« あかし »

 

『イエスは言われた。「わたしはよみがえりです、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」』 

(ヨハネの福音書112526)

 今年のイースターは、4月12日です。イースターは、十字架で死なれたイエス・キリストが復活されたことをお祝いする日です。新しくされた命、ということで、最近は命を生み出す卵

や、多産で繁栄のシンボルである兎が、イースターのイメージになってきていますね。私は、今から20年以上前の、高校3年生のイースターの時に、神様を信じて受洗したので、イースタ

ーは、私にとっても、大切な日です。当時の私は、高校生なりに、激しくなる感情と葛藤する毎日を過ごしていました。心のきれいな人にあこがれて、少女漫画のような、優しい世界に生きていたかったと思いながらも、世の中には汚い人がなんて多いことか、がんばる人が損をして、ずるい人が成功して、なんだか

本当に嫌だ、などという思いがあり、また、自分自身にも、自信が持てなくていろいろ悩みました。そんな中で、イエス・キリストと出会えて、信仰が持てたことで、人生の意味、どうやって

生きたらいいか、などということがわかってきて、とてもラッキーだったと思います。大学受験、就職、結婚、出産など、その後は岐路に立つ度に、神様や、クリスチャンの先輩

たちに助けられて、良い道が開かれてきました。本当に、幸せだな~と思うことの多い日が続きました。

 でも、私が本当に生きていること、守られていることを実感したのは、その後の苦しくなった日々だと思います。神様は、私たちを子どもとして、大切にしてくださっています。たくさ

んの嬉しいこともくださいましたが、訓練として苦しいこともくださいました。私は、外で失敗して非難されたり、多少落ち込んでもやり直してきました。人より努力することが好きだっ

たので、徹底して努力して頑張りました。でも、大切な家族が落ち込んだ時、その家族から攻撃された時、どうにもできないものを感じました。ここでこうすればいいのに、なぜできないの、なんていう思いがいつもあって、結局何も助けられず、むしろ家族を苦しめてしまうことも多くありました。

 

どうにもできなくなった時、神様に助けを求めて、そして教会の方々に祈っていただいたことが何度もありました。教会の方たちは、私が苦しい時、口先で「祈っていますね」と言うだ

けでなく、行動と真実を持って祈ってくださいました。神様は、お祈りを無視されることはありません。祈っている中で、心に安心感が与えられる

ことも多く、強められました。奇跡としか思えないような事実も、何度か起こりました。教会に来ている方たちの中には、苦しい体験をしてきた人もいます。その苦しい体験を通し

て、忍耐をし、感性が磨かれ、何とも言えない安心感を与えてくださる人たちで、心から尊敬できます。キリスト教は、信仰を持てばいいことばかりあります、というご利益宗教ではあり

ません。皆さんと祈っているときに、他からは得られない安心感が与えられて、前向きに生きる力が得られます。生きている限り、いろいろな苦しいことはあります。でも、それをすべて、神様はいいものに変えてくださいます。やはり、神様と出会えたのは、本当に幸せでした。若いころ、不快なことがあると、自暴自棄になっていた私は、神様によって、生まれ変わることができて、新しい命が与えられたのです。イースターは、イエス・キリストのよみがえりを祝う日です。キリストのいのちを復活させられた神様は、私たちのいのちも、よみがえらせてくださいます。

 どうか、皆さまの心も守られて、復活の恵みをいただけますように。ぜひぜひ、教会にいらしてください。お待ちしています。

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N0.252

 

« 愛の出発点 »

                                   

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』 (ヨハネの手紙第一4章10節)

『隣人を愛せよ』という言葉を聞いたことがあると思います。聖書には愛について語る教えがたくさん存在します。『神は愛です』という言葉も聖書に書かれています。神ご自身が愛のお

方であると語っているのです。その愛とは一体何でしょうか。愛なる神はどんなお方なのでしょうか。幼い頃から教会に通っていた私は、教会に行くことが当たり前で、教会も神様もなじみ深い存在でしたが、当時は神がどのようなお方かは知りませんでした。私は、高校生の時にその問いを一つ知ることができました。

私は内向的で、自分の主張をあまり外に出さない性格でした。中学生の時に上下関係に苦しんだことがきっかけで人と比べ、劣等感を持つようになり、無意識のうちに周りに合わせるよう

になっていきました。学校生活はとても楽しかったのですが、ことあるごとに周囲と自分を比べ、劣等感を感じることは重く苦しいものでした。そんな日々に疲れ、よく見せようとしている自分、周りと合わせる自分が嫌になっていきました。しかし、周囲と自分しか見えていなかった私を、神様はずっと待っていてくださいました。

 

 ある牧師先生は、お話しの中で人間の価値について語られました。その中で、飾らなくて良いありのままを受け止め、愛してくださる神様を知ることができました。そして、私はその応

答として神様を求めて祈りました。自分の気持ちに素直でなかった分、自分の本当の気持ちが何か分からなくなりましたが、神様に対して背を向け続けてきたことや、汚れた心を見ぬふりをして過ごしていたことなどを正直に悔い改めました。すると祈りの中で神様は一つのみことばを思い起こさせてくださいました。それは、

  『何をどう祈ったらよいか分からないとき、御霊ご自身がことばにならないうめきを

もって、とりなしてくださる。』   (ローマ人への手紙8章26節)というものでした。

 

苦しみ悩み、たとえ神様に背を向けている状態でも私を見捨てることなく、立ち直るように励ましてくださる神様は愛の方だと感じました。その後、劣等感を全く持たなくなったわけで

はありませんが、神様の揺らぐことのない愛に接して、そのときの思いを飾ることなくイエスさまに話すことができるようになりました。私には愛はありません。しかし、まず神が愛してくださったので、他の人に愛を分けることができます。この世界をつくり私たちをつくられた、神様は、私たちを愛するために作られました。私たちが神を離れて自分勝手に進んでいっても、私たちを見捨てずに救いの道を与えてくださいました。そこに神の愛が私たちに示されたのです。聖書を読んでみてはいかがですか?神の本当の愛にぜひ触れていただきたいと思います。そして、教会に足を運んでみてください。教会はあなたのお越しをお待ちしています。この文を読まれた方に恵みと祝福がありますように。

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N0.253

 いのちの時間 》

 

先月の敬老の日に発表された「日本人100歳以上の高齢者数」をご覧になりましたか?なんと80、450人!平均寿命は男性81.41歳、女性87.45歳。まさに人生100

年時代の到来です。心身ともに元気に長生きしたい、とは誰もが願うことです。身体の健康を保つには食事や運動、睡眠により免疫力を高めることが大切と言われます。では心の健康を保つためには何が大切なのでしょうか?日野原重明先生(元聖路加国際病院名誉院長)は100歳を過ぎてもお元気に現役医師として活躍され、105歳で亡くなる直前まで多忙な毎日を人々のために捧げられたクリスチャンのお医者様です。日野原先生は著書「新生き方上手」の中で次のように記しています。  『時間が足りないと感じられる毎日であっても、あるいは人生の残り時間がもうあまりなくとも、与えられた時間の中に自分のすべてを注ぎ込むことができれば、その時間のなかには生きている喜びを十分に味わえます。人生の充足感は、時間の長さではなく、深さ、あるいはその密度から得られるものだからです。しかも、自分のことだけを思い、自分のためだけに行動したときよりも、自分が他から必要とされていることの中に素直にわが身を用いたときの方が喜びははるかに大きいものです。自分の時間を人のために用いれば、自分にもまた思いがけず豊かな喜びが与えられ、人を信じることができれば、それが自分を信じる力となっていく不思議さ。人生を生き抜くための力が、こうして自分を他に用いたときにたくましくされるというのは、まったく神様のたくまざるわざと言うべきでしょう。』

 医療や福祉・介護、ボランティアなどに携わる方々は、一日の大半を人のために尽くされています。自分の時間を削ってなさるその献身的なご奉仕に、尊敬と感謝の気持ちで一杯です。

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」

(マタイの福音書7章12節)

人の嫌がることはしないという考えも大切ですが、その人のことを思いその人のために行動することは、もう一歩前進の行いです。そこには愛があります。この真実の愛とは何かを説いた方がイエス・キリストです。聖書にはキリストの生涯とその愛の行動とみことばが記されています。それは見返りを求めない一方的な神様からの愛です。いつも手を広げて待っていてくださる神様からのメッセージです。 自分のことを振り返った時、人を思うより私のことを考える時間がほとんどです。家事や仕事も人や社会のための時間ですが、半分自分のための時間でもあります。しかも一見人のためのように見えて実は私のためにしていることが多くあることに気づかされます。このように日々の生活の中で愛よりも自我が顔を出すことの多い私ですが、聖書のみことば

によって失敗やエゴに気づいて反省し、また励まされています。そんな私にもできる人のための時間-それは祈りの時です。お祈りはいつどこにあってもできる神様との豊かな時間。一人の人を思い気持ちを注いで神様に祈る時、直接伝えることはできなくとも神様からその人へ恵みが届けられ、祈る私の心にも安らぎが与えられます。また教会で心を合わせて皆で祈る時、思いを一つにすることで大きな力が増し加えられます。聖書のみことばは日々の道しるべ、心の糧。教会はイエス様を中心に集まる家、悩み苦しい時は互いに祈り合い、励まし合い、嬉しい時は共に喜ぶ家族です。新しい方にもいつでも門を開いています。

 

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 (マタイの福音書2239節)

 

どんなに長生きする人にも必ず寿命はやってきます。誰もその時を自分で決めることはでき

ません。神様からいただいた命、生かされている時を感謝しつつ人を思う豊かないのちの時間

を大切に日々過ごして行きたいと思います。

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N0.254

 神さまに愛されて ≫

 

私の父は今年の九月、八十七歳の生涯を終え、天に召されました。真面目で几帳面な、それでいてユーモアのある人でした。父は無神論者でしたが、母がクリスチャンだったので、教会

で行われるクリスマス会やイースターのときには、礼拝に出席し、聖書の話しを聞く機会がありました。しかし、神さまのご存在を信じることは出来ませんでした。

二年半前、父に胃癌が見つかりました。幸い手術で胃の五分の四を切除し、胃の中の癌を取り除くことが出来ました。しかし、すでに癌細胞が腹部に散っている状態のステージ四の段階

でしたので、本人も家族も、父の死と真剣に向き合うこととなったのです。 高齢なことを考慮し、また、本人の希望もあり、辛い抗癌剤治療は行わないことに決め、定期的に検査を受けるという生活が始まりました。それからは他の臓器に癌が転移しないようにと祈り続ける毎日でした。約二年あまりは癌の転移は見られず、ほぼそれまでと変わらない生活を続けることが出来ました。 しかし、今年に入り少しずつ腹部の痛みが強くなっていき、ベッドで横になる時間が増えていきました。そして六月には通院も難しくなり、訪問介護看護サービスをお願いし、訪問医の

先生や看護師の方々に自宅まで来ていただくことになりました。死を目前に、母と私はもちろんのこと、牧師先生はじめ、教会員の皆さま方も父のために祈り続けてくださいました。その頃には、父はベッドの上で、毎週日曜日にオンラインで行われている礼拝で牧師先生のメッセージをじっと聞くようになっていましたが、それでも「僕のような浅はかな人間が、クリスチャンになれるわけがない。」と父は頑なに思っているようでした。けれど、そんな父に神さまは、一方的な愛を注ぎ続けていてくださいました。それは亡くなる数週間前、お見舞いに来てくださった副牧師ご夫妻を通して、語られた聖書のみことばが父の心をとらえたのです。

『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、

わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』

(ヨハネの黙示録3章20節)

このみことばを耳にした時、父の目には涙が浮かんでいました。次の日、牧師先生にお越しいただき、病床で信仰告白をすることができました。

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、

あなた方を任命したのです。』            (ヨハネの福音書1516節)

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』     (ヨハネの福音書3章16節)

これは、父がさらに神さまへの思いを深くした聖書のみことばです。

 この世の終わりのどんな準備が出来ていたとしても、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の贖いの死を、信じ受け入れ、新しく生まれ変わらなければ、永遠のいのちをいただくことはできません。またそれに勝るものはありません。父とはもう、この世での生活をともにすることは出来ませんが、光り輝く天の御国で再会す

る希望があります。信仰を持つのに、遅すぎることはありません。クリスマスは、イエス・キリストのお誕生日です。天の父なる神さまは、一人でも多くの方々

が救われることを、願っておられます。みなさまも神さまからの新しいいのちがいただけますようお祈りしています。

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N0.255

《 神様を求める人 》

 

私の勤め先に6年先輩の方がいました。寡黙で静かに仕事をされているので、同じグループに所属していましたが、あまり話す機会がありませんでした。しかし、ある時昼食後ラウンジ

でコーヒーを飲んでいたら、すぐ近くで単行本の旧約聖書を読んでおられました。「どこを読んでいらっしゃるのですか」と尋ねたところ、「ヨセフ物語です」と言われるので、

ヨセフの生涯の出来事について感想を話しましたら、「どうして知っているの?」ということになり、クリスチャンであることを話しました。彼も10年位、自宅近くの教会に通い、毎週木曜

日には「聖書に聞く会」という集会にも出席しているとのことでした。しかし、まだ洗礼は受けておられませんでした。これがきっかけで、毎日昼食の時間は一緒

に過ごすようになりました。イエス様の不思議な奇跡は本当にあったのか。創造論と進化論についてどう思うか。等々、1時間の休み時間は、あっという間に過ぎていき、聖書に真摯に向

き合おうとする姿勢に感銘を受けました。昼休みだけでは、話が終わらないことも多かったので、水曜日の早帰り日に、一緒にテキス

トを使って学びをすることになりました。喫茶店で聖書を開き、御言葉を学びながら、感じた事や疑問点など感想を話し合ったりして、最後にお祈りをして、1時間半位の時間を共に過ご

すようになりました。 職場の同僚と聖書の学びができたら良いなと以前から考えていましたので、実現できたことに感謝しました。彼は、大変勤勉で、聖書検定試験ができた話をすると、早速取り掛かり、瞬く間に一級まで合格してしまいました。 聖書知識は、かなり持っておられましたが、信仰の決心に至っていないことがよくわかって

きました。「何故、バプテスマ(洗礼)を受けないのですか。」と聞きました。すると、以前洗礼を受けようとした時、父に反対されて受けなかったとのことでした。確かに、クリスチャン

になるというと、家族に反対されます。仏壇やお墓の問題などと絡んできて、なかなか踏み切れない方が大勢いることも事実です。ですから、洗礼を決断できる時が来るように一緒に神様

に祈って、神様の時を待ち望むように励ましました。彼の教会の牧師も牧師夫人も「あなたが洗礼を受けるのなら、いつでもどうぞ」と言われて

いるとのことで、教会でも祈られていることを感じました。

 さて、テキストも終わりに近づき、最後に信仰を受け入れるお祈りをしました。そうしたら、その年のクリスマスに洗礼を受けることを告白されました。私は「お父様が反対されていたの

ではないですか」と聞いたところ、次のような御言葉が与えられたということでした。

 

「人に従うより、神に従うべきです。」          (使徒の働き5章29節)

 

私は、驚きとともに神様がその時を用意されたのだなと強く感じました。そして、その年のクリスマスに、彼は洗礼を受けました。彼も私も非常な喜びに包まれ、職場でこんなに喜ばし

いことが起きるとはなんと感謝なことだろうと思いました。あれから約1年が過ぎました。この1年間はコロナウイルスの影響で、職場でもほとんど話ができなくなりました。考えて

みると1年遅かったら、学びもできなかったと思い、神様がこの時を守っておられたことを感じました。その先輩も、先月65歳で定年となり、職場から去って行かれました。

 最後に、「私に会えて本当に良かった」とおっしゃってくださったのがありがたかったです。神様は、黙っておられるようで、今も生きておられ、全てのことをご存じで、神様を求める

者には全てを働かせて益としてくださることを改めて感じました。今は、コロナウィルスで、礼拝堂での礼拝は持てておりませんが、ZOOMを使ってオンライン

礼拝を捧げております。あなたも、このトラクトをご覧になって、神様に呼ばれているなと感じられましたら、ホー

ムページからご連絡ください。

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N0.256

《 神さまのはたらき 》

 

 私の父は今年99歳になります。その父はこんなに長生きするとは思わなかったと話しています。身体の弱かった父が他の兄弟よりもいちばん長生きしました。父とは、相性が悪かったのか可愛がってもらったという記憶が私にはありません。父は大正時代の生まれで強かったです。特に私には厳しく何かあれば暴力でした。ですからなおさら父

にあまえることもなかったと思います。父は戦争から復員して結核にかかりしばらく闘病生活をしていたようです。母との結婚はそ

の前後のようです。結核は治るのに時間がかかり、そのぶん母は苦労しました。母はミシンの内職をして生計をたてていましたが、内職ですから例えば服のポケットを何枚

もミシンで縫います、それを私は横にいてハサミで一枚一枚切り離していったのを覚えています。また夕方になると母は内職で出来上がった品を届けに行きますが、帰ってくるとミシンの

ネジが全部外されてきれいに並べてあったそうです。それを見た母は声が出なかったと妹である叔母に話したそうです。一生懸命に頑張っている母には辛かったことでしょう。私にすれば

ミシンが無ければ母が遊んでくれると思ったのだと思いますが、私にはネジを外した覚えも母に叱られた思い出もありません。母は怒ることも出来なかったのでしょう、今生きていたらご

めんなさいと謝りたいという思いです。でも、こんな母でしたが、父に対する不満やぐちを私によく言いました。ただでさえ苦手の父のことを言われるとますます私は父から気持ちが離れていきました。そして今から18年前に母は亡くなり、地方に住んでいたために父はひとり暮らしとなりました。父はもうそのころ80歳を過ぎており、その老いた後ろ姿を見ると何もしないわけにはいかないという思いでした。私もそのころ悩むことがあり教会に行くようになり聖書を読んでいました。聖書は旧約聖書

と新約聖書があります。その中に大切な教えがあります。

 

『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』

(申命記6章5節)

『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。』(レビ記1918)のふたつです。つまり、神さまと隣人を愛しなさい!という教えです。私はこの二つの教えを握りしめ、父と向き合うようにしました。父も一人暮らしの中で寂しさやせつなさを味わい「ありがとう」といえる人に変わっていました。神さまが父と私に働いてくださったのだと感じます。

教会の牧師は『神さは今も生きて働きたもうお方』と説教の中で言われますが心からそう思います。父が一人で出かけて帰ってくると明るい声で「ただいま」といいましたが、その声に

なぐさめを感じました。現在父は一人で暮らせなくなり老人施設でお世話になっています。コロナがないときは施設の父に会いに行って、父の昔話しを聞いたりして楽しい時間を過ごすことが出来ました。今はそれが叶わなくなり残念ですが、施設の配慮で時々会うことが許されています。今、こうして父と心から信頼した思いを持って会えるようになれたことが何よりうれしいです。

 神さまの働きと聖書の教えのおかげと思って感謝しています。そして、これからも父との面会に出かけて行くことを楽しみにしています。

 

『わたしは、あなたがたに平安を残します。

 わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』 

(ヨハネの福音書1427)

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N0.257

《 素朴な疑問 

 

 私はキリスト教の家庭に生まれ、幼いころから聖書に親しみ、教会に通っていました。小学生からミッションスクールで学んでいたため、聖書を何の違和感もなく読んできました。

しかし、高校生くらいになると聖書や神様に対して些細な、そして素朴な疑問を抱くようになりました。大学生になり、キリスト教系の大学に進学することを決意した理由の一つは、「聖書が何を言っているのか自分で知りたい」というものでした。今回は私の疑問だった「神はどうして善悪の木の実を置かれたのか」ということについて、考えたいと思います。

 聖書は、この世界が全て「神のことば」によって創られたと語ります。(創世記1章)神様は愛するために最初の人間であるアダムとエバを創られ、エデンの園に置かれました。

この話はご存じの方も多くいらっしゃると思います。エデンの園には様々な動物が生きあらゆる植物が果実をみのらせる豊かな場所でした。

 

 神様はエデンの園にある果物は食べて良いが、一つだけ「善悪の知識の木」からは食べてはならないと言われました。(創世記2章1617 

神様は「エデンの園の中で一つだけしてはならない」と、人間と約束事を決めたのです。何故そんなルールを決めたのでしょうか。人間を試したということでしょうか。それが私の疑問でした。ここで注目したいのは、神様は「善悪の知識の木」ともう一つ「いのちの木」を置かれたことです。「いのちの木」は食べて良いと言われました。それは、私たち人間が 自由に選ぶこと

の出来る『自由意志』と『選択権』を与えられたということです。また、ただロボットのように何も考えずに従うような存在ではなく、神様の約束を自分で選

んで欲しかったのです。もし神様が「善悪の知識の木」を食べるかどうか人間を試していたなら、その約束を破ったとき人間を滅ぼしたでしょう。

 

しかし、そうしなかったのは、神様は私たちを信頼してこの約束を結ばれたということになります。私たち人間に「選ぶ自由を与える」ことは、「約束を破る」という大きなリスクがあり

ました。食べてはならないと言われた木の実を食べたことにより、自分の中の正義を語るようになり、神との断絶「罪」が生まれました。

 

そのリスクをご存じで、私たち人間を信頼し、私たちの選びと思いを尊重してくださいました。しかし、神は、原罪を持つ人間に、神を信じて従う者には救いの道も用意されているのです。

このことを通して、私は、神が人間を本当に愛し、尊重されていることを知ることが出来ました。人間は罪を犯したので、神から離れてしまい、愛や正義、いのちを知っていますが、本

来の完全な形ではなくなってしまいました。

 

 神の御子イエス・キリストは、人間の罪のためにこの世に来られました。この神が「あなたは高価で尊い。」とあなたのことを呼ばれ、待っておられます。

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N0.258

《 クリスチャンの日々の祈り 》

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

私たちクリスチャンは朝起きて、夜眠るまで、あらゆる場面で神さまに祈り生活しています。クリスチャンで無い人も、人生の様々な重要な出来事や不安な時など、祈った経験があるので

はないでしょうか。クリスチャンの祈りとはどのようなものか、場面ごとに紹介いたします。

【朝の祈り】 天にいらっしゃいます父なる神さま(この冒頭部分は必ず、神さまに向かって唱えます)こうして爽やかな朝を迎えることができ感謝いたします。どうか今日も一日、あなたが共にいてお守りください。そして神さまの御心にかなう行いをすることができ、神さ

まの祝福に預からせてください。これらの感謝と願い、主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン。(この結びも必ず唱えます)

【食事前の祈り】 天にいらっしゃいます父なる神さま、肉の糧(かて)として、日々の必要な食事を備えてくださり感謝いたします。これから頂く食事が血となり肉となり、あなたのためにより一層奉仕する力とすることができますようにしてください。これらの感謝と願い、主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン。

【仕事前の祈り】 天にいらっしゃいます父なる神さま、これから一日の仕事が始まります。与えられた仕事を力一杯働く者とさせてください。今日一日、あなたの御心にかなった働きが出来ますように、知恵と力をお与えください。主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン。

【車を運転する前に】 天にいらっしゃいます父なる神さま、これから車を運転いたします。あなたがいつも私と共にいてくださることを感謝します。道中、私の車を全ての故障、事故

から守ってください。無事に目的地に着き、無事に家に帰ることが出来ますように、落ち着いて運転が出来ますようにお導きください。これらの感謝と願い、主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン。

【寝る前の祈り】 天にいらっしゃいます父なる神さま、今日一日、無事に過ごすことが出来ましたことを感謝いたします。愛する家族をも十分に体を休めることが出来ますようにお導きください。これらの感謝と願い、主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン

 

このように、私たちクリスチャンの祈りは信仰生活の中心にあり、いつでも、どこでも、どんなことも、神さまに対して祈るのです。神さまに守られていることへの感謝、そして願い、神さまの御心を尋ね求めることで得られる心の平安。共にいてくださる神さまとの対話が祈りなのです。是非、教会で一緒に聖書について学び、神さまが共にいてくださる、平安のある人生を送っ

てみませんか。

 

 『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あな

  たがたの願い事を神に知っていただきなさい。

   そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・

イエスにあって守ってくれます』

                     (ピリピ人への手紙4章6、7節)

 

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N0.259

《 人は変われる 》

 

 私は、母が逝った歳をとうに過ぎ、腰痛がありながらも元気に暮らしています。十メートル歩くにも苦痛がある体の私にも、まだ出来ることはあります。庭の草取りならしゃがんで一、二時間は続けられるし、家族六人の食事の支度は椅子に座って出来ます。私に残された力が少しでもあって手助け出来るのは感謝なことです。以前の私はこうは考えませんでした。

 東京近郊の低山に夫と何度も登山したり、都心に買い物に出掛けたり、友人と旅行や食事をしたりすることが楽しみだった頃を懐かしみ、夫婦ともに老いて不自由な体で鬱々とした暗い日を送ることになっていたと思います。

 

 聖書のことばに「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(中略)わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイの福音書1126節)という有名な句があります。

 

 中年を過ぎて教会の門を叩き、神のことばに触れてから私の考えは変わりました。

「わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」当初は分からなかったこのことばが老いるごとに身をもって実感できるようになりました。

 満たされない日常の穴埋めにあれこれしても、一旦出来なくなるとどっと寂寥感に襲われてしまう現実です。今まで自分中心の生活をしてきたことに気付かされました。自分中心を聖書では「罪」といいます。罪を持ったままでは、何をしても心は満たされません。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙 第一 1章9節)心の中で神に罪を告白し、悔い改めたとき、神さまは私たちの罪を赦してくださいます。こんな平安があるでしょうか。いままでの自分中心の私が赦され、神さまから愛されていると言う感覚によって、満たされない心が喜びと感謝へと変わります。平安な心によって表情はほほえみと変わり、まわりの人にも伝わって人間関係の良い環境が流れ出すでしょう。

 

 家庭において、お母さんがいつも明るく温かだったどんなに楽しいでしょう。

 きれいごとばかりでなく人の力ではどうしょうもない深刻な問題が起こったとき、そういうときこそ神に祈り助けを求めましょう。神は、励ましてくださり、休ませてくださり、ともに重荷を負ってくださいます。

 

 「あなたがたの会った試練はみな、人の知らないようなものではありません。

神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるような

ことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備

えてくださいます。」       (コリント人への手紙 第一 1013節)

 

 ひとりで悩んでいなくていいよ、と言われる愛の神さまがともに歩んでくださいます。

 今私は、老いることが、体が動かなることが最大の関心事ではなくなりました。人の喜びが、自分の喜びとなるような人間になりたいと思っています。

 

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N0.260

 

« 動物は天国へ行けないのですか? »

 

 私の家は物心ついたころから、インコやハムスターや鶏、犬や兎など多くの動物をペットとして飼っていました。両親が仕事で忙しく兄弟で過ごすことが多く、小さなペット達と多くの

時間を過ごしてきました。食卓を囲むときは、いつも飼っている動物の話しが話題の中心であり、とても楽しい時間でした。家族全員、動物が大好きで、私たち兄弟の心の隙間を埋めてく

れる大切な友達でした。小さな動物を介して家族のコミュニケーションをとってきたのです。中でも一匹の大型犬のことは忘れることができません。亡くなって5年がたちますが、時折

思い出しては涙しています。彼はクールな外見とは違い、とてもさみしがりやの甘えん坊、大飯ぐらいで、いつも冷蔵庫の前に座っていました。

 私は成人になってから両親とたびたび衝突しました。結婚を期に実家を離れ、ペットとして飼いだしたのが先の大型犬のワンコです。子どもがいなかった私たち夫婦には息子のような存

在で、キズナとなってくれました。しかし、私の身勝手から結婚して10年、離婚をして実家に戻ることになりました。でも、相変わらず両親とそりが合わず「犬」が慰めといった気持ちで

した。 私は、今思えば本当に身勝手でした。両親は私たち兄弟を育てるために一生懸命働いていたことに気付かず、一人で何でもできるように厳しく育てられたのだと今になって思うようにな

りました。当時私は、精神的に病んでしまい日常生活がおくれなくなり、一人で歩けるのは家の周りの遊歩道だけとなりました。ワンコと一緒に散歩しても、目に飛び込んで来る風景すべてが恐怖で息苦しく、空気が薄く意識が遠のきそうでした。しかし、リードを手放すわけにはいかず、ワンコに力をもらいながらだんだん散歩の距離を延ばしていくことができるようになっていっ

たのです。少し外へ出られるようになったころ、母が通う高尾教会へ行くことになり、初めてイエス様のことを知りました。賛美歌に涙し、徐々に私は癒されていったのです。私がクリスチャンになれたことは、当時の私からは考えられないことです。まさに神さまのご計画であったと思います。私は病気になることで初めて両親の大きな愛に気付き、ワンコはその仲介役となってくれました。ワンコがいなければ、実家にも戻らなかったでしょうし、両親と気持ちを分かち合うこ

となど無かったと思います。それから1年後、神さまに癒しをいただき、社会復帰もし、体調も随分回復できた初夏にワンコは急に亡くなってしまいました。が、その次の日の朝、庭に大きな白ユリの花が一輪咲いて甘い香りを放ち、朝露にきらきら輝いていました。私はその時、イエス様の復活を思い出しました。白ユリはイエス様の復活の象徴です。私は、

そのユリを手折ってワンコに持たせました。聖書には、動物は天国に行けると明確に書いてある箇所はないそうです。牧師先生にも聞きましたが、時として、神さまのご計画の中に動物を使わされることがあると言われました。たとえ、ワンコが私の救いのために使わされたとしても、私に「愛」を与えてくれたものとし

て神さまに愛されて、神の御国にいると信じたいと思うのです。クリスチャンとして神に信仰を持ち続け、隣人を愛し、両親を兄弟姉妹を愛し、いつか私が召されたとき神さまのそばにワンコがいて、私を迎えに来てくれるのを信じてその時を待ちたいと思います。もう一度イエス様のそばにいるあの子に会えると信じ、クリスチャンとして恥ずかしくない生活を送って天国に入れるふさわしさを身につけたいと思います。天国は私の希望の光です。イースターの時期になると思い出される私の証です。