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(NO.180)

《 神さまのひかり 》

 もう12月、早いものです。今年はどんな年になるのか、何かしたいなと思って迎えた新年でしたが、あれれっ、もう12月・・何をしていたかしらと思って、まわりを見渡すと、世の中はクリスマスのイルミネーションが光り輝いています。あのイルミネーションは本当に美しいと思います。でも、あの光が本当に心の中に光り輝いているのでしょうか。ふっとそんな隔たりを感じます。

 私は小さいときには身体が弱く入院を2度しました。1度は大腸炎で生きるか死ぬかででしたが小児科医がつきっきりで治療をしてくださり助かりました。2度目は肋膜を患い毎日午後になると背中に太い注射をされてたまった水を抜いていました。それ以外は苦痛がないので病院の中を歩きまわりあちらこちらの患者さんに可愛がってもらった記憶があります。そして、肋膜ということで小学校3年生くらいまでは体育は見学でした。

こんなわけで大人の中で甘やかされて大事にされ、子ども社会とは馴染めない性格になっていました。自分自身では普通のつもりでしたがきっと生意気な性格だったのでしょう。

小学校での修学旅行の写真を見るとみんなは2人で並んで歩いているのに、私は1人。3人いればいつも二対一の1人でした。ですから、仲良しグループと言うのはうらやましくて仕方ありませんでしたが、どうすればいいのかわかりませんでした。

 そんな中、結婚が決まりこれからはともに生きる人がいると思うと喜びを感じましたが、それは夢でしかありませんでした。そのことをどう受入れ、どう考え、どう自分と向き合い、何を支えにして生きて行くのか悩みました。私は浮草?いや浮草でも長い根を伸ばして池の底につながっているはずです。じゃぁ私は何?何かにつながっていたい・・・どうしたらいいのだろう。そんなときに教会に誘ってくださる方がいました。

聖書は日本から遠い国のお話し、まるで理解することが出来ませんでした。しかし、「神さまはあなたを選んで教会に導いてくださった」という一言を頼りに聖書に向かい、礼拝に通いました。聖書には「聖」という言葉がありますが、神さまは人の心の思い、いいことも悪いことも含めて全てをご存知でそのすべてについて記してあります。その様々な心の思いについての解決も、そんな私たち一人ひとりを愛してくださっているとも書いてあります。また、人を赦すことの大切さについても記してあります。

私はいじめられっ子でしたし、人にひどい思いをさせられて心の中に憎しみを抱えていました。この赦すということは容易にできることではありません。しかし、聖書には、イエス様はそのすべての人の罪を背負い十字架にかかって贖いをし、復活することで私たちに救いを与えてくださったと記しています。イエス様の十字架が私のため?始めは信じられませんでしたが、聖書を読んでいく中でそれが信じられ、感謝する気持ちへと変えられていきました。でも、現実に赦すということは難しいことです。

人は心に憎しみや悲しみを抱えていると、身体も心も緊張状態にあります。今は、心にある憎しみや悲しみを無くしたい、赦せますようにと祈ることが少しずつ出来るようになりました。それでいいのよと牧師に言われ、安らぎを感じています。私たちの人生は一度限り、喜びや感謝する気持ちを持って生きられたら幸せではないのかなと思います。

高尾教会ではクリスマス記念礼拝とイヴ礼拝を行います。聖書のお話しの中から神さまの愛を知り、心に神さまのひかりを灯して頂きたいと思います。

『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、

いのちの光を持つのです。』(ヨハネの福音書812節)

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(NO.179)

《 最愛の夫との別れ 》

 主人と初めて出会ったのは知床半島でした。旅行中で行く先々で遭遇し、すっかり意気投合して良き友人となりました。その後、お互いに尊重し合える相手となり、結婚することとなりました。2人の娘にも恵まれて幸せな日々でした。

そんな中、ある頃より主人が教会へ行くようになりました。毎週日曜日には礼拝に出席し、毎日聖書を読んでいました。今振り返ると、主人なりに、今後の人生に対して色々な面で不安があり、そこから脱出するのに必死だったのではないか思います。「クリスマスには教会に行こう!」と主人は私と子どもたちを誘いました。その内に、私も自然に教会へ足を運ぶようになりました。聖書を学び、神さまからのメッセージに心打たれ、真実の神さまに出会えたことに喜びを感じました。毎週、牧師が聖書の解きあかしをしてくださるので、難しいところも少しずつ理解できるようになってきます。主人と聖書について話し(学び)をすることが多くなり、毎日の生活は満たされました。子どもたちも教会へ行くようになり、家族全員神さまを信じ、クリスチャンとさせていただきました。以前にも増して幸せを感じていました。

しかし、突然、主人の体に病魔が襲い、一瞬にしてその幸せも打ち砕かれました。結婚29年目で主人は天国へと旅立ち、最愛の夫を喪失してしまった私は、完全に自分を見失うことになったのです。

 聖書を読むこともお祈りをすることも全く出来なくなりました。勤務帰りの電車の中では、主人に対する想いばかりが募り、涙が流れ出て顔をあげていられませんでした。家に帰ると主人の物が沢山で辛い為、真直ぐに帰れず、以前20年以上暮らした団地の周囲を歩いたり、本屋に立ち寄り、12時間自分の境遇と同じような内容の本を読み漁り、疲れ果てて帰宅するような日々でした。教会へ行っても、主人の想い出で頭が一杯になり、次第に、辛過ぎて行くことが出来なくなりました。

 そんな時、ある女性宣教師の方から、主人への想いに捕らわれない別の教会での礼拝を薦めていただき、行くことになりました。神さまと一対一で向き合う必要性を感じました。ある日、その教会で洗礼を受けられる方がいて、信仰告白のあかしで、自信喪失から神さまが救いの御手を差し延べてくださったことをお話されました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(聖書、イザヤ書434節より)私も同じような状態にあり、あかしされた方のお話を拝聴出来たことは、とても大切な神さまからのお恵みとお守りでした。その1年後には母教会へ帰ることが出来ました。結婚30年目の記念日には、2人の出会いの場所である知床半島へ夫婦で行く約束をしていました。その日、私は主人の遺影を胸に知床半島を再訪し、主人との約束を果たしてきました。

 現在、主人が天に召されて12年が経過し、自分を取り戻しつつあるのは、神さまの御手が私の心に触れ、癒してくださったからです。そして、教会の方々のお祈りに支えられました。全てに於いて感謝で一杯です。

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇12112節)

 

 

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(NO.178)

《 この世に救いはあるのか-あるのです 》

 ここ数年、日本の年間の自殺者の数は3万人を上回っている、しかし誰も驚かなくなっている。驚くべき事実をなぜ驚かなくなってしまったのか。

世の人は大きく分けて次の二つに分けられると思う。一つは社会的弱者と目される人、失業、借金の重圧に苦しむ人、難病に苦しむ人、学業について行けない子、いじめに苦しむ子・・・そしてこの対極に社会的強者、社会的、経済的に極めて恵まれ、家庭も安泰、子どもたちは優秀(時として劣った子を見下し)、社会的ステータス、健康にも恵まれ(時として周囲に優越感を誇示)・・・世の中は何故にこのような対極が画然と存在しているのかその不条理に義憤を感じる時がある。そして、弱者は逃げ場のない現実を前に死という最悪の誘惑に飛び込んでしまうのであろう。

 私は定期的に中学生に聖書を配布するボランティアをしている。どやどやと校門を出てくる一団の中に必ずその眼の奥に耐えがたい暗さを秘めた少年がいる。又、一方あまりにもストイックな自縄自縛からせっかく与えられた青春を楽しむことのできない若者もいる。なんとか救ってあげたい思いにかられる。

 テレビで放映される困窮者の姿、残り物の弁当にその日の飢えをしのぎ・・・ある日ひっそりと孤独死する、何と胸痛む現実であろう。

 ここで小生自身、体験した深刻な事例を告白したい。70歳も半ばになったある日、かねてよりの問題をきっかけにどうしようもない体調不全、自律神経失調より来る間断ない頭痛、一切の思考力の低下、食欲不振、不眠、あちこちの病院を訪ねての必死の努力にかかわらずなんと3年近くも続いた。

 もう駄目だ、この病は死ぬまで治らないのではないか、もしそうであるなら生きている意味もない、自殺の思いに取りつかれるようになった。しかしその直後、必ず浮かび来る幻影、父の死をまえに身もだえして嘆き悲しむ娘たち、可愛い孫の姿、同時に浮かび来る世間の冷ややかな目、「あの人が自殺した、あっそう、気の毒にね・・・」そしてひと月もしない間に忘れ去られていく現実、「お前はそれを悔しくないのか」と叱咤の声、もう一度、仕切り直して戦ってみよう。そして一本のロープ(信仰)に必死でしがみついてゆく生活がまた始まる。

 転機は3年たつた或る春の日に訪れた。体が急に軽く頭痛も嘘のように去って行った。喜びが全身を貫いた。神は自分を見捨てなかったのだ・・・そして同じような苦しみに取りつかれている人がいたら助けてあげたいとの気持ちに満たされた。

 今、絶望のあまり死を考えている方、どうか一瞬立ち止まってください。そして無駄なことと思えるかもしれませんが自分の悲しみ、苦しみを大声で全能の方に大声で訴えてください。今すぐではないかもしれませんが、ある日きっと貴方に変化を与えてくださるはずです。何故なら全能の存在の方には不可能ということはない筈だからです。

 神さまというものが遠く感じられる方は、私たち人間と神さまを結び付け仲介してくださるためこの世に降りてこられたイエス・キリストという方に訴えてください。この方こそ心底から恵まれない、弱い者の味方になり、十字架で処刑されてまでも私たちを救おうとされた大きな愛の方なのです。

 心から救いを求めていらっしやる方、どうぞ勇気をもって教会へいらしてください。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。」     (マタイの福音書1128節)    

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(NO.177)

《 あなたがたも、互いに愛し合いなさい 》 

 私は、できるだけ他の人々と争ったりせず、仲良くして楽しく生きていきたいと願う者です。だから、私の子ども同士でけんかをしたり、傷つけ合ったりするのを見ていられません。見るのが特に嫌なのです。親子で争うのも、夫婦で争うのも、他者と争うのも、国と国同士で争うのも、どうして争うのだろうか、どうしたら争わないですむのだろうかと、いつも考えてしまいます。人間のエゴを見るのが苦手なのです。結局、人間の心の内には、良いものもありますが、悪いものがあるからでしょう。この根本が癒されなければ、いつでも悪い心が出て来て、傷つけ合ってしまうのだと思います。このように言う私も、かつては、「喧嘩っ早い」と通信簿に書かれ、親を驚かせたことがあります。子どもの頃の私は、私の子ども達と全く同じで、争ってばかりいました。ですから、実は人のことをとやかく言える者ではないのです。

 人は良い人間になる為に、勉強したり修行をしたり、善行を積んだりします。しかし良い事をしていても、心の中では悪いことを考えてしまう自分に気が付いたりします。自分の力で、ある程度の事はできても、悪い心から完全に解放されることはできないのです。私は、かつてこれに悩みました。正しく歩もうとすればするほど、自分の醜さに気づき、自分を許すことができませんでした。

使徒パウロも聖書の中で、自分自身を見つめてこのように言っています。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は、自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」

(ローマ人への手紙71517節)

それでは、解決の道はないのでしょうか。聖書に唯一解決の道が書かれています。

それは、自分の心の中の罪深い性質を認め、神様の前で悔い改める事です。そして、その罪のため十字架について死んで下さった主イエス・キリストを私の救い主として信じる事で、神様と和解が出来ると聖書には記されています。自分勝手な、自分自身を第一とする生き方から離れ、神様を第一とする人生を歩むことが、神様の御心です。神様との関係の回復が、全ての解決なのです。

主イエス・キリストを信じた私は、神様の愛をいつも体験し、神様がどんな方であるか聖書を通して理解することができます。これは非常な喜びであり、幸せです。そして、私自身を少しずつ造り変えてくださるのです。今、私にあるのは、神様に対する感謝のみです。そしてこれは、人と人との関係においても大変重要なことです。 

 人間関係の最も大切な一つである夫婦の関係において言うならば、神と夫婦の三角形(つまり神と夫、神と妻、夫と妻の三角形)は、非常に重要です。夫婦が共に神と歩んでいくならば、この三角形が非常に素晴らしい夫婦の関係を作ってくれます。

お互いに神を第一にする人生は、神に従う人生であり、神様が無限の愛で私たちを愛して下

さっていると知る夫は妻を、また妻は夫をそのような愛で愛すことを学びます。私たちは誰もが弱く、罪に陥りやすい存在です。しかしそのような存在でも、この三角形がある以上、夫が道から逸れそうになった時は妻が、妻が迷いそうになったなら夫が、神と共に引き戻してくれるのです。これは素晴らしい友情です。また夫婦で祈るときは神様も共にいる格別な平安と喜びを感じます。

神様に夫婦のベクトルを合わせていく。それによって、人生の指針を神様から頂く事ができるのです。迷った時、神様に聞きます。わたしは妻に相談して一緒に祈ってもらいます。

共に神の御心を求めて祈り、願いを祈ります。聖書を一緒に読み、神様の御心を巡って共に話し合い、様々な事を祈り合う時、私にとって「いつもともにいて下さる神様」を感じる一時であり、感謝が湧き上がってくるのです。

イエス様はこう言われました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、

これがわたしの戒めです。」

(ヨハネの福音書1512節)    

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(NO.176)

 《 人生の回復は、神の愛から 》

 今年も74日から8日まで、韓国から神学校のT教授(日本人女性で、かつて当教会員であつた)が神学生たちを連れて、宣教旅行に来られました。当教会では、もう10年以上毎年夏の恒例行事となっています。

 今年は、次世代を担う子どもたち、特に中高生に焦点を紋ったカリキュラムを計画した事と、家族伝道について、証(あかし)やお話を聞けたら良いと思っておりました。そうしたら、神さまが不思議にも、今回の参加メンバーに2人の姉妹を特別に用意して下さいました。1人は、20年以上の経験を持つ伝道師。もう1人は、いのちの電話センターで働く信徒でした。

 夕食を共にしながら、教会員から「家族にイエスさまの事をどう紹介したら良いのか」質問がありました。ご主人との長い間にできた溝がなかなか埋められずに悩んでいるとの事。その伝道師は、「相手を変えようと思ってはダメ。自分が神さまの愛に触れられて変えられることで、相手に対する態度が変わり、接し方が変わる事で、徐々に相手も変えられてくる」と話されました。そして、「まず関係を大切にするように」言われました。そう言う伝道師の方も昔、実は親の期待と経済的な理由から、気乗りのしない結婚をしたそうですが、夫を本当に愛する事が出来ない苦しみの為、胃がんになってしまったそうです。しかし、夫は、愛せない自分に対して、資材を投げ売り、献身的に仕えてくれたそうです。それによって、ご主人を心から愛す事が出来るようになり、癌も治ってしまったとの事。「これまであまり話してこなかつた自分のことを初めて話しました」 と涙ながらの証(あかし)を聞くことが出来、初めて会った外国の方なのに、初日から深い交わりとなりました。

 また、いのちの電話センターの方からは、やはりご自身の生い立ちに触れ、生まれる事が歓迎されないご自身の出生の話、そして父親に愛されずに育った身の上を話されました。

でもそうした時、教会学校の先生が話を聞いて、祈り、慰めてくれた時のことを話して下さり、教会学校の存在の大切さを話されておりました。そして、聖書には、系図がたびたび出てくるのですが、結局、人は神さまが創造された作品なのだから、神さまが自分の親なのだ。だから神さまは私たちを愛しているとのレベルまで理解が進んだ時、自分の境遇を受け入れる事が出来たそうです。そして、同じように悩む人々を助けたいと思い、何とかいのちの大切さを伝えたいとの思いで、この仕事をしているとのお話を伺いました。

 また、神学生の青年も自身の証(あかし)をして下さいましたが、この方も親に愛されずに育ってきた為、アルコールに身を委ねてボロボロの人生を送っていましたが、そこに神さまの光が差し込んできて、人生が変えられて、今の自分があるとのお話を伺うことができました。

 今回の宣教チームの皆さんが、高尾キリスト教会に来て下さって、大きな神さまの御業と愛を見せて下さいました。皆さんに共通したことは、「人生の回復」だと思いました。人は皆、人生の過程で、多くの傷を負います。そして、その傷により、人を受け入れる事ができず、人間関係でつまずいてしまう人も多いと思います。しかし、神さまに目を向ける時、人生の回復のストーリーが展開されてくるのです。「そんな事ないよ。人生は、そんなにうまくいく訳がない。」 と思っている以上、その扉は開かれて行きません。

「もしかしたら、神さまは、私の人生にも愛と良い意図を持って臨んでくださっているのではないか。」と考えを変えてみると、そこに不思議な御業がなされるのです。

イエス・キリストの言葉。「わたしがいのちのハンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」 (ヨハネの福音書635節)

 このように言う私も、低いセルフイメージに何度となく、自分が嫌になった事がありました。死んでしまおうとは思いませんでしたが、自分の中では、癒されない心の傷があって、自分を罪の束縛から解放してくれるものを探していました。神さまのところに帰るのは、最後にしようと、ひたすら違うもので埋めようとしました。しかし、結局埋めてくれるものは何も無いという事に気づくまで、どれ程回り道をしたことでしょうか。今、もう一度、自分の人生の中の「回復」について思いをめぐらしているところです。

神さまは、私にも「心の深い部分で、回復が必要である」と教えて下さったと思いました。チームの皆さんとの交わりの中で、生きた神さまが語りかけて下さったと思える一時でした。

 神学生のチームは、その後高尾キリスト教会を後にして、78日から12日まで、東北の被災地に、出て行かれました。領土問題や歴史問題など、両国には様々な問題が横たわっておりますが、彼らは、被災した日本人の為、神の愛に動かされてたくさんの支援物資を携えて、石巻に奉仕に行かれたのでした。

主イエス・キリストの神にあって、一つとなる素晴らしい時を頂くことが出来て感謝でし

た。          

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(NO.175)

《 聖書と愛について 

 私は牧師でもありませんし、聖書を専門に勉強した者でもありませんが、私の識っていることをお話ししましょう。初めての方には少し難しいかもしれませんが、解りやすく云うと、聖書は旧約聖書と新約聖書の2冊があります。しかし、この2冊は別々の性格の書ではなく、切り離すことの出来ない2冊で1冊の書です。

 その違いを簡単に云うと、旧約聖書は『困難の中にある人間たちに、いつか神の子、救い主(キリスト)が現れる』という預言の書です。

 新約聖書は『その救い主(イエス・キリスト)が、イスラエルの国に生まれ、ナザレ(地名)のイエスとして生き、教え、最後は我々人間たちの罪を(天上の神に対し)一身に背負い、十字架刑に処され、死に、三日目に復活され、その後、昇天されたと云う書です(その後の弟子たちの布教活動、黙示録を含む)。

 

 見方を変えると、旧約聖書は、今から2000年前にイエス・キリストの生まれる前までの神と人間との約束の書(旧い約束または、旧い契約)。新約聖書は、イエス・キリストの生まれたことによる、神と人間との新しい約束、または、新しい契約の書でもあります。

そして一貫している聖書の教えは『愛』です。

愛はキリスト教の本質であり、旧約聖書、新約聖書の中心です。

『ですから「愛」のない者に、聖書も神もわかりません。なぜなら、神は、昔も今も変わらない「愛」の神だからです。』(ヨハネの手紙第一 48節) 

 聖書は「愛」について、次のように教えています。

 『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。』 (コリント人への手紙第一 1348節)

聖書は科学の本でも、医学書でも道徳の本でもありません。聖書は、いろいろなトラブル、病気、悩み事の多い、そして最後には死ぬという小さく、弱い我々人間が、その人生にあって平和と平安とやすらぎを与えてくれる「教書」であるとも、私は思って居ります。

 

 明治期のキリスト教布教の大功労者である、内村鑑三はこのように云っております。

 「キリスト教は聖書の中にあり、キリスト教は聖書である、救われる道はイエス・キリスト以外、天下に無し」

 

 教会は、いつでも皆さんをお待ちして居ります。イエス・キリスト(聖書)の話しを聞くと、心の不平、不満、不安が安らぎますよ。

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(NO.174)

《 キリストに従う事とは 》

 キリスト教は

父なる神の独り子であるイエス・キリストのみことばと御救いを中心とする教えです。キリストは、人類の罪を背負い、十字架の上で身代わりの死を遂げられました。ここに神の愛が現されています。

 キリスト者になるためには

例えば、友人から「100円貸してくれないか、必ず返すから」と言われれば簡単に100円ぐらいは貸すでしょう。しかし「100万円貸してくれ、必ず返すから」と言われても、たとえ貸す金はあったとしても、相手の言葉を信じて貸すまでには、本当に返してくれるかどうか、慎重に検討するのがふつうでしょう。しかしいくら検討しても、必ず返してもらえる保証はどこにもありません。相手の誠実さを信じて、貸そうあるいは貸さないと決断するしかないわけです。

なおさら一生の事であるならば、決断の要素が大変大きくなるのがむしろ当然だと言えるでしょう。結婚の場合でも「生涯あなたをきっと幸福にします。」と相手から言われても、それを本当に証明できるものは何も無いわけで、相手の誠実さを信じて、結婚へと決断するより仕方がないわけです。 キリスト信者になる場合も、

『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(ヨハネの福音書1427節)

というイエスのみことばを信じて、イエスについていくことを決断するしかない訳です。決断して、イエスについていくという行為に踏み切った時、はじめてイエスの言ったことは本当だということが体験できます。実に、キリストは信じて歩むに値するお方であることがわかります。

 キリスト者とは

イエス・キリストが私の救い主であられることを知り、その前にへりくだり、自分の救い主と信じ、心に受け入れ、従う人のことです。

 キリスト者の生き方とは

 キリスト者は、教会の忠実な会員となり、市民としても責任ある社会生活をおくります。信仰と生活は切り離せません。

 さらに、具体的に信仰とキリスト者のあり方について申し述べますと、キリストを信じ、キリストについて行くことです。信仰に入るというと何か特別な行為のように考えられがちですが、実は「信じる」という行為は、私たちの毎日の生活の中で絶えずやっていることです。日常の生活で、これらは五感で直接確かめうる知識よりも、「信じる」ということによって、多くの生活が成り立っています。例えば、電車やバスの行き先は素直に信じて乗ります。前提として運転士さんも車掌さんも確かな方だと信じているからです。また、電車も何の故障もなく、正常に動くことを信じ、任せてなんら疑うことなく乗っているのです。しかし、実際には途中で故障したり、脱線の可能性も多分にあるわけです。だがそういうことはほとんど全く考えないで鉄道会社を信じて乗車しているのが実情です。

 キリスト者は、鉄道会社よりもはるかに確かなお方(神)を心から信頼しているので、その方の約束のことばを信じているのです。

 高尾教会へ

この様に、高尾教会の会員は様々な人生体験を通して、最終的に「イエス・キリスト」を信じて歩んでいます。人間の罪って一体何だと思った方、イエス・キリストって一体何だと思った方、教会に来てください。本を読んでも解りません。

豊かな生活が貴方を待っています。

 

『苦難の日にはわたしを呼び求めよ。

わたしはあなたを助け出そう。

あなたはわたしをあがめよう。』     (詩篇50篇15節)

 

  『ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。』              (使徒の働き1631節)

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、

あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを

キリスト・イエスにあって守ってくれます。』

(ピリピ人への手紙4章6~7節)

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(NO.173)

《 死は終わりではない 》  

  私は、小さい頃から、漠然と、死に対する恐怖がありました。「死んだら何もなくなるから、生きている時に、充実した時を過ごさないといけない」「今を充実させることが何よりも重要だから悔いのないように生きたい」など、いろいろな人の考えに、納得できる部分もありましたが、死んだらすべて終わりで、人は必ず死ぬということにものすごく矛盾を感じました。私の尊敬する人がいつか死んで、みんなに忘れられてしまうことに、納得できなかったのです。

私は、小学校の頃に友だちに誘われて、日曜日に行われる教会学校に通い出し、高校生の時にイエス・キリスト様を生涯信じていく決心をして受洗しました。死が終わりではないこと、神さまがずっと共にいてくださることを確信できたことが大きな喜びでした。また、イエス・キリスト様の地上での生涯はもちろん、多くの過去に生きたクリスチャンたちが、死を恐れずに、神さまや人のために生きた生き方に、強く感動を受けたのです。父や母や妹にも、いろいろな大切な人にも信仰をもってもらいたいと思い、祈るようになりました。

 

今年の6月で、父が亡くなってから5年になります。父は体のあっちこちにガンが転移して、とても辛い晩年を過ごしましたので、今でも思い出すと涙が出ます。でも、父が神さまを信じて、永遠の時を天の御国で過ごすことを確信して亡くなったことは、大きな喜びでした。

 父は優しく、頭もいい人で、小さい頃からずっと尊敬していました。ときどき教会にも来てくれましたが、「あえて信仰しようとは思わない」「だれにでも何らかの信仰心はあるし、どれが正しくてどれが間違っているなんてないから、人に自分の信仰を勧めるのはおかしい。」とも言っていました。

 父は、もともと病弱でした。私が大学生の時に胃ガンの手術を受けました。そして、10年後には、大腸、直腸に転移し手術、それから、数年で肺への転移が見つかりました。医師からそれを告知されて、ショックを受けた父は、その場に倒れてしまったそうです。「人は、いつかは死を迎えるわけだけが、ガンで苦しみながら死んでいくことに対して、ものすごい恐怖心がある」とあの冷静な父が後で言っていたのです。父のために、いろいろな人に祈ってもらわなければ、と私はとても焦りました。でも、祈っていると、心のどこかに安心感が与えられました。神さまは必ず父を助けてくださる、父に永遠のいのちを与えてくださる、という確信が与えられました。

父は、死への不安が強くなる中で、教会に来て教会員にパソコンを教える奉仕を始めました。人に何か与えることに喜びを見出したようです。

そして、亡くなる前二ヶ月間は、意識がはっきりしなくなりましたが、「イエス・キリスト様を信じて天の御国ヘ行く」とはっきり告白しました。体中がガンで、苦しくて辛くてどうしょうもなかったはずの父の死に顔は、とても穏やかでした。母や、私たち娘や、孫たちにも、感謝やいたわりの言葉をかけてくれました。死んだら終わりではない、父は、イエス・キリスト様の下で、ずっと生きているのだと、強く確信できて心から感謝しています。

 

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

                               ヨハネの福音書1125

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(NO.172)

《 居場所を求めて  

 私は現在40代主婦、小学生の子と幼児との2児を子育てしながらパートで保育士の仕事をしています。目先の雑事をこなすだけで精一杯で、申し訳ないが毎週の主日礼拝を守るところまでは行かず、(夫が未信者ということもあり)周りの皆さんのご厚意により、かろうじて教会とつながっている状態です。          

 私の実家はクリスチャンホームではなく、生まれて20年間、神の存在を知りませんでした。学生の頃の私と言えば、陰気で身の周りに無頓着だったため、周囲からはいじめやからかい、叱責など否定的に扱われることが多く、幼いながらも集団の中では常に居心地の悪さを感じていました。幸い家庭は平穏でしたが母親からピアノを専門的に習得するよう教えられ、元々何も取り得のない私だから、親や周囲から認められたいという思いから、必死に練習を重ね、音楽大学へ入学しました。

 しかし、その場でも才能の無さに打ちひしがれ、能力で差別されて傷つき、冷たく厳しい人間関係の中、居心地の悪い違和感を持ち続けながら、次から次へと来る課題に頭を悩ませていました。そして、一般社会に出たら社会人として役に立たないことを思い知らされ、本当に何をやってもダメな人間だとガク然としていました。

しかし、そんな取るに足らない私にも神は目を向け呼んで下さいました。卒業後の進路が定まらず将来の姿も思い描けず、ただぼんやりと、いつも通る教会のある道を、いつもどおり歩いて通り過ぎようとした時、学生時代の友人が昔と変わらない笑顔で声をかけてきました。

いつもなら、そのまま別れるところを「教会では、何をやっているの?」と尋ねている自分に、ふと気づきました。礼拝に行ってみようと決心した一瞬でした。

もちろんクリスチャンになることに、大いに戸惑いました。私は神の前において清廉潔白ではなく弱く汚れた人間であることに恥ずかしく思うも、神は強く、そして白くすると言って下さり、神のために満足な信仰生活はできないかもと不安に思うも、ただ、心を開いて信じるだけでよいと背中を押して下さり、何よりも不完全で欠けているところだらけの私達だからこそ、イエス・キリストが命をかけて救いを与えて下さったことを知り、神を信じようと心をゆだねるようになりました。

教会へ通うようになって数年が経ち、洗礼を受けました。でも、だからと言ってパラダイスな毎日にはなれず、常に試練や罪と闘う状態は以前と変わらず、今も正直悩み事は次次と押し寄せて来ます。しかし、神を知らない昔の私と明らかに違うところは、やっと居心地の良い、神に与えられた、私の居場所が今ここにあるという充足感です。(実家も安息の所ではありますが、いずれ独立しなければというプレッシャーがあります。)                          

「イエス・キリスト」というゆるぎない礎があるからこそ、満ち足りた気持ちでいられるのです。冒頭で述べた通り、俗に世間でいう立派な人間として大成するとは、ほど遠く、平凡で雑事処理に費やすだけの多忙な毎日ですが、神とともにあって、私の心が満ち足りていると実感できるのは、疎外感だらけだった以前と比べても歴然としています。

私は、ようやく自分の居場所を見つけることができました。その喜びを神への感謝と信仰とをもって表していきたいと思っています。 

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(NO.171)

《 日々の生活から感じたこと                   私はテレビ大好き人間で、自宅にいるあいだ中テレビの前に座っているといっても過言では

ない。大好きなドラマは録画して、何回も繰り返し見てしまう。

1年程前に放送されていたNHK連続テレビ小説「カーネーション」はお気に入りドラマの

1つで、話の中にこんな一場面があった。

主人公、小原糸子が人生の晩年、取材に来た新聞記者のインタビューに答えて話をする。

「たった一つ自信を持って言える事があるんです。ウチが何かをしてそれが成功したときいう

のは、必ず自分やのうて相手の為思うてした時なんです。欲かいて自分の為にした時は全部失

敗しました。そら見事に。」記者が、「『与うるは受くるより幸いなり』というやつですか?」「何、

それ?」「聖書の言葉です。」「それですわぁ! あげるのは貰うよりずっととくや、ほんまそな

い思います。」そして、出来上がった新聞記事のタイトルは、「娘たちへの遺言 与うるは受く

るより幸いなり」主人公は記事になった新聞を読みながらこう続ける。「人一倍欲深い人間でな

いと言わんで、当ったり前や、初めから欲無いような人はこんな事考えんでええんや、欲深い

からこそ散々痛い目おうた挙句に辿り着くんやないか」と言っている。

私自身、欲張りな人間なので、ついあれもこれもと欲張ってしまうが、気がつくと自分に残るものは1つもないということが多々ある。ところが、人のためにやったことは小さな結果が積み重なって、大きな結果となって自分に帰ってくることがある。そのような時こそ「与うるは受くるより幸いなり」を実感する瞬間でもある。

日々の生活で聖書を読んでいると、聖書の言葉には、キラリと光ってすぐに心に響く言葉も

あれば、その時はなんとなく読みすごしてしまっていても、ある時ふと心によみがえり響いて

くる言葉もある。その時の自分の置かれている状況に応じて、人生の道しるべとなる言葉や、

エピソードに出会えるのが聖書である。出会えた瞬間のワクワク感、ドキドキ感を文章で伝え

るのは難しいが、これは聖書を読んでいてこそ味わえる神様からのプレゼントだと私は思う。

日曜日の礼拝で聖書を開き藤田牧師の説教を聞くと、考え方や知識の幅が広がり、自分一人

で聖書を読むときに、よりいっそう豊かな時間を持つことが出来る。

  教会の礼拝というと堅苦しいイメージがあるかもしれないが、藤田牧師は、聖書をとても

わかりやすく丁寧に話をしてくださるので、聞いていてとても楽しいし、人生のヒントとなる

話も盛り込まれているので、未熟な私にとって礼拝の説教は大切な時間である。

礼拝中に歌う賛美歌や聖歌も、聖書の文書から引用されてつくられたものなので、礼拝の説

教の内容とピタリと一致した曲を歌うときは、自然と力が入る。そして礼拝が終わった帰り道

には、「よし、今週一週間も頑張るぞ。」という清清しい気持ちになり足取りも軽やかになる。

「与うるは受くるより幸いなり」(使徒の働き2035節)

しっかり肝に銘じて日々生活を送りたい。

 

        

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(NO.170)

《 私がクリスチャンとして歩み出したいきさつ 》

① 「神なんていない! 人間死んだらそれで終わりだと思っていた私」

 私のキリスト教とのかかわりは20年ほど前からですが、それまでは徹底した無神論者でした。それは私の学生時代の先輩、F氏の影響によるものが大でありました。F氏は左翼の学生運動家でもあって、唯物論者であって、しばらく杉並区の区会議員をされておりました。私はその影響で、「科学的に証明できず、見ることも、触れることもできないのに、霊魂があるとかあるいは神が存在するとかいうことは、その人の主観的な単なる感情にすぎない。」と確信しておりました。

 しかし、父親が病弱だった関係で、苦労した母親はタンスに新約聖書をしまいこんでいて、たまに聖書を読んで、自分を慰めているようでした。そのことはしっかりと子供の頃から奇妙な記憶として残っていました。

 学生時代は好き勝手な自堕落な生活をし放題で、その後、結婚して子どもができましたが、真面目に生活をするようになってから、過去の自由奔放な時代を何となく悔やむようになりました。

 ② 「神に祈るということ」

 洗礼を受けていない時期に、礼拝のたびに、牧師先生の話をいろいろ伺いましたが、すぐにはキリストを信じることができませんでした。しかし、出席しているうちに「神に祈れ、神は答えてくださる」ということを何度も聞き、素直に過去の不信仰の罪、その他の罪のいっさいを悔い改め、キリストを信じ、ついに救いの確信を得ることができました。

 神に背き、自己中心に生きる私は罪人であるということや、神さまがひとり子イエス・キリストの十字架において、私たちの罪を赦し、救ってくださった事、また、救いの完成のためにイエス・キリストは復活されたという、それまではどれだけ理解したくても理解できなかったことが、素直に受け入れ、信じることが出来るようになりました。

 ③ 「苦しんでいる人は教会へ」

 このトラクトを読んでいる方にお伝えしたいことは、「苦しんでいる人は教会に来てください。」ということです。きっと教会員のみんなと牧師先生が助けてくれます。

 私自身、何度か人生の荒波の前に倒れそうになりましたが、不思議と大きな力により助けられたと思っています。元気になったら、日曜日の教会生活で「生き方の基本」を学び、月曜日から金曜日までは社会のために精一杯働く。そんな生活で良いのではないでしょうか。

 

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(NO.200169)                          

       《 わたしとともにおられた神様 》 

 

 

 

「あなたの御顔が見えてくる。心見渡すとき。

手をさしのべ愛を受けると、そこに主がいる」         (讃美のうた)

新しい年となり、皆さまどのようなお気持ちでお過ごしでしょうか。

 私は主婦であり、高尾教会に集って約20年経ちます。

昨年のことですが、“神さまは、ずっと私の人生と共にいてくださった”と思える出来事がありました。あるキリスト者の集いにでかけた時でした。初めに、講師の女性牧師がご自分のお子さんを2人同時に亡くされるという悲しみを経て、“いのち”に向き合わされ、また自分の罪や人生の生き方に向き合わされて牧師となり、神と人に向き合う人生となったという話を聞きました。

私は心に衝撃を覚えると同時に、“いのち”に触れた時のことを思い巡らしました。そして、その後「自分の人生、今まで生きてきた中で、幼少期から10代、20代、30代、40代・・

楽しかったこと、辛かったこと、成し遂げたこと、挫折を味わったこと、どんなことがありましたか、書いてみましょう」ということで紙に思いつくまま書いてみました。

書いてみると不思議といろいろと忘れていたことも思い出し、キリスト者になる前の砂利道を歩いていた幼い頃のこと、単純に遊びが楽しかった頃や、無心に鼓笛隊の練習をして充実感のあった頃のこと、受験で何回も悔しくて泣きはらしたことを思い出しました。

また信仰を持ってからは、子どもと接する仕事で失敗をかさねながらも言葉にできない喜びや悲しみを味わったこと、結婚して喜びと緊張を感じていた頃、流産や主人の手術でいのちの大切さを実感したこと、子どもが与えられ幸せを感じたこと、義父母との同居の中で、気持ちのすれ違いがあったこと、子どもの障害を知り当惑したことなど様々なことが頭の中を駆け巡りました。

そして、すべての出来事の最後に「神さまがともにおられた」もしくは「神様が成し遂げてくださった」と書き込んでみるようにといわれました。その時私は、「ああ、神様は、わたしの忘れていたあんな幼いころも、ひとりで悩んでいた時も、言葉にできない思いでいたそのつらい時も、キリスト者であった時もなかった時も、変わらずに私の傍にいてくださったんだなあ」と深い感激に包まれました。永遠から永遠まで存在される神様は、あの日あの時、私といっしょにいて、一緒に喜んでいてくださり、一緒に悲しんでいてくださった、そして私が何かを成し遂げていたとしたら、主がしていてくださった・・・

時間や空間を超越された神様のその憐れみと懐の深さに喜びでいっぱいになりました。

神様の十字架の愛と赦しを知り、恵みに生かされていた私でしたが、私の中に悩みもありました。私には特に取り柄も無いし、何か達成したわけでもない、人と相対的に見てしまうと自信など何もありません。家族に恵まれていることを感謝しますが、私の足りない部分ばかり見え、感謝しつつも、神様への信仰も失いかけたこともあります。また、キリスト者の価値観と社会の価値観の相違、義母との価値観、感情面での行き違いは全ての生活に心の重さを感じさせました。

 しかし、神様はそこにいてくださいました。

私と一緒に! 私は、いままでのわたしの人生の辛かったことも、空しく思えたことも、神様の恵みのうちに祝福されていると感じることができました。

 「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、」  (創世記3921節)

 

 そんな私を受け入れ、愛してくださる神様は、勿論あなたをも愛しておられ、そばにいてくださいます。ぜひこの新しい年、恵みの神様があなたに与えておられる十字架の愛と祝福を受け取られますように! イエス様は言われました。

 

「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

(マタイの福音書2820節)