2011年  牧師のメッセージ

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2011年12月 (NO.156)   クリスマス・あなたとわたしの救い主の誕生 

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。

この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書211節)

今年もクリスマスの季節が巡って来ました。今日ではキリスト教会ばかりでなく、多くの方々がイエス・キリストのお誕生を祝っておられます。

では、聖書からキリスト(主イエス)のお生まれの意味を見てまいりましょう。

◇ 主イエスの誕生を最初に知らされたのは羊飼たちでした。

羊飼は今日とは違い、自然の中で動物を飼うわけですからなかなか人並みの生活をすることができません。自然のきびしさに耐え、動物たちを安全に守らなければなりませんでした。中には不心得の者がおり、他人の物への区別ができなくなるということや、一般の人々のように宗教的儀式をきちんと守れないこともしばしばありました。このようなことから世間の人々から卑しめられていました。このような人々に、世界の人々が喜び、感謝しなければならない救い主の誕生という重大ニュースが伝えられたのです。そのような人々をも神は忘れていないのです。

◇ ダビデの町で

ダビデは今から3000年余も昔のイスラエルの王です。その家系から救い主がお生まれになることが約束されていました。そのダビデの故郷ベツレヘム(ダビデの町と呼ばれていた)で救い主はお生まれになりました。神の約束と成就は正確です。

◇ あなたがたのための救い主

この救い主はダビデの、羊飼の、そしてあなたやわたしの唯一の救い主であられるのです。長い間人々に告げ知らされ、待望されたお方イエス・キリストが誕生されたのです。

この方だけが、あなたとわたしを永遠に救い、祝福を与えるのです。世界中でこの方以外に

二人とはいないお方なのです。

教会でご一緒にクリスマスをお祝いしませんか。おいでをお待ちしております。

 

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2011年11月 (NO.155)   救いに導く聖書

「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」            (テモテへの手紙第二 315節)

キリスト教は啓示の宗教とも言えます。啓示とは、「覆いを取り除く」「明らかにする」「知らせる」等を意味する言葉です。神はご自分に仕える預言者や弟子たちに語られた「言葉」や行われた数々の「み業」を記しまとめられたものが聖書です。その聖書が書かれた目的の一つが冒頭に記されています。書き記された聖書を読む、学ぶことが重要であることを知ります。

まず初めに「知恵を与えて」とあります。「知恵」とは、ここではどうしたら救われるのかという救いについての教えのことです。様々な救いというものがありますが、神による永遠の救いのことです。

次に「キリスト・イエス」についてです。イエス・キリストとも言いますが、ここではキリストが先にあります。この時にはどちらかと言いますと、神性を強調した言い方といえましょう。

全人類の唯一の救い主はこの方以外にはおられない、と言うお方です。救われるにはこの方が絶対に必要で避けて通れないお方なのです。

次に、救いにあずかる方法についてです。「信仰による」とあります。信仰とは信じ、より頼み、委ねることです。このように対象者にすべてを任せることですから、その対象者をよく吟味し、歴史的に、また社会的にも人々に認知され、信頼されていることが大切です。その点聖書はほんとうに安心して聞き、従うことができます。私は日頃、聖書の存在を神から与えられた大きな恵みの一つであると思い感謝しています。1人でも多くの方が、聖書を読み、そのメッセージをお聞きになられて、まことの神に出会い、永遠のいのちにあずかり、生きる喜びと希望をお持ちになられるようお祈りしております。

 

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2011年10月 (NO.154)  

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2011年9月 (NO.153)    主キリストにあって喜ぶ

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

( ピリピ人への手紙44) 

この手紙は喜びの手紙と言われているほどに、「喜ぶ」「ともに喜ぶ」「喜び」「喜びをもって」「喜んで」等のことばが17回も用いられています。だれでも怒ったり、いらいらしたり、心が乱れたり、暗黒に閉ざされたりの状態よりも、明るく喜びのある生活を送りたいと願っておられるでしょう。

この手紙を書いたのは、キリストの弟子パウロという人ですが、この時彼は、信仰の故に投獄されていました。にもかかわらず、手紙全体は明るく、じめじめした所は全くなく、今まで見て来ましたように喜びに満たされ、それがあふれ出ていることが分かります。決してやせ我慢でもなく、またジェスチュアでもありません。心から確信をもって述べているのです。その理由は、「主にあって」ということばにあるのです。

「主にあって」とは、イエス・キリストと常に共にあることを意味しています。

主イエスは、罪人(つみびと)を救うために神から遣わされた唯一の救い主です。だが、多くの人々は主イエスに対して無関心であり、真剣に受けとめようとしません。パウロはその域を超えて、主イエスに逆らい、キリスト信者を憎み、徹底的に弾圧を加え、苦しめたのです。そのような彼に、死からよみがえられた主イエスは会われたのです。主イエスとの会話を通し彼は変えられたのです。迫害者が迫害し続けてきた主イエスを信じ、主イエスを宣べ伝える使徒となったのです。主イエスはご自身を信ずる者といつも一緒におられます。たとえ牢屋の中にあっても主イエスは共におられます。パウロは1人ではありません。最悪の環境の中にあっても主イエスを信じ、主イエスと同じ命に生かされ、すばらしい希望を与えられ、さらに主イエスと共にあることを信じている彼の喜びをだれも阻止することも、奪い去ることもできません。彼は信仰のゆえに様々な迫害を受け、苦しく辛い思いを幾度となく経験しました。ある時は、石打ちの迫害を受け、死んだものと思い人々はその体を町の外に引きずり放り出しました。主イエスの助けがあったのでしょう。しばらくして彼は起きあがり町に入りました。そしてまた主イエスが皆さんの救い主であることを宣べ伝えたので、多くの人々が信仰に導かれたのです。主イエスは今も生きておられます。信じ寄り頼む者とともに在し、折にかなった助けを与えてくださいます。主イエスは生きておられるので、そういう事がおできになるのです。「・・キリストはいつも生きていて、彼ら(キリスト者)のために、とりなし(祈り続けること)をしておられるからです。」(ヘブル人への手紙725節) 主イエスにある喜びは一時的なものではありません。「いつも」とありますように、生涯にわたって受ける祝福の喜びです。

皆さんのお越しをお待ちしております。     

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2011年8月 (NO.152)     新しい人生 

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

(コリント人への手紙第二 517節)

この手紙を書いたパウロという人は、クリスチャンになる前は、別の価値観に立っておりキリストを憎み、キリストを信じる者たちに対して反対し、憎み、容赦することなく迫害し苦しめたのです。その彼が復活されたイエス・キリストに出会い、これまでのキリストに対する態度の非を指摘され、キリストに対して正しい認識を抱くようになりました。そしてキリストを信じるクリスチャンとなりキリストの弟子として、仕えたのです。

私たちは相手を十分認識しないで、表面だけを見て誤った対応をすることがよくあります。宗教に対してもそういうことがあります。

キリストを知り、信じた彼は、キリスト信仰者の幸いを冒頭の言葉のように言い表したのです。「だれでもキリストのうちにあるなら」=どんな人でも、心からキリストをじ受け入れ、キストと一つにされるならと言う意味です。「その人は新しく造られた者です」=新しく創造されたのです。質的に全く新しくなることです。「古いものは過ぎ去って」=今までの命は死んで、新しい命を持った者として誕生したのです。「見よ」=新しくされた者の喜びであり、感激です。じっとしておられない心の躍動です。「すべてが新しくなりました」=全体が新創造の恵みにあずかるのです。神の国(天国)にふさわしい者に変えられるのです。新しくされなければ決して天国に入ることが許されません。

教会では毎日曜日、礼拝において聖書を学んでおります。神の言葉である聖書から、神の恵みと救いの素晴らしさをご一緒に学びませんか。お出でをお待ちしております。 

 

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2011年7月 (NO.151)

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2011年6月 (NO.150)    赦し合い

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」     (エペソ人への手紙432節)

事の次第にもよるが、人を赦すということは大変むずかしいことです。

聖書は言います。お互いに「親切にし」とは、一緒にいても相手に苦痛を感じさせず、思いやりをもって、人の抱いている関心事に自分を適合してゆく暖かい心を表しています。

また「心の優しい人」とは、あわれみ深さを表し、苦しい境遇や立場にある人への深い共感と親身の同情です。そしてここで一つの手本を示します。それは「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と続きます。ここで聖書は一つの歴史的事実を示します。

即ち、「キリストにおいてあなたがたを赦してくださった」とあります。すでに過去において実際に行われた出来事について述べています。キリストの十字架における死に言及しています。あのむごい十字架刑は、キリスト自身が犯した罪の故ではありませんでした。

「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方(キリスト)にあって、神の義(罪を赦されること)となるためです。」

(コリント人への手紙第二 521節)

父なる神は、私たちを罪から救い赦すために、私たちの身代わりにキリストを処罰されたのです。ここに神の深い愛を見るのです。キリストを私の救い主と信じ心に迎え入れることが信仰です。信仰に立つ時、罪赦され、新しい心をも与えられ、他の人を赦せるように変えられるのです。殺伐(さつばつ=平気で人を殺傷するような暗い世の中)とした当世、一人でも多くの方が、神の愛にふれ、心が変えられるなら、この世にも希望を持てるのではないでしょうか。

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2011年5月 (NO.149)    日ごとの糧をきょうもお与えください 

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」( マタイの福音書611)

主イエスは弟子たちに、キリスト教の基本的とも言うべき祈り方を教えられました。前半は神ご自身についての祈りです。即ち、「御名があがめられますように。」と言うことです。「御名」とは神さまご自身のことです。全ての人に神は神としてほめたたえられるお方なのです。

次は、「御国が来ますように。」と言う祈りです。即ち、「御国」とは神の国のことです。神さまのご支配が完全に行われるところです。そこは罪や暗黒のない神の愛と正義が行き渡る真の平和が実現する世界です。

三番目は、「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」祈ることです。神のご意志が天の御国で行われていますように、この地上でも行われますようにとの祈りです。現今の犯罪と悲哀と苦痛の多い世界が、神の愛と恵みと正義に満ちた世界に変えられるとしたら、こんな素晴らしいことはありません。真剣に祈り求めてまいりたいと思います。その次の祈りは、冒頭の祈りです。即ち、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」人間のための祈りです。私たちが生きて行くためには欠かすことのできない食物のことです。宗教といえば、「魂」の救いのことと考えがちです。ところが、主イエスは私たちの体のことを真剣に考えてくださっているのです。人間は魂と肉体を持っているのですが、両方にわたって心配してくださっているのです。ここに主イエスの愛の深さ、細(こま)やかさを見るのです。イエス・キリストは私たちが自分の事を考えている以上に、私たちの事を考え、私たちの救いのために大きな犠牲を払ってくださったのです。ご自分を十字架上で犠牲にしてまでも、あなたや私を愛しておられるのです。

この愛についてご一緒に学びませんか。  

 

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2011年4月 (NO.148)   ここにはおられません 

「・・・御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい』」

(マタイの福音書2856節)

自然界も人間社会も新しくなる4月。キリスト教会にとってもこの季節は、重要なのです。それはイエス・キリストが死よりよみがえられたことを記念する時だからです今日までの歴史の過程において、全世界のすべての人々が悩み、苦しみ、そして死に飲まれて来ました。そこにはイエス以外、ただの1人も例外はありません。聖書は神の言葉、真理の書です。また全幅の信頼を寄せ得る唯一の書ですから安心して聞き従うことができます。三つのポイントで見ましょう。

(1) 御使いの派遣

神はイエスについて、その節目節目において、御使いを遣わして出来事を正確に説明なさっています。ただ一度限りの出来事が誤り伝えられることがあってはなりません。わざわざ御使いを送って出来事の真実を伝えさせたのです。十字架上で死なれ、葬られたイエスはよみがえられたということは真実です。

(2) 以前から述べ伝えられていた

イエスの復活はある時いきなり起こった出来事ではありません。生前、「イエスは指導者たちに渡され、あざけられ、ついに死に追いやられ、三日の後によみがえります。」と述べています。                      (マルコの福音書831節他)

(3) 墓は空であった

イエスはいつまでも墓に閉じこめられているようなお方ではありませんでした。重い墓の石戸をうち倒して出て来られました。正に死に打ち勝った勝利者です。このようなイエス・キリストを私たちは、自分の救い主と信じ従っているのです。

キリスト教は非常に透明性も高く、その教えは歯切れがよく子供も信じて喜んでおります。

皆さんもご一緒に聖書を学びませんか。

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2011年3月 (NO.147)    新しく生まれると言うこと 

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。』イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。』」 

                          (ヨハネの福音書335節)

このみことばは、イエスのおことばの中でも、最も重要な教えの一つです。それは、人が神の国(天国)に入るためにはどうすればよいのか、ということを教えているからです。そのことを考えるとき、二つのことを知らなければなりません。 人は、どんな人でも必ず死ぬということです。以前と比べたら確かに寿命は飛躍的にのびましたが、死をまぬがれることはできません。どんな人にも死は必ずやって来るのです。 死後、人は、二つの場所のいずれかに行くことです。すなわち光明の場所かあるいは、暗黒の場所かです。イエスが共におられる所が光明の場所であり、イエスが不在の所が暗黒の場所です。死後の世界については全世界の中でどなたもご存知ありません。イエスのみ知っており、聖書はそのことを記しています。

神であられたキリストが、人間となられてこの地上に来られた目的は、創造主なる神から離れ、背を向け、滅びに向かっておりました罪深いわたしたちに、まことの神の存在を教え、神による永遠の救いと神との和解をもたらすために、キリストは人となって来られたのです。

イエス・キリストは33年の間、地上にあって言葉と行いにおいて人々に神の国について説き明かし、病める方々、嘆き、苦しむ人々をいやし、慰め、力付けられる、という細(こま)やかな愛を示されました。そして終わりにはご自身をわたしたち罪人(つみびと)の身代わりとして捧げてくださいました。それがイエス・キリストの十字架の死です。

多くのキリスト教会が屋根の上か壁などに掲(かか)げているのは、単なる教会の印ではなく、神の愛と救いを表しているのです。

キリスト教の説く救いは、神のみ子イエス・キリストの尊い犠牲の上に成り立っているのです。その犠牲の大きさによって、神の愛の深さを知ることができます。

 永遠の救いにあずかるためには、人の心が古いままであってはなりません。新しくされなければなりません。それは自分自身ではできません。神のみがおできになるのです。

 冒頭のニコデモという学のある者もこのことは知りませんでした。しかし真剣に求める人に対し、神は新しく生まれると言うみ業をなしてくださいます。大人のみならず、子どもに対しても神は働いて心を新しくしてくださるのです。証を書きました、小学1年生の児童は神の愛と救いをいただいた良き証人です。

皆さんもご遠慮なく教会においでくださいますようお待ちしております。    

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2011年2月 (NO.146)    

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2011年1月 (NO.145)  神 に 立 ち 返 る 

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」      (マタイの福音書183節)

 

今日はこの聖書のみことばについて考えましょう。この短いみことばの中でイエス・キリストは非常に大切な天国に入る道をお教えになられました。

即ち、神に立ち返ると言うことです。特定の人たちだけではなく、すべての人が神に            立ち返る必要があるのです。

このみことばを三つに分けて考えてみましょう。

一 「悔い改める」とは、聖書の中に、神が私たちに求めておられる事がらを律法、戒めという形で勧められています。しかし私たちは、神の求める高いレベルの律法や戒めを完全に実行することが出来ません。私はできないが他の人なら行える、というような事がらでもありません。誰も、ただの1人も行うことができないのです。誰もできない事をなぜ聖書が求めているのでしょう。

 聖書は言います。「‥律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義(完全に正しいこと)と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」

即ち、神の求める律法を行い得ない自分の弱さ、罪というものが顕(あらわ)にされるのです。そのことを自覚して神の方に向きを変えること、また心を変えることを悔い改めというのです。

二 「子どもたちのように」とは、これは比喩であって子どもが両親の愛を疑うことなくまったく信頼しきって、両親の与えるものを素直に受けとるように私たちも、神がご自分の御子イエス・キリストを十字架に付けてまでも私たちを愛し、永遠の救いを用意されたのですから、素直に喜んでその救いを頂くべきなのです。

 三 「決して天の御国には、はいれません。」とは一、二のようでない限り天国に決して入れないと言います。これは人間が考え出したものではありません。神がそのように言われたことなのです。神のみ心なのです。ですから私たちはそれに対し、文句をつけたり、反対したりすることは許されません。

 神さまは私たち人間を愛し、私たちの真の幸福のために大きな犠牲を払ってまでも用意してくださいました永遠の救いを拒否して、自ら暗黒と悲惨と苦悩の滅びを選択するようなことが間違ってもあってはならないのです。

 教会ではこのような重要な事がらを聖書を通して学んでいるのです。あなたもご一緒に学びませんか。お待ちしております。