2010年  牧師のメッセージ

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2010年12月 (NO.144)   預言されていたキリストの誕生 

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

(イザヤ書714節)

今年もクリスマスの季節が近づいてまいりました。より有意義なクリスマスを迎えるために、キリストの誕生に関する聖書の教えに注目しましょう。

ここの聖書の言葉は、神によって立てられた預言者イザヤと言う人が述べた預言のことばです。預言とは、これから起こる事がらについて神に示されたことを語るのです。イザヤは紀元前8世紀の正しい預言者です。(当時、偽預言者もいました)後の世に神が遣わされる人類の救い主についてこのようにイザヤは預言しました。

救い主キリストの誕生は、今から約2000年前のことですが、イザヤはじめ、多くの預言者を通して告げられ多くの人々に希望を与えました。

しかし、誕生の具体的な「時」については明白ではありませんでしたが、人々は望みを抱いて信仰生活に励んだのです。(中にはそうでない人たちもおりました。)

このイザヤ書714節の通りにイエス・キリストは生まれました。「インマヌエル」とは「神はわたしたちとともにおられる」と言う意味で救い主キリストの誕生はイザヤの預言通り成就したのです。このような誕生に関する事実は他に例はありません。

私たちの救い主キリストは罪に染むこともなく、全くきよいお方としてお生まれになったのです。人間はみな等しく罪をもっています。罪を持ったままでは神の国(天国)に入ることはできません。しかし神の前に自分の罪を認め、心からおわびをなし、キリストを自分の救い主と信じ、心に受け入れる時、罪は赦され、きよめられて天国に入れていただくのです。

聖書はそのように教えています。教会においてご一緒に聖書を学びませんか。

お待ちしております。                           

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2010年11月 (NO.143)    宣べ伝える人がいなければ 

「・・信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」              (ローマ人への手紙1014節)

聖書によればイエス・キリストは、国籍、民族、皮膚の色を問わず、全ての人の救い主であられることを明言しています。だが、そんなに重要なことであっても、だれかが使命を帯びて真剣に人々に伝えるのでないなら、どんなに良い知らせであっても、せいぜい限られた地域の人々で終わってしまうでしょう。

 日本も明治の初期、米国の宣教師たち(プロテスタント)が来られ、当時は厳重な禁教時代であったのですが、日本語の研究や聖書の和訳などのかたわら、治療所を設けたり、洋学塾を開きながら時を待ちました。こうして彼らによって、イエス・キリストの福音が日本人に届けられたのです。まだ多分に危険のあったその時代に、彼らは遣(つか)わされてはるばるやって来たのです。

だれかがキリストのことを伝えてくれなければ、だれもキリストが救い主であり、自分もその救いを必要としている者であることを知る由もなかったのです。

 私はクリスチャンの友だちに連れられてキリスト教の集会に出席したのが、私の救い主としてのキリストを知った最初でした。今でもその友だちに感謝しています。聖書に「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカの福音書1042)とあります。

生きていくためには必要なものが沢山あります。その中でも、この「一つ」だけは絶対に必要ですよ、と聖書は教えます。キリストの言葉を聞き、キリストと結び合わされ、キリストの命に生かされることが、その「一つ」なのです。

この印刷物を読まれた方は、ぜひ教会にいらしてください。お待ちしております。     

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2010年10月 (NO.142)  

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2010年9月 (NO.141)   イエスは世の光 

「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』」(ヨハネの福音書812節)

 

ここで述べられている光は、一般的な「やみ」に対しての光、又は周りを明るく照らすところの光とは違う意味のことばです。

聖書のこの「光」は、救い主イエス・キリストのことを意味し、また時には永遠のいのちを指しています。この聖書のみことばから二つの事を学びましょう。

一 世の光とは

イエスは特定の国民や民族、個人の救い主ではありません。全世界の全ての人々の救い主であります。そして全ての人に公平に尊い救いを提供しているのです。イエスによる救いの事を「福音」(ふくいん。良い知らせの意)と言います。この福音を皆さんに知っていただくためには誰かが伝えなければなりません。私自身、友人に教会に連れていってもらったのが、イエス・キリストを知った最初でした。今、教会では、様々な形で1人でも多くの方にイエス・キリストを知らせる努力をしていますが、十分ではありません。この印刷物を手にされた方はぜひ礼拝にお越しいただきたいと思います。

二 いのちの光を持つとは

世の光であられるイエス・キリストを知り、信じ、従う人に約束されています祝福のことです。命の君であられるイエスから離れたままでは、救いに到達できません。

「わたしに従う者は」とありますように、イエスを信じる信仰に生きることです。

その人の心は、光と希望の心に変えられ、さらに永遠の命を与えられ、天国への道を歩み続けるのです。教会において聖書を学びましょう。

926日の特別集会は良い機会です。皆さんのお越しをお待ちしております。

 

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2010年8月 (NO.140)    

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2010年7月 (NO.139)  神の愛は何時までも変わらない 

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」(旧約聖書 イザヤ書4915節)

神はご自分の民に対する真実さを、このような表現で示しておられる。そして神に覚えられ、愛されている者の幸せの大きさをも教えています。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか」この問い掛けに、女性は直ちに、「その通り、忘れろ、と言われても決して忘れられるものではない」と答えるでしょう。

次の「自分の胎の子をあわれまないだろうか」に対しても、同様に返答するでしょう。

その後、聖書は、「たとい」と仮定の事がらを述べ、神の愛の深さを強調しています。

しかし、残念なことに、「たとい」の仮定の出来事が現実となっている事実です。最近の報道によれば、実の母親が、中3の男の子にろくすっぽ食べ物を与えずトイレに監禁し、その体には無数のあざがあったとのこと。また両親から食べ物を与えられずに5歳の長男が餓死したと言う事など、聞く人々の心を痛める事件が実際に起こっているのです。

神の人への愛には決して裏切りはありません。

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主(神)のことば(約束)は、とこしえに変わることがない。」(ペテロの手紙第一 12425節)ここに人の世のはかなさと永遠に生き、続くところの神のことばが対比されています。万物が移り変わって行くこの世において、神の約束のことばも神の愛も永遠に不変なのです。キリスト者は、このことばに基づいてキリストによる永遠の救いを確信しているのです。

聖書「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。」 使徒の働き1631

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2010年6月 (NO.138)   如何に生きるか 

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

(ピリピ人への手紙121節)

最近はあまり「人生観」云々ということを聞かなくなりました。私は若い頃「あなたの人生観は?」と尋ねられましたが、答えることが出来ませんでした。答えを持っていなかったからです。この聖書のことばは、キリストの弟子パウロの人生観そのものと言えます。

彼にとってはキリストが彼の人生の目的でもあり、また価値でもあったのです。

しかし彼が確信を持ってこのように披瀝(ひれき)できるまでには、幾多の迷いと戦いがあったのです。同年代の者たち、中でも人一倍ユダヤ教に熱心であった彼にとって、キリスト教は最大の敵と映ったのです。それ故教会を荒らし、男女とわず引きずり出しては次々に牢に入れ、死にまでも追いやったのです。そうすることがユダヤ教徒としての証と考えたのです。

復活されたキリストは、このような迫害の急先ぽうであった彼に奇跡的に現れ、その非を正し、心を新たにしてキリスト者としたのです。こうしてこれまで迫害して来たキリスト者と同じ信仰に立ち、キリストを宣べ伝える伝道者となったのです。伝道者としての働きは非常に困難であり、筆舌に尽くし難い苦難と迫害の連続でした。

彼の30年にもわたる戦いの体験からにじみ出て来たことばが、

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益である。」と言うのです。

 正にこれは信仰の告白そのものであり、キリスト教の奥義でもあります。

このことばの中にキリストに捕らえられ、キリストと全く一つにされた彼の姿を見ます。

彼にとってキリストが全ての全てであって、キリストから遊離した人生の無意味さと空しさを確信していました。

キリストの恵みが多くの方々にそそがれるよう祈っています。

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2010年5月 (NO.137)    しきりに願い求める 

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカの福音書119節)

 私は今までの経験の中で非常に残念に思っていることは、勇気を持って折角教会においでくださりながら、一、二回位でお見えにならなくなることです。私も教会に初めて出席した時のことを思い起こしておりますが、一大決心が必要でした。1人では入れず、他の人が入るときに、くっついてやっと入った始末でした。

 教会では聖書を通じて、イエス・キリストによる永遠の救いについて、様々な角度からご一緒に学んでおります。聖書の話は、私もそうでしたが、全く分かりませんでした。しかし回を重ねるにしたがって徐々に理解できるようになりました。このことは私だけではなくどなたも同じような経験をなさるのではないかと思います。

 聖書は私たち人間にとって非常に大切なことを教えています。例えば、人はどこから来たのか、人になくてはならぬものは何か、人の生きる目的は何か、死とは何か、死んだらどうなるのか等を神のみ言葉である聖書から学びます。聖書は特定の国や民族に与えられた書ではありません。全ての人、全人類に与えられた神からのメッセージです。

その中で特に強調されていることは、キリストによる永遠の救いについてです。命の源である神から離れている私たちには、救い主キリストによる救いと永遠の命が必要であることを聖書は教えます。冒頭の聖書のことばは、キリスト者に対しては真剣に祈ることの大切さを教えていますが、キリストの救いを求める方々にとっても重要な教えです。その救いを求める時の態度についてキリストは一つのたとい話をされました。

 ある人の家に真夜中に来客がありました。彼には客に出すパンは全くありませんでした。

そこで彼は友人宅を訪ね、「パンを三つ貸してくれるように」と願い出たのです。さあ頼まれた方では大変です。「子どもたちも私も寝ている。起きて何かをやることはできない」と断りました。しかし相手はしきりに頼み続けるので、そのために起き上がって必要な物を与えるでしょう。キリストはこのように述べ、尊い救いを得るためには熱心に、執念をもって求め続けるように勧めておられるのです。

ご一緒に聖書を学びませんか。おいでをお待ちしております。        

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2010年4月 (NO.136)   生 き て い る 方 

春、大自然が新たに、美しい装いを凝らす季節です。また国も、社会も、新たな始まりの時でもあります。この時期、キリスト教会では、最も意義深い記念行事を迎えます。

それはイエス・キリストが死から復活されたことを祝うイースターです。このことについて聖書は次のように述べています。

日曜日の早朝、キリストを信頼する女性たちが、キリストが葬られた墓を訪ねました。墓に着いて見ますと、入り口の重い石がわきにころがされており、中に入って見ると、キリストの遺体は見当たりません。女性たちが途方にくれている所に、御使いが現れて言いました。

「『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子(キリスト)は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』女たちはイエスのみことばを思い出した。」

 (ルカの福音書2458)

キリストがお生まれになられたクリスマスについては、皆さんがご存知ですが、キリストの死からの復活については、あまり知られていないのではないかと思われます。

キリストの復活は、聖書の中でも非常に重要な教えです。キリストの復活については、次のような意味があります。

. キリストが真の神の子、救い主であられることを証明しています。

二.キリストを信じる者は、必ず復活の祝福にあずかり、永遠の命に生かされるのです。

. キリストは今も生きておられ、信じる者と共におられ、支え、守り、助けてくださいます。

あなたもこのイエス・キリストを信じ、救いの恵みをお受けになりませんか。

                                   

 

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2010年3月 (NO.135)   医者を必要とするのは病人です 

「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。『なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。

 『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」       (マルコの福音書21517節)

 聖書のことが全く分からなかった頃、この「医者を必要とするのは・・」の言葉にふれた時の大きな感動は今もはっきり覚えています。この病人とは、単に肉体の病だけではなく、心の病、気の病、ささいな事柄をも気にする、気持ちにゆとりがなくこせこせする、なにかにつけて暗く、マイナス面の思いを抱いてしまう傾向のある人などを考えることもできます。また自分の罪深さや悪習慣に負けてばかりいて悩み苦しんでいる人たちをも考えられます。

 当時の指導者パリサイ人たちは、罪人と呼ばれている人たちや、人から後ろ指をさされるような人たちと食事を共にしているイエス・キリストを批判しました。その時イエスは

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と答えられたのです。

 医者は、病人のためにあるのです。病気の感染を恐れて離れていては、医者の役目を果たせません。救い主イエスは、罪人を招いて救うために来られたのです。イエスの前に、正しい人など一人もいません。あなたも私も愛のイエスの招きを受けているのです。    

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2010年2月 (NO.134)    人に仕えるために来られたイエス 

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

                         (マルコの福音書1045節)

一般の社会では、地位の高い人、偉いと思われる人に仕えるのは当然のように考えられています。ここの「人の子」とは、人間の子どもという意味ではなく、聖書独特の言葉であって、メシヤ(救い主)を現すことばです。聖なるまことの神から遣わされたメシヤこそ、人々からほめたたえられ、敬われ、お仕えすべきお方なのです。

イエス・キリストは言葉だけでなく、文字通り自ら実行し、徹底してその道に歩んだのです。聖書には、イエスが実際に行なった愛の行為がたくさん記されています。

例えば、盲人の目をいやされたこと、12年の間長血をわずらって苦しんでいた女性、医者からも見放され、絶望のどん底にあるときイエスに会い、たちまち直されたこと、また、やもめのひとり息子が死に、その葬列にイエスと弟子たちが出会いました。

イエスは、その母親のあまりにも気の毒でかわいそうな姿に胸が迫り、近寄り「泣かなくてもよい」と母親を慰め、息子を死から起き上がらせ、母親に返したこと等々。

聖書の神はどのようなお方なのかが分からないと、このイエスのなさったことも分かりません。確かにこのイエスの行為は、私たちの理性や経験を超えたものです。私たちの目には正に超自然の出来事なのですが、まことの神にとっては、自然の働きです。

そのような方を私たちは神と認め、信じ、あがめているのです。さらにイエスは、私たちの魂を罪から贖うためにご自分が犠牲となられたという事実です。この重要な教えを教会においてご一緒に学びたいと思います。ぜひ、お出でくださいますように。 

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2010年1月 (NO.133)   キリストは同情できない方ではありません 

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたのです。」

                    (ヘブル人への手紙415節)

 若い頃、80代の知り合いの人から「私の気持ちは、70歳以上にならないと分からない」と言われました。今その年代になって、その時言われたことばの意味が理解できるようになりました。病気や様々な問題で悩み、苦しんでいる人たちの気持ちも、口先では同情できても、健康な人や何の問題もない人には、なかなか理解できないと思います。

 ここでイエス・キリストは「大祭司」と呼ばれていますが、人間の大祭司は神と人間の間に立ち、至聖所(大祭司のみが入れる最も聖なる所)に入り、自分のためと、全国民の罪の贖いをしたのです。しかし、キリストは全人類の大祭司として、動物の血による贖いではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを全うされたのです。すなわち、キリストはご自分を犠牲にすることによって、永遠の救いの道を開いてくださったとともに、今日、私たちが受けるあらゆる問題や様々な試練にも会われたお方ですので、私たちの悩み、苦しみを理解し、同情できる唯一のお方でもあります。

 キリストを自分の救い主と信じていますキリスト者は、全生活の中で、心からの祈りをささげるとき、その祈りに答えていただいております。時にはにっちもさっちも行かない問題に直面し、何をどうすべきかに迷い、悩むとき、親しき者の死別のゆえに、悲しみと寂しさでやり切れないときにもキリストはともにいてくださり、慰め、力付け、支えてくださるのです。

キリスト者はこれらのことを、日常生活の中で経験しています。

 キリストと共に生きる幸いを、多くの方に味わっていただきたいと願っております。