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(NO.180) メシヤ(救い主)の誕生
12月はクリスマスの月です。人類の救いのために神がご自身の御子メシヤ(キリスト)をこの世にお遣わしになられたことをお祝いし、感謝をささげるときです。
イエス・キリストの誕生は、旧約聖書の預言の成就でありました。旧約聖書にはたくさんの預言が記されていますが、その一つのミカという預言者の預言に注目しましょう。
ミカは紀元前740年頃の預言者ですが、イエスの誕生地について述べています。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうち
から、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠
の昔からの定めである。」(ミカ書5章2節)
預言の成就の書であります新約聖書に「きょうダビでの町で、あなたがたのために、救い主
がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2章11節)とあり
ます。「ダビデの町」とはダビデの生地ベツレヘムのことです。だれも自分の生まれる地を決
まることはできませんが、救い主イエスにはそれがおできになったのです。
聖書に「…あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストで
す」とありますように、私たちすべての人にはどうしてもキリストの救いが必要なのです。
ただ多くの方々は、それに気づかないだけです。自分の死とか、弱さ、罪深さなどを真剣に考
えるとき、このままで良いとは思いません。特に聖書を読み、イエス・キリストの言動を知る
とき、今までと違った生き方のあることを知らされます。もっと充実した人生を、もっと希望
と喜びのある、満たされた生涯を送りたいという思いが与えられます。
キリスト教会では、聖書に基づいてそのような生き方を目指しています。
「求めなさい。そうすれば与えられます。」これが神の約束です。
クリスマス集会にいらっしゃいませんか。お待ちしております。
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(NO.179) 神さまはどういうお方か
キリスト者は聖書を神の言葉、真理の書として信じ、学び、研究し、聴き、その教えに従う
よう努力しています。その聖書から神についてどのように記されているかを見てまいりましょう。これが神についての完全な表現と言うわけではありませんが、四つのことを上げたいと思います。
一 神は霊である。
主イエスはサマリヤの女性に対して、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネの福音書4章24節)とお語りになりました。
肉体のように衰えること、限定されること、制約されることもありません。それゆえ、同時に至る所に存在することができます。歩いている時は、空気の抵抗を感じませんが、走るときそれを感じます。信じない時には、神の存在を感じませんが、信じて真剣に祈るときに神の存在を感じます。
二 神は人格を持っておられる。
聖書には、至るところに「神は愛する」「神は言われる」「神の力強い御手」「神のみこころ」等等の言葉からも、神は人格を持っておられることが分かります。
三 神は聖(きよ)いお方
神は全く完全であり、罪とか、汚れを忌(い)み嫌います。それらには全く堪えることがで
きない聖にして完全無欠なお方です。今神は、世界の罪、汚れに対して忍耐しておられるわけですが、最後の審判(しんぱん)を持ってご自身の義を果たされるのです。
四 神は愛のお方
神の愛は、罪深い者を何とか救おうとされている所によく表れています。キリスト教会の
存在も、その愛の表れの一つです。キリスト教は外国の宗教ではありません。外国の宣教師
を通して日本に伝えられたのですが、その宣教師の国の宗教でもありません。
私たち日本人も含めた全人類の宗教です。あなたも神さまに愛されているのです。
ご一緒に聖書を学びましょう。
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(NO.178) いのちの光
「初めに、ことばがあつた。ことばは神とともにあつた。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
(ヨハネの福音書1章1~5節)
聖書中、イエス・キリストは様々な言葉で表現されています。たとえば、「門」とか「羊飼い」「パン」等と言われています。この福音書を書いたキリストの弟子ヨハネは、当時の人々に、神から遣わされた「メシヤ」(救い主イエス・キリストのこと)をどう伝えるべきか考えたとき、人々によく知られていた「ことば(ロゴス)」を用いて知らせたのです。
ことば(キリスト)は神であつた
「初めに」天地創造以前の一番はじめのことで、キリストは永遠の昔から神として存在していたのです。次に、「すべてのものは、この方によって造られた。」ー「ことば」は天地の創造にあずかった創造者でもあったといわれています。それだけの能力も持っておられたのです。更に、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」この「いのち」は限られたものではなく、決して死ぬことのない永遠のいのちを意味します。
暗黒と苦悩の多い人生において、私たちに真のいのち(永遠のいのち)と消えさることのない真の希望を与えて下さる神であり、人でもあられたイエス・キリストを与えられた父なる神に感謝し、神と共なる人生を歩みたいと思います。
神さまは今も、聖書を通して私たちに語り続けております。聖書によってまことの神を知ると知らないとでは、同じ人生であっても永遠の差が生じます。他人を大事にするとともに、自分をも大事にし、自分にとって何が必要なのかを、ご一緒に考えてまいりませんか。
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(NO.177) あらゆる境遇に対処する秘訣
『乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを
学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽(あ)くことにも飢えることにも、富むことにも乏(とぼ)しいことにも、あらゆる境遇
に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでも
できるのです。』 (ピリピ人への手紙4章11~13節)
キリスト教の信仰は、実生活に反映します。この手紙を書いたイエスの弟子パウロは信仰の故に捕らわれ、獄中にありました。しかし、「約束は違う」と怒って、イエスや信仰を拒否しませんでした。彼には霊的力を与えられていました。また乏しいこともありませんでした。
信仰は平穏のときはともかく、逆境のときに真価が表れるものです。「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」この言葉は、やせ我慢やジェスチャーから生まれたものではありませんでした。「満ち足りることを学びました」とは、元々は完全に独立した町のことで、外部からの輸入を必要としない状態を表すときに用いられる言葉です。
確かにパウロは有能で宿望され、エリートコースを歩んでいたが、そこから得た秘訣では
ありません。その力は彼が命がけで信じ、より頼んでいるイエス・キリストのものでした。
イエス・キリストは十字架上で死にましたが、以前からおっしゃっておられた通り復活され今も生きております。「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」とありますが、「私に力を与えてくださる方(イエス・キリスト)」という意味です。
「どんなことでもできる」ということは、あらゆる状況や境遇にも対処し、打ち勝つとの意です。日常の生活の中で、もっとパワーが欲しい、もっと強くなりたいと思うことがしばしばです。今も生きておられるキリストは、常に信じる者と共にあって強め、守り、助けてくださるお方なのです。
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(NO.176)
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(NO.175) わたしにさわったのは、だれですか
『ときに、十二年の間長血(ながち)をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかった
この女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」』 (ルカの福音書 8章43~48節)
病人の気持ちは健康な人には分かりません。この女性は12年の長い間、その病を誰からも直してもらうことができませんでした。その苦悩は募るばかりでした。そんなとき、イエスの一行の到来を知ったのです。しかし、面と向かってお願いする勇気もありませんでした。
さらにユダヤのおきてには出血ある女に接触する者も汚れると定められていました。だが彼女にはどうしても直していただきたいと言う一念と、イエスなら必ず直していただけるとの確固たる信仰を持っていました。こうして女性は群衆に紛れ込んで、そっとイエスの着物にさわったのです。するとたちどころに出血が止まりました。
その時イエスは言われました。「だれがわたしにさわったのですか」。
女性は隠しきれないことを知って、震えながら名乗り出ました。イエスは彼女を叱るどころか女性の確かな信仰に答えて完全にいやされたのです。
私たちも生半可なクリスチャンではなく、イエスに答えていただくような真の信仰者を目指すよう励みたいと思います。
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(NO.174)
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(NO.173) 温かい人間関係
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」
(ペテロの手紙第一 4章7~8節)
神から人間に送られた唯一のメッセージ、聖書のみことばに耳を傾けましよう。
聖書には私たち人間にはっきり解明されていない事がらについても記されています。例えば、天地万物の創造や尊いものとして造られた人間とその死、及び死後に着いてなどが書かれています。私は若いころ、自分というものの正体が分からずずい分悩みましたが、聖書を学ぶことによってその解決を見ました。
冒頭の聖書のみことばから二つのことを学びたいと思います。
(一) 神への祈りに励む
「万物の終わりが近づきました」とあります。造られたものには寿命があります。この世界
にも終わりの時があります。この手紙が書かれたのは紀元65~66年頃ですから、その時から大分経っています。終わりの時は神にお会いするときです。ですから、信仰に堅く立って、熱心に祈り身も心も整えなさい、と聖書は勧めておられるのです。
(二) 熱心に愛し合いなさい
愛し合うためには、一人ひとりが、本当の愛(神の愛)に触れていなければなりません。こ
の愛は一般の愛のことではなく、私たち罪深い者を救うために、自らを犠牲にされたイエス・キリストの愛のことです。
(一) の祈ることは神さまと私の関係ですが、「愛し合う」ことは対人関係です。神と自分と
の関係で留まってはならないのです。本当に人を愛するということは神からの助けと力をいただかなければ、自己満足になりがちです。
相手の誤りや非に対して寛大に対応し、それらをカバーできるほどの愛を与えられるよう神
さまにともに祈り求めたいと願っております。
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(NO.172) 死からのよみがえり
「…あなた方は、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。
よみがえられたのです。…」(ルカの福音書24章5~6節)
眠れる大地が一斉によみがえる季節を迎えました。このとき、キリスト教会では主イエスの死からのよみがえりを記念して礼拝をささげます。
最初の聖書のことばは、主イエスが葬られた墓を訪ねた女性たちに、神のみ使いが語ったことばです。彼女たちは主イエスを信じ、従い続けておりました。また、主イエスからご自身のよみがえりについて何度も聞かされていました。
主イエスの十字架の死とイースター(復活節)は、キリスト教において最も重要な教理です。きよく正しい主イエスが十字架につけられたことは多くの方々がご存知のところです。その遺体は丁重に扱われ、新しい墓に葬られました。反対者は弟子たちが遺体を盗み出さないようにと番兵まで配置したのです。しかし、その頑丈な墓も岩の戸も番兵も神の力を阻止できませんでした。かねておっしゃっておりましたように日曜日の早朝、すべてのものを打ち破って復活されたのです。以前の体の生き返りではなく、何ものにも束縛されず制約されない不死のお体をもって復活なさったのです。
使徒パウロは、そのことを次のように表現しています。
「…今やキリストは、眠った者(死者のこと)の初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリント人への手紙 第一 15章20節)。
死後のことは世界のだれも知りません。ただ神のみがご存知です。聖書は神のことばです。真理のことばです。私たちの理解の程度は限られています。
神を完全に知ることはできませんが、キリスト者は神が明らかにしておられる聖書のことばにより神を知り、神の約束のことばを信じ、それに従って生きているのです。その道を歩む者に最後の勝利が約束されているからです。
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(NO.171) 信仰の人モーセ
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」
(ヘブル人への手紙 11章24~25節)
モーセは紀元前150年頃のイスラエル人です。当時、エジプトは繁栄した強大国でした。
そのエジプトにあって、イスラエル人は奴隷の民として苦役に喘(あえ)いでいました。そうい
う中でイスラエルの民は増加を重ねていったのです。これに恐れをなしたエジプト王は、きび
しい命令を下しました。それは、イスラエル人の家庭で男の子が生まれたなら、ただちに殺害
せよ、ということでした。両親はどうしてもそれができず、水が入らないように手を加えたかごに男の子を入れ、ナイル川の岸の葦の中に置きました。
それが水浴びに来たエジプト王の娘の目にとまり拾(ひろ)い上げさせ、王宮に連れて行き、わが子として養育しました。水から引き出したのでモーセと名付け、文武両道の達人としたのです。
自分は人間的には満たされた環境の中にあって、圧制下で苦しみうめく同胞を見るとき、彼の心は穏(おだ)やかではありませんでした。あるとき、エジプト人が同胞の1人を打っている
のを見たとき、同胞をかばうためそのエジプト人を打ち殺したのです。そのことの故に、彼は
王宮に居られずミデヤンの地にのがれたのです。
その地でモーセは神のみ声を聞き、民の指導者として立てられました。指導者としてモーセ
は、約束の地を目ざしてエジプトからイスラエルの民を解放し、長い荒野の旅をはじめるわけ
ですが、その苦労は言語に絶するものでありました。しかし、神が常に共に在って彼を励まし、
み心を示し、導いてくださいました。
この世のものは、どんなにきらびやかであってもやがて消え去るのです。人のいのちも同じように、どんなに長生きしても限りがあります。しかし、まことの神を信じる者に、主イエスは約束しておられます。
「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(永遠のいのち)」
(ヨハネの福音書11章25節)
ご一緒に神のみことば(聖書)を学びませんか。お待ちしております
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(NO.170) 真の神を知るためには
当たり前のことですが、わたしたちは全く知らない事がらに対しては、関心を抱きません。見たり、聞いたり、読んだりしてある事がらについて知るときに、そこに関心や興味が生じます。まことの神は人間に対して何も働き掛けることもせず、じいっと人間を見ておられるのでしょうか。いや、そうではありません。神は遥か昔からご自身を現し続けておられるのです。そのことをキリスト教では「啓示」と言います。一般の辞書にも「人知ではわからないような事を、神が現し示すこと」とあります。神がご自身をどのように啓示されたのかについて、二つのことが考えられます。一般掲示と特別啓示です。
一 般 掲 示
① 自然を通して
夜空をじっくり見上げ続けた人ならば、誰もがその美しさ、その宏大さ、その神秘的な素顔
に驚かざるを得ません。そのことについて聖書は次のように述べています。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19篇1節)
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(NO.169) 目標を目ざして
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目ざして一心に走っているのです。」 (ピリピ人への手紙3章13~14節)
新しい年を迎え、それぞれの思いや決意、また目標をもって歩み始められた方もいらっしゃるのではないでしょうか。今年も古くて新しい聖書のおことばに耳を傾けてまいりたいと思います。
聖書では血のつながりがなくても、キリスト者同士兄弟姉妹と呼び合う習慣があります。
イエス・キリストのしもべとして召されたパウロという弟子が書いたこの手紙ですが、自分の生きる姿勢を述べている、と見ることができます。
パウロは大きな働きをした弟子の1人ですが、そこでとどまることなく、競技場の比喩を用いてひたむきに目標に向かって走る選手のように、彼も走っているのです。
「この一事」とは、振り向かず、ひたむきに前進することです。競技をするものは皆、賞を得るために励むようにキリスト者も神からの栄冠(永遠のいのちとも考えられる)を目ざして信仰に真剣に生きるのです。キリスト者は信仰の生涯を終えたのち、キリストと共なる永遠の祝福と喜びにあずかるのです。
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」 (ヘブル人への手紙10章35~36節)
聖書の神は今も生きて働かれるのです。約束は必ず守られるお方です。教会において聖書をご一緒に学びませんか。そして、キリストにある希望の道を今年、歩んでいただきたいと思います。
カルバリー・バプテト高尾キリスト教会はプロテスタントであり、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)とは一切関係はありません。