N0.201

 讃美フラに魅せられて ≫

 

 二年前の七月三十一日、私は初めて高尾キリスト教会の門をくぐりました。キリスト教会に全く興味はありませんでしたが、あるゴスペルコーラスの発表会で讃美フラダンスを知り、レッスンを受けたいと思うようになりました。

高尾教会は初めてなのに、何故かとても懐かしく胸が一杯になったのを覚えています。

ダンスを習ってみたものの難しくて全く解らず、楽しいとも感じないで帰宅しました。誰に誘われた訳でもなく、教会に知人もいません。しかし、不思議なことに次のレッスン日、気付くと教会の前に立っていました。

 三十五年振りに九州から友人が上京し、皆で会う約束を断ってまでです。自分の行動が信じられませんでした。それから間もなく、軽井沢でのフラダンス研修に参加することになりました。全国から百人近くの方々が集い、皆熱心に学んでいました。その中でノンクリスチャンは私一人だったと思います。全てが初めての私にとって驚きの連続でした。

ダンスだけでなく、説教・ミニコンサート・クリスチャンの証し・ダンスの発表。先輩方の喜びと愛に溢れた笑顔と心から主を讃美する輝く姿に感動と衝撃を受けました。

研修を終え帰宅後、讃美歌が脳裏から離れず、半日もの間涙が止まらず溢れ出して、ふわふわの雲の上にいるような暖かく不思議な感覚がいつまでも消えませんでした。

 思えば子どもの頃より波乱万丈の日々でした。愛する人と結婚でき、子どもも授かり、幸せな日々もありました。しかし、夫の会社倒産・多額の借金・夫の自殺未遂・父の死・私の離婚・認知症の母の介護・そして常に守ってくれたその最愛の母の死。

次々と押し寄せる苦難の日々健康な体とは言えない私には苦しく辛い日々の連続でした。

 しかし、傲慢な私は全て自力で乗り越えたと自負していたのです。もう泣くことも、心から笑うことも無いだろう。これからの人生は楽しい事だけ考えて、適当に身も心も騙しながら気楽に自由に生きようと思っていました。しかし、何をしても満たされず空しさが募るばかり。こんなに気楽に生きていて良いのか。何か役に立てる事は無いのか。悶々としていた頃、讃美フラダンスに出会ったのです。讃美フラは、主への愛と感謝の気持ちを体中で表現し誉め讃える神聖な踊りです。

 

『あなたは私のために、

嘆きを踊りに変えてくださいました。

あなたは私の荒布を解き、

喜びを私に着せてくださいました。』

(詩篇三十篇十一節)

知れば知る程に恐れ多く、すぐに辞めようと頭では思うのですが、既に自分の意志ではなく、気付くと教会に来ていました。偶然が重なったと思っていましたが、神さまはご計画どおりですべてをお見通しでした。今までの人生で無駄は一つも無く、傲慢な私が気付くためには人の倍の時間が必要だったのです。それらは神さまが与えてくださった試練という恵みであり、あの時の止めどなく溢れた涙は、主イエス・キリストの愛そのものだった事に気付かされました。

聖書も読んだ事がなく、神さまの御子が主イエス・キリストだということも知らなかった私を、理屈抜きで回心させたのは紛れもなく神さまでした。

私の人生において、主イエス様に巡り会えたことは最高の誇りであり、最大の喜びとなりました。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。

それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

私たちは神の作品であって、良い行いをするために

キリスト・イエスにあって造られたのです。

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをも

あらかじめ備えてくださったのです。』  (エペソ人への手紙二章八~十節)

 

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N0.202

 砂の上に家を建てた人と岩の上に家を建てた人 ≫

 

 

 

人間何か困ったことに直面すると「神さま、仏さま助けてください!」と懇願します。そして通り過ぎると何事も無かったような顔をして忘れてしまいます。

 以前、こんなことを耳にしたことがあります、「キリスト教に入ると、何か良いことが起きるのか?」と。残念ながらキリスト教の神さまは「御利益主義」の神さまではありませんので「宝くじが当たる」「病気にならない」「事故、災害には遭わなくなる」等はありません。これらに関してイエス・キリストはこのように教えております。

 『だから、わたし(イエス・キリスト)のこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。(中略)また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると(砂の上に建てた家は、岩の上に建てた家に比べ)、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。』(マタイの福音書七章二十四~二十七節)

 だれが考えても、砂の上に建てた家より、岩を土台にして建てた家の方が頑丈なことは自明です。でも通常状態のときは、砂の上に建ててある家なのか、岩の上に建てた家なのかは外見では解りません。暴風雨、嵐が来て、はじめてその差が解るのです。

 人間、この地球上で生きていれば自然の災害、災難等を避けることは出来ません。病気にならないということもありません。

 ここで云う「岩」とは「イエス・キリスト」のことです。ここで云う「雨、風、洪水」とは、人間、生きていく中で避けられない「災害、災難、事故、病気」等のことです。

 実は、イエス・キリストはこのように言っておられるのです。「わたしを信じる者にも事故、災害、病気は来ます。しかしながら、わたしの岩(土台)の上に自分の家を建てた者にはいつも、わたしが共にいます!」と。我々クリスチャンには、とても安心感のあるみことばなのです。

 聖書には、このようなみことばもあります。『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(試練に耐えて打ち勝つ力を与えてくださる)』(コリント人への手紙第一 一〇章十三節

 私は肝っ玉の小さい小心者ですから、何か心配事にぶつかるとオタオタしてしまいますが、このみことばを思い出して、自分の最大の努力をすれば、あとは、神さまが何とかしてくださるだろうと、祈ります。

 以前、教会に行かれたことのある方、以前、聖書を読んだことのある方、未だ聖書を読んだことのない方、キリスト教に興味のある方。ご一緒に教会で、聖書を学びませんか。聖書は、そんなに難しいものではありませんよ。   

 

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N0.203

 神さまからの平安 ≫

 

 ある日の昼下がり、最寄りの駅に着き、改札を入ろうとした時、人身事故発生のため運転中止のアナウンスが流れた。私は、突然行く手をはばまれ立ち止まったが、他に交通手段もなく、停車中の電車に座って運転再開を待つ事にした。じっと目を閉じて祈った。

その人の命が助かり出来るだけ早く運転再開となりますようにと祈りつつも、私の頭の中には、いろいろなことが浮かんできました。

 どんな人だろうか?男性?女性?年齢は?その人はどんな悩みを抱えていたのだろうか?等々、いずれにしても当人にしてみれば、何かに絶望し、生きているのがつらくて、自ら命を絶ってしまいたい一心だったのかも知れないが、残された家族にとっては、この行為に対する悔恨をずっと引きずって生きていかねばならないから、つらいだろうなと様々な推測が、私の頭の中を駆け巡りました。

 大分時間も経過した頃、「処理が終わり次第の運転再開となりますので、今しばらくそのままでお待ちください。」とアナウンスがあった。やはりと私は、その時思った。

 ひとりの尊い命が、一瞬にして今消えてしまった事をうかがい知る事となり、暗い気持ちになってしまった。私は自分の病に不安を覚えながら治りたい一心で病院に行く途中、この事故に遭遇し自分と重ね合わせて複雑な思いだった。確かに人生は自分の思い通りにはほとんどならず、次々と苦難に直面します。でも、どんなにつらい境遇であっても、生きる事。そして、ありのままの私を神さまの前にさらけ出して、助けを求めれば、必ず解決の道を与えてくださり、悩み、苦しみを通して喜びや希望に導いてくださることを聖書で知りました。

私が初めて教会に行ったのは、三十歳代であり、やはり悩みを抱え、わらをもつかみたい気持ちで教会を尋ねたことを思い出します。その時、弱い私を助け、支え、今日まで導いてくださった方が、イエス・キリストでした。キリストは、信じる者を絶対に見捨てるようなことはなさらないと聖書にありますが、心強く、その通りでした。一般的によく耳にする言葉で、「自分の事は、自分が一番よく知っているから」と、以前は私も思っていましたが、実は、キリストは、私以上にというより私の全てをご存知のお方であり、私が苦しんでいる時には一緒に苦しんでくださっており、その苦しみを乗り越える力をも与えてくださっているとはなんと心強いことでしょうか。

 キリストにゆだね切って生きる事ができれば、本当に幸せです。私は病を通して、キリストを以前よりも身近に感じました。それは、キリストを信じる者に与えられている「祈り」を通してでした。私のために牧師さんや教会の皆さんが神さまにとりなし、祈ってくださっている事は、私にとって本当に励みとなりました。しかし、今回私の身に起きた事に対し、神さまにお願いするのは、恐れ多い気持ちになりました。たとえ、病がどのような結果であっても、私の全てをご存知の神さまの御心として受けとめるべきだと思いました。もちろんお願いもしましたが、最終的には神さまが私に対するご計画がなされると聖書に示されているので、「神さまにお任せします。どんな結果でも、神さまの御心として冷静に受け止める事が出来ますように。」と祈ることが出来たのは本当に幸いでした。

自分自身でも不思議と思えるほどの平安を与えられました。私はその時、信仰の有難さをつくづく感じ、感謝をしました。信仰が与えられていなかったら気の小さい私にこの平安はなかったと思います。治療も無事に終った後日、医師の説明で初めてわかった事ですが、実は、最悪な事態を招くものであったことを告げられ改めてびっくりしました。最悪な事態を免れる事が出来たのは、神さまが働いてくださったものと信じます。私は、もう一度いのちをいただいた思いがしました。感謝の気持ちでいっぱいです。

 病を通して経験させていただいた事を忘れず、与えられたいのちを大切に、これからの日々を歩み続けたいと願っています。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」       

 (マタイの福音書十一章二八節)

 

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N0.204

 

 『死』の恐怖から放たれて ≫

 

 皆さんは、自分の死をどう捉えておられるでしょうか。人は、生まれた時から死に向かっているのは当然の事実ですが、私は、自分の死について、受け入れ難い恐怖を感じてしまいます。それは、五十年も昔のことになりますが、私の長兄が山で遭難し、二十七歳で突然亡くなってしまった事に起因して知るかもしれません。兄本人の無念は勿論ですが、残された家族の悲しみは酷いものでした。その出来事から人の死というものを強く意識するようになりました。この世から消えてしまう無念やむなしさ、死後何処へ行くのか、死に際の苦しみに耐えられるのだろうか、生への執着と未練。あれこれ考えを巡らせているうち、私の中に、過ぎた昔への「ノスタルジー」の存在があり、その事からの決別を恐れる思いがかなりある事を発見するのです。夕暮れ時家族で囲んだ丸い食卓とその匂いや、父母兄弟との言葉のやりとり、やさしい表情、路地で暗くなるまで遊んだ幼い日々、仕事帰りの母を毎夕、駅の柵をのぞきながら待った風景、多くの懐かしい思い出がいつまでも私の心から離れません。

 聖書では何と言っているでしょうか。「伝道者の書」の巻頭、一章一節に「空の空すべては空」とあります。ここには「空」という言葉が四十回も出てきて、徹底的に、人生のむなしさを強調しています。人の営みは風のようだと。確かに、私がいとおしく思う昔の風景は、そこを訪れても最早無く、そこに居た人たちもほとんどは亡くなって風のように消えてしまいました。

今となっては私の心の中だけにある幻のようです。前述した聖書を読み進めますと「今までの事は何も気にせず、世を捨てて生きよ」と言っているのではない事が分かります。そこにではなく、「人が真に求めるものは何か」と問うているのです。若くして死んだ者にはその者の、逆境の中にいる者にはその者の、その置かれた所、それぞれが受けとめ、自分の人生を生きよ、と教えています。

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書三章十一節)

 私たちのあらゆる時は、神が支配されていて、自分を捨て、神のみこころに自分を合わせて生きる時、あわれみ深い神は、私たちの死後の世界までも顧みてくださる、という真理に至るのです。

 窓の外の庭を眺めながら、静かにコーヒーを飲む朝、「今日も神にゆだねて生きよう。」という平安な心に包まれます。神が私の心にあり、共に歩んで下さる事が、私の力の源です。

 今年もクリスマスが近づいてきました。教会では、私たちクリスチャンにとって神であられるイエス様がお誕生になった日を心からお祝いします。それは表面的なお祭りではなく、私たちを具体的に正しい道に導き、永遠のいのちを与えてくださった大切な方のお誕生日だからです。

皆さんも本当に意味のあるクリスマスを教会で過ごしませんか。

 

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N0.205

 

 この道 ≫

 

 私は二十歳過ぎまで万博のあった大阪の千里で育ち、両親がクリスチャンで実家の筋向いが牧師先生夫妻が自宅を開放して牧会をしておられた教会でしたので物心付いたときから日曜学校へ通い聖書のことばと美しい絵が書かれたカードが増えていくのが楽しみでした。幼稚園も教会員の園長夫妻が経営されていたので、いつも旧約聖書の物語やイエス様のお話しが聞け、とりわけクリスマスや、復活節の催しの楽しさはいまでもなつかしく思い出されるほどです。

 高校二年のイースターのとき受洗しましたが、その後五月に召天した母のとても喜んでくれた顔が忘れられません。

 結婚して主人の転勤とともに七回か八回転居しましたが、いつも先ず近くの教会をさがして日曜礼拝を守りました。特に新宿の信愛教会では子どもたち三人も通い、写真が趣味だった主人の撮ったクリスマスの祝会の模様が五〇年経ったいまでもセピア色になって残っています。

 高尾に三十七年前家を建て、はじめは新宿まで通っていましたが成人して離れた子どもたちが帰ってくる日曜にすれ違いになるようになり近くのカルバリー・バプテスト高尾キリスト教会が配られたこのようなトラクトを見て伺うようになり今年で三十年になります。

 思えば母を早くに亡くし何も教わらないまま夢中で精いっぱい過ごして参りました。

いろいろな試練もいただきました。でもいま振り返りますと、神さまはイエス様を通して信ずるものを決して見捨てずいろいろな方法、人々を通じていつも良い方向へ導いてくださいました。

 長い間の祈りに応えて主人、息子、次女も救われました。いま老境に入りこの人生のマラソンも最終グランドの入り口に立っております。『老境の収穫』という本には「神は人間の一生を全体としてみるべきものとして計画なさった。静かに人生を味わいなおしていると、私の人生に無駄はなかったという思い、そう思えることが感謝であり日常の慰め、励まし、支えになっている」とありますが、「人間の営みとしての人生だけを見れば悔いを残すことが数限りなくあったにもかかわらずすべての無駄をとりあげて用いてくださる神の知恵と恵みにゆだねる限りわが人生に悔いは無かったという肯定が許される」とありますが本当にその通りと共感を覚えます。

 聖書に

〇 たとえ外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされています。(コリント四:十六)

 〇 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇百十九:一〇五)

 〇 夕暮れ時に光がある。(ゼカリヤ書十四:七)

〇 あなたがしらがになっても、わたしは背負う。背負って救い出そう。(イザヤ四六:四)

とある御言葉により頼み、神さま、イエス様、御たまと皆さまのお助けを仰ぎ、いただいた寿命を日々感謝して過ごしたいと願っています。

    〝今在るは神の恵みや寒椿〟

 

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N0.206

 

 『 教会 』って何ですか? ≫

 

私の仲間が、新婚旅行でイタリア方面に行ったときの話ですから、ずいぶん昔のことになり

ますが、その友人が帰国したときの会話です。

「何を見て来たのか?」と尋ねたところ、彼は「さすがはキリスト教国」だけあって「教会」

がいたるところにある。「教会」をたくさん見てきたと答えました。

「ノンクリスチャン」の彼には無理のない応えでした。

キリスト教では、「教会」と「教会堂(建物)」とは違うのです。少し屁理屈に聞こえるかもれませんが、彼は「教会堂(建物)」を見てきたのであって、「教会」を見て来たのではないのです。では、「教会」とは何でしょうか? 少し難しくなりますが、「教会」はギリシャ語で「エクレーシア」といいます。その意味は「招集された」という意味です。

 ですから、「教会堂」は建物のことですが、「教会」は、人の集まりのことであって、キリス

ト教的にいうと、単なる人の集まりではなく、「神に召し集められた者たち」という意味なので

す。

また、「教会」の頭(かしら)は「イエス・キリスト」であって、「神がともに居る」という

集まりです。 少し適当ではないかもしれませんが「饅頭」でたとえれば外側の皮の部分が「教

会堂(建物)」で、中身の「餡」が「教会」です。

 ですから、我々が皆さんをお誘いするときに、「教会にいらっしゃいませんか?」とは言いま

すが、「教会堂にいらっしゃいませんか?」とは言わないのです。

 「教会」は、神に召し集められた人々ですから、いろいろな人たちがいます。

年齢、性別、国籍、学歴、職業、地位、経済力等々。中には病気の方もいますし、重荷を

背負っている方もいます。当教会にはおりませんが、以前ヤクザであった方もいます。

でも、神さまの前には、すべてが平等なのです。

 「教会は」は敷居が高い。「教会」は清廉な人が行くところだ、等々で、遠慮なさっている方

も多いようですが、まったく、その心配はありません。「教会員」の皆さんは、ごく普通に何処

にでもいるような「おじさん」「おばさん」「子どもたち」です。

いちど、「教会堂(建物)」の扉をたたいてみませんか?

 すると、神さまが、あなたの「心の扉」をたたいてくれますよ。

 

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N0.207

 

 信仰こそ子どもに残してあげる最高の贈り物 ≫

 

子どもは、すぐに大きくなりますね。何もかも必要なものを与えてあげなければならない赤ちゃんの時から、歩けるようになり、やがて学校に通うようになると、背丈も伸びて親をいつの間にか追い越すようにもなります。誰もが我が子に願うことは、その子のしあわせです。

それは、全ての親に共通する願いでありましょう。いくつになっても、子どものことが心配で、母も私が五十歳を過ぎているのに、あれこれと忠告し、「そんなことはしない方が良いよ」とよく助言をしてくれました。子どもとしては、ややうっとうしくなるわけですが、たぶん、それは、殊に母親は自分のお腹を痛めて出産し、小さな頃から我が子を見てきたので、心配が先立つのでしょう。

若い頃は、それが嫌で自立した一人の人間として扱われたいと強く思った時もありましたが、子を持って初めて親の気持ちがわかるようになるのでしょうか、今はその気持ちが良くわかるので、私もたぶん、同じようにしてしまうのだろうなあと思います。既にその兆候が表れているようで、子どもからは、「パパ、うるさいなあ」と時々言われます。でも、それでいいのだと思います。やがて、彼らもそのことに気づくと思いますから。

子どものしあわせとは何でしょうか。

これは人間のしあわせですね。おそらく、ごく一般の日本人は、生涯を通して好きなことが出来ること、健康でいられること、お金持ちになること、社会で認められて出世すること、自己実現や夢の実現等々を挙げられる方が多いのではないでしょうか。

私も、人間としてこのようなものを正直願います。しかし、これらを手に入れたからと言って、必ずしも幸せになるとは限らない現実もあります。

富を手にすると、もっと豊かになりたいと思うようになります。人間の欲には際限がありません。また、それを維持できるかと、いろいろ心配になってしまって、本来の生き方ができなくなってしまったりするのです。

社会的な地位や栄誉を得ても、いつか後進に道を譲らなければなりません。健康も年と共に衰えていく中で失われていきます。こう見てきますと、これを得れば幸せになれると思うことも、実は却ってそれを得たことで不幸になってしまうという現実もあることがわかります。

そうすると、親が子のしあわせの為と思ってしていることも、実は本当の幸せにつながっていかない事もあると言えます。そして、人間には死があります。

人は、それに対して無力です。ですから、本当のしあわせを考えるならば、この死をも克服できなければ、しあわせとは言えません。

 

 昨年のクリスマスに、私たちの教会では一〇歳の女の子が神様と人の前で信仰告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けました。「小さい頃から母親に聖書のお話を聞かせてもらっていたので、イエス様の事を自分の救い主として信じることができました」と話しておりました。

聖書の伝道者の書十二章一節に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」という御言葉があります。この創造者とは、私たちをお造りになった真の神様です。

真の神様に目が開かれる時、その方に信頼をして生きていくとき、人は平安と喜びを感じます。また全てを造られた神は、私たちが永遠の滅びに向かわないように、守り導いて下さる方であり、自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じるならば、永遠のいのちをくださると約束しておられるのです。

イエス・キリストは、全ての人の罪を贖う(罪を赦すこと)ために十字架上で身代わりの死を遂げられたのです。 

 それは全ての人を愛しているゆえの死でした。しかし、3日目によみがえったと聖書は記しております。私たちは、そのイエス様を信じる信仰によって罪が赦され、永遠のいのちを頂き、イエス様と同じように復活するのだと約束を頂いています。この神様と共に歩む信仰こそ、私は子どもに残してあげる最高の贈り物だと思うのです。

 

 聖書には、イエス様が子どもを愛しておられ、ご自分のところに子どもたちが来ることを喜んでおられることが記されています。

 『さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。

そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。』

             (マルコの福音書一〇章十三~十六節)

 

是非、教会にお越しください。一緒に、人生で最も大切な事についてお話ししましょう。

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N0.208

 

 教会は出入り自由です ≫

 

 二十五年程前、退職し時間をもてあましていた私は、世界のベストセラー「聖書」とは、どんな本なのか知らないと恥ずかしいと思い、無料のカルチャースクールへ行くような軽い気持ちで教会の門を叩きました。

 初めに目にしたことばは「自分の目に梁(はり)があるのに人の目の塵(ちり)を取ろうとする偽善者」「あなたがさばくとおりに、あなたもさばかれ、同じ量りであなたも量られる」ということばでした。自分の言い分ばかりを主張する前に、公平な目があると言われ「納得」と思いました。

 さらに「心の貧しい者は幸いです。」「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。」

 いずれも新約聖書の巻頭、マタイの福音書のはじめのところに出てきますが、この不思議なことばの意味に好奇心が湧きました。が、ここで訳が分からないから行くのをやめよう、深入りしそうだからと思えばやめることも出来ました。

 教会は強制しないし出入り自由なところです。しかし、聖書を学ぶことと同時進行で、当然ながら教会の方たちとの交流もあります。はじめて教会に行ったとき、牧師が私のために祈ってくださったことや、みなさんに温かく迎えられたことに心動かされました。

 実のところ、あの頃の私は仕事を辞めて、これから長い人生どう生きて行ったらよいのか、また人への失望を感じていた時でした。

 暇つぶしではじめたと思い込んでいた私でしたが、それだけではなかったことに気付きました。友人と旅行に行ったり、遊んだり、いろいろな趣味をしていても埋めることのできない空虚感がありました。教会の人たちとの温かな交流の中で、行きつくところ人は人との関わりが良好なときに心満たされ、幸福な人生を送ることが出来ると実感したのでした。

 人の大部分の問題は、対人関係の良し悪しに起因していると思います。

 夫、子ども、親兄弟、友人、趣味仲間の間でさえ、自分のいるところ何処にでもです。そして、その解決の鍵は自分が握っている、ということです。「祭壇の上に供え物をする途中で人と争っていたことを思い出したなら、その供え物をそこに置いて、その人と仲直りをしに行きなさい。」(マタイの福音書五章二三節)神に供え物をする前に人との関係を大切にしなさいということです。教養を高め知識豊かになったとしても、対人関係が良くなかったら、幸せな人生を送ったとは言えないでしょう。また、神は真面目に正しく生きてきたと言う私より、自分は人に迷惑ばかりかけて生きてきた駄目な人間だと思う心の人を喜ばれ、謙遜に生きることを教えられます。聖書のことばは難しい人生観や世界観を学ぶ観念的な書物とは異なる、生身の人の魂に働いて、内から私たちをよい方向に変化をもたらす愛といのちの書です。

 自分の物差しや価値観で生きてきた私の目の覆いを取って、正しく導いてくださる教師であり、父である聖書に出会えたことに喜びを感じ感謝する日々です。

 短い私たちの人生ですが、人の根源的真理を知らないで終わるのは残念なことです。私の世代は団塊世代で一クラス五〇人、一学年十四クラスもある時代に育ちました。教師と言葉を交わした記憶は数えるほどでした。「個」というものが重んじられず、いつも競争の中で必死に働いてきた世代です。今時間が出来て、ゆっくり自分の人生を思い返しています。皆さんも出はいり自由、無料カルチャースクールで空いたときを、深遠な神の愛のことばを、ご一緒に学びませんか。

「あなたの若い日に創造者を覚えよ。

~『何の喜びもない』という年月が近づく前に。」(伝道者の書十二章一節)

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N0.209

 

 神様っていますか? ≫    

     

一.困ったときの神頼み

よく困ったときの神頼みと言われるように、人々は困ったときに神様助けてとお願いします。

困難な状況から脱出できますように、病気が癒されますように、希望の学校に合格しますよう

になどです。人々は自分の力ではどうすることもできない時に何かに頼りたい、すがりたいと

思います。それはもちろん助けてもらいたという気持ちがそうさせているのですが、何か神の

ような存在を心の中で感じているのではないでしょうか。残念なことに人々は要望が達成され

ると、ありがとうと神に感謝することなくすぐに忘れてしまいます。

 二.神様の守り

 長男が生まれて間もない頃妻と三人で、車で街に買い物に行きました。そこは住宅街で車や

人通りが多く少しごちゃごちゃしているところでした。時間はちょうど午後3時頃学校が終わ

り多くの小学生が下校している時でした。ふと通りすがる人々の間から二人の女の子が道路を

横断しようとして急に飛び出してきました。思わずブレーキを踏んだのですが、間に合わず飛

び出してきた二番目の女の子にぶつかってしまいました。急いで車から降り、女の子の様子を

見て警察に連絡し、また救急車を呼びました。

 すると、すぐうしろを走っていたタクシーの運転手が心配そうによってきて、「ありゃよけるのは無理だよ。裁判になったときは俺が証言してやるよ」といって親切に連絡先を教えてくれ

ました。その後、私は警察の事情聴取のため現場で時間をとられ、妻は幼い長男を抱きかかえ

不安そうに長時間車の中で待機することになりました。

 大変幸いなことに女の子は病院で検査を受け、大した怪我はなく大丈夫そうだったので夕方

帰宅しました。

 私はその後何回か警察に出頭し担当の警察官と共に報告書を作成し、内容確認後サインをし

ました。私にとっては初めての出来事なので少しショックを受けましたが、驚いたことにこの

人身事故による減点や罰金など一切無く無罪でした。ショックな出来事でしたが、結果からみ

ると大したことなく本当に良かったです。

 さてこれは単なる不幸中の幸いな出来事でしょうか。私にとってはとても偶然と思えず何か

大きなものに支えられ守られた気持ちでいっぱいでした。女の子の怪我も大したことがなかっ

ただけでなく、何かあったときのため親切なタクシーの運転手さんも用意してくれた気がしま

す。そうです神様が守ってくれたのです。そして神様に心から感謝しました。

三.人間の考えを超えた存在

自然は美しく素晴らしいですが、ときには私たちに牙をむき恐怖となります。また宇宙は果

てしなく広く不思議な未知の世界です。このようなものがどのようにして造られたのか、また

どのように動いているのか想像もできません。何よりも私たち人間は本当に素晴らしいです。

 こんなに晴らしい人間が偶然にできたのでしょうか。

こう考えるとやはり人間の考えをはるかに超えた神というものが存在し、自然、宇宙、人間を

つくり、私たちの生活や全世界すべてを司っていると強く考えます。

 四.聖書の神

 聖書にはこの世の初めに神様が全世界を造り、そして、最後に被造物の最高傑作として人間

を造ったとあります。みなさんはこれらのことを信じることはできますか。そして今でもこの世界を司りすべてを見守っていてくださるのです。

 世界にはたくさん神様と呼ばれる存在がありますが、聖書には唯一無二の神様は聖書に書か

れている神様だけと記してあります。

 そうです、神様はたくさんいないのです、ただ一人、聖書に書かれている神様だけが本当の神様なのです。私たちはこの聖書を学び本当の神様はどのような方なのか学んでいます。みなさんも教会に来て本当の神様を一緒に学んでみませんか。

 

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N0.210

 ゴスペルフラダンスによって神さまを賛美 ≫

 

 日頃私たちは教会において、神さまを賛美しておりますが、みなさんご存知のフラダンスを

踊って賛美しております。

私のフラダンスは、女性宣教師の誘いから始まりました。ゴスペル曲に合わせて、宣教師の

踊りを真似ていたのです。とても気持ちが良くて、ゴスペルの歌詞の素晴らしさや、メロディ

に心地良さを感じました。踊ることは考えていなかったので私自身意外でした。

興味を湧かせてくれたのは、ゴスペル曲の圧倒的な素晴らしさからなのです。教会で踊る

方々の姿をいつもうっとりと見ていました。私にとっては、いつも顔を合わせている教会の方々

なのですが、その踊る姿は別世界の人のようでした。そして、そこには羨望の眼差し一杯で見

ている自分がいました。

ある日、ゴスペルフラのレッスンの時、女性宣教師が私を誘いに来られました。腰痛の持病

がある私としては、踊るということは、心底、無理であると思っていて、考えられないこと

でした。ですが、椅子に腰掛けて、上半身だけでも可能であるということでした。レッスンの

指導の先生の笑顔と、優しさに吸い込まれていって気付くと、私は踊りで神さまを賛美してい

ました。

 昨年十月末には、韓国旅行を体験することが出来ました。主人と約束をしていた旅行でした

が、十五年前に召天し実現できませんでした。でも、とても信頼できる、ゴスペルフラの先輩

の女性との旅行となりました。今回の旅行の一番の思い出となったのは、韓国にある日本人教

会の礼拝の中で、プログラムの一つとして、私たち二人がゴスペルフラダンスを披露したことでした。日本人教会の女性牧師は、当教会と永年に渡り深い交流がありました。

レッスンを始めて日の浅い私には、このプログラムを与えられて驚きました。しかし、決め

た以上は韓国に行くまでに、覚えなくてはなりません。レッスンの先生に、この事情を話して

細かく教えていただきました。何とか、その練習の効果もあり、韓国の教会で、神さまの御前

において賛美することが出来ました。私は椅子での踊りでしたが神さまは用いてくださいまし

た。踊り終わった翌日、旅行ツアーでご一緒した一人の女性から、声を掛けられました。「椅子でも踊ることができるのね、私も踊ってみたい」女性は当時足に少し支障があったようですが、

現在は、全身で、思いっきり、優雅に踊られるようになったそうです。

 敬愛する女性宣教師は、私が踊るきっかけとなった最大の理由を「私の存在の必要性」だと

説明してくださいました。新しく来られた方や、車椅子生活を余儀なくされている方々。その

ような方々のために、あなたは必要なのですとおっしゃいました。勿体ない言葉でした。こんな私でも、必要としてくださるという事。女性宣教師に掛けられた言葉を素直に受け止めて、

月に三回程のレッスンですが、楽しく参加させていただいています。

 小さき者や弱い者に、神さまは、手を差し伸べてくださり、力と励ましをくださいます。

神さまは、どのような人をも、大切に、愛してくださいます。私たち二人の韓国旅行は、神さ

まがいつも伴にいてくださり、豊かにそして大いに、祝福してくださいました。

神さまのご栄光が、そこには確かに、ありました。神さま、心から感謝いたします。

どなたでも、ゴスペルフラダンスを踊ることが出来ますので、御一緒に参加されて、神さ

まを賛美しましょう。心よりお待ちしております。

 『私は、この口をもって、大いに主に感謝します。

  私は多くの人々の真ん中で、賛美します。』       (詩篇百九篇三〇節)