕かれた。彼への懲(こ)らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷に

よって、私たちはいやされた。」      (旧約聖書 イザヤ書五三章五節)

 聖書は大きく二つに分けられます。旧約と新約です。この約とは、約束のことです。旧約聖書は、救い主イエス・キリストがおいでになる前の事柄が記されており、新約聖書は、旧約聖書において約束されておりました救い主の到来と言行が記されております。

 イザヤは旧約の中でも大変有名で、紀元前八世紀に活躍した預言者で、やがて来られるところのメシヤ(救い主)についての預言の言葉が冒頭のことばです。

あたかもイエス・キリストと同時代に生き、キリストの経験を目(ま)の当たり見た者のように描いています。

 「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」~キリストは三十歳から約三年の間、各地に旅を続け、宣教活動をされました。多くの病める方々、悪い霊に取りつかれた人々、悩み苦しむ人たち、亡くなられた人を生き返らせるなど、実に様々な悩み、悲しみ、絶望のどん底にある人々を助け、慰め、生きる力と喜びを与えられました。しかし、キリストのそのような働きを、また人々からの人気を喜ばない人たちがいました。当時の指導者たちです。彼らは難くせをつけキリストを裁判にかけ、民衆を扇動して言わせた。

「しかし、彼ら(群衆)はますます激しく、『十字架につけろ』と叫んだ。」

       (マルコの福音書十五章十四節)

罪のないキリストは、斯(か)く十字架に付けられましたが、神の御子キリストの死は、人間の罪を贖(あがな)う尊い死でありました。こうして人間の救いの道が開かれたのです。これは神の愛から出た神の御心でした。

「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も

救われます』と言った。」       (使徒の働き一六章三一節)

どうぞ教会にいらしてください。もっと詳しく学びましょう。


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2015年5月 (NO.197)  生けるパン


 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

                            (ヨハネの福音書6章12節)

救い主イエス・キリストは、様々なものにご自分をたとえてそのお働きを説明されました。

例えば、「わたしは世の光です」 (ヨハネの福音書8章12節) 

「わたしは良い牧者です」(ヨハネの福音書10章11節)等。

 ここでは、「わたしは、天から下って来た生けるパンです」と。「天から」~神のもとから来られたことで、ご自分が神そのものであられることを示し、このパンを食べる即ち信じる者は、永遠に生きるいのちを与えられる、との約束を受けます。主イエスは、ご自分を犠牲にして全世界の人々に救いの命を与えるために来られた唯一の救い主なのです。

 天地万物を創造された神を私たちは目で見ることは出来ませんが、神は永遠のご存在であられ、今も聖書(聖書は神のことば)を通して現代人に語り続けておられます。即ち、人間は神の姿に似る者として尊く造られたこと、人間だけがまことの神を知り、信じ、崇めることができること、相互愛に立ち、尊敬し合い、互いに助け合うことの必要を学びます。

 特に人間が神に似る者として創造されたことを考えるとき、殺人などは絶対にあってはならないことです。今日の世界を見るにあまりにも人の命が軽視され、殺害行為が行われていることは、まことにはらわたがちぎれるほど悲しいことです。イエス・キリストは言われました。「父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイの福音書19章19節)

 両親は何時の時代であっても尊敬し、愛すべきです。また隣近所は勿論、自分自身が接するすべての人々を自分が自自分自身を大事にし、愛するように愛しなさい、と教えられました。

 この心が世界中に広がったなら、世界はもっともっと明るく平和と喜びのある世界となるでしょう。あなたも教会にいらっしゃいませんか。

 さらに「生けるパン」について聖書からご一緒に学びましょう。

 


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2015年4月 (NO.196)     一粒の麦


「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。 」        (ヨハネの福音書12章24~25節)

 エルサレムはユダヤの祭りでにぎわっていました。その中にギリシャ人が何人かおり、イエスの弟子に「イエスにおめにかかりたいのですが」と紹介を依頼しました。弟子のアンデレたちは早速その旨をイエスに取り次いだのです。

これらの出来事は、異邦人のギリシャ人がイエスのもとに道を求めて行くという象徴的な場面である。このギリシャ人はその後どうなったのか、イエスにお会いできたのか、会ってどうしたのかということには触れていないが、イエスのもとに来たことを象徴的序文のように紹介し、イエスのことばに入っている。

ある聖書学者は、「ここには福音が全世界に伝播されることについて、ほのかであるが、最初の暗示が見られる。イエスは求めてくる魂を追い払うようなことは決してなさらない。そのみ前には、いつも戸が開かれている」と。

イエスが言われた「まことに、まことに」と言われた後の言葉は、一際(ひときわ)重要な言葉が続きます。そして一粒の麦の例えをもってご自身の犠牲の死について述べておられます。

イエスは人々に教訓を垂れ、病める者たちを癒し、悩み、悲しめる者たちを慰めることだけで終わるのではなく、罪人の罪を贖うという尊い使命がありました。


「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法(罪)から

贖い出し…」(テトスへの手紙2章14節)

「この世でそのいのちを憎む者」とは、イエスを信じ、生涯誠実にイエスに仕えることです。その人は、「永遠のいのち」に生きるという祝福を受けるのです。

皆さまの上に、神の恵みが豊かにありますように。

               


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2015年3月 (NO.195)   聖書のことば 神の赦しに入る道が開かれている

 

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

(コリント人への手紙第二 5章21節)


聖書によると私たちは、創造主なる神のみ心にかなわない道を平気で歩んでいました。だが、その歩みは神に喜ばれ、祝福される歩みではありませんでした。そのことは罪とも呼ばれています。神を神とも思わない人間に対し、神は罪を指摘するだけではなく、その罪をから逃がれ、解放される道をも備えてくださいました。即ち、罪のゆえに神と敵対関係にあった人間に対し、神は御子イエス・キリストの犠牲に基づく和解の道を開いてくださいました。この和解の福音とも言うべき神の御言葉がこの21節に明確に、そして力強く宣言されているのです。


神は「罪を知らない方を」~この言葉は、いかなる人間にも当てはまりません。主イエスを指し示しています。聖書は一貫して全く罪のないお方として述べられています。他の所では、「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪をもありません。」(ヨハネの手紙第一 3章5節)とあります。それは聖書全体の主張でもあります。自分自身が罪を持つ身では、罪を持つ身の人を救うことも身代わりになることも出来ません。罪の汚点が全くなく、完全に清い方だけが私たちの罪の身代わりになり得たのです。キリストの十字架の死はキリストが私たちの罪の代わりに死なれた明白な事実です。


イエス・キリストについての聖書に基づいた正しい知識と理解に立脚した信仰に立つとき、「この方にあって、神の義となる」のです。即ち、キリストの義を着せられ、罪赦され永遠の命に生かされるのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ人への手紙6章23節)皆さまの上に、イエス・キリストの祝福がゆたかにありますように。

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2015年2月 (NO.194)     主イエスが教えられた祈り

 

「そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧(かて)を毎日お与えください。私たちの罪をお赦(ゆる)しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦(ゆる)します。私たちを試みに会わせないでください。』」

(ルカの福音書11章2~4節)


主イエスは非常に祈り深いお方でした。それは、すべてのキリスト者が見習うべき大切なことでした。


ある時、主イエスが祈り終えたところに弟子の一人が来て、主イエスの先駆者であったヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください、と懇願しました。


そこで主イエスはこう祈りなさいと述べ、教えられたのが、上記の祈りです。


「主の祈り」と呼ばれているところです。


「父よ」~と言う呼びかけです。父なる神さまのことです。温かいことばです。愛と信頼の情にあふれています。


「御名があがめられますように。御国が来ますように」~心から神をほめたたえることばです。栄光は人にではなく、まことの神にありますように、との信仰の讃美です。そして神が完全にご支配される神の国の到来を祈るのです。


「私たちの日ごとの糧(かて)を毎日お与えください」~私たちの生活に必要なもののことです。神さまは私たちの生活に無頓着の方ではありません。私たちの生活のことにまで気にかけてくださっているのです。


「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください」~神さまから罪を赦された者は、他の人の罪に対しても寛大でなければなりません。他の人のささやかな失敗に対して、自分を義として、目くじら(むきになって、とがめだてすること)を立てるようなことは避けるべきです。


この主イエスが教えられた祈りは、私たちが毎日ささげなければならないことを痛感させられます。


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2015年1月 (NO.193)  聖書のことば 主イエスの来られた目的

「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて『わたしについて来なさい』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。『なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。』そこで、イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるためにきたのです。

(ルカの福音書5章27~32)


新約聖書には四つの福音書があります。そこには、イエス・キリストの誕生から死、復活、復活後の活動について記されています。福音書によってイエス・キリストを正しく知ることがキリスト教では最も重要なことです。

冒頭のみことばは、イエス・キリストが人となられて私たちの所においでになられた目的がよく示されています。

主イエスは、収税所にすわっているレビと言う取税人に対して、「わたしについて来なさい」と言われました。レビは即刻、「何もかも捨て」て主イエスに従いました。

取税人は外国のために税金を徴収する役目を担っていました。中には必要以上のものを集める者もあったりして、世間の人々からあまり良く思われていませんでした。

主イエスの招きを受けたレビは喜んで、仲間を集め、主イエスのために盛大な食事会を催したのです。主イエスはただ、罪人と席を共にするために来られたのではありません。主イエスは罪人や悩み苦しむ人たちのもとに来られ、罪を許し、悩み苦しむ人たちに生きる喜びと希望を与えるために来られたのです。医者は病人をこわがってはいい仕事はできません。罪人を招いて、心を新たにするために来られたのです。すべての人が心を新たにされる必要があります。