№201  「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」 (ヨハネの福音書六章六十八節)

藤 田  正

 

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに

歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたい

と思うのではないでしょう。』すると、シモン・ペテロが答えた。『主よ。私たちがだれの

ところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、

あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。』」

(ヨハネの福音書六章六十六~六十九節)

前の所でイエス・キリストはご自分をまことのパンにたとえて語りました。このまことのパンを食べる者(信じること)が、救いにあずかり、永遠のいのちを持つことを話されました。しかし、人々はイエス・キリストを信じることを拒否しました。キリストの弟子になっていた者の中からも、キリストから離反し、去って行く者も大勢出たのです。そこでキリストは側近の十二弟子たちに、「あなたがたも離れたいと思っていませんか」との問いに、弟子のペテロは代表して、「主よ(キリスト)あなたを離れてだれの所に行きましょう。

あなたはまことの救い主であられ、永遠のいのちを与える唯一のお方です。あなたから離れ

ようとは全く思ってはいませんと、告白したのです。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」                (テモテへの手紙第一 二章五節)

まことの神と私たちは、人間の罪のゆえに断絶状態にありました。その人間の罪を背負って十字架にかかられ、キリストは罪の刑罰を受けられたのです。即ち、キリストは罪人の身代わ

りの死をとげられたのです。

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。キリストの打ち傷

のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(ペテロの手紙第一 二章二十二、二十四節)

私たちの救い主はイエス・キリスト以外にはありません。 

№202     キリストを知っていることのすばら

 

藤 田  正

 

私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ人への手紙三章七~八節)

これはキリストに出会い、キリストを信じ、キリストの弟子として目覚ましい働きをしたパウロのことばです。

パウロがイエス・キリストに出会う前は、律法を守ることにおいて最も厳格なユダヤ教のパリサイ派に属していました。それだけに新興宗教と思われるキリスト教とクリスチャンの活動には我慢ができませんでした。こうして彼は迫害の急先鋒(きゅうせんぽう)となったのです。そしてクリスチャン捕縛(捕らえてしばりあげること)に向かう途中、キリストに出会ったのです。そして自分のキリスト認識が全く誤っていたと知らされたのです。

こうして彼は冒頭にありますように、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」と述べています。

日本のクリスチャンの数は、他の宗教に比べて最も少ないのです。しかし聖書の教えるイエス・キリストは、パウロも述べているように「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」とありますように真実(まこと)です。

毎月配布していますこの印刷物(教会ではトラクトと言います)に目をお向けくださるなら大変うれしいです。一時的でなく、キリストにある永遠の幸せに一人でも多くの方がなりますよう教会では心を合わせて祈っております。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」             (ヨハネの福音書一一章二五節)



№203      信じていのちを得るために

藤 田  正

 

 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

                         (ヨハネの福音書二十章三十一節)

 この福音書はイエス・キリストの十二弟子(使徒ともいう)のひとりヨハネが神の導きを得て書いた四つの福音書のうちの一書です。

 非常に重要な内容となっています。この三十一節の中にはこの福音書が書かれた目的(聖書全体が書かれた目的と言ってもよいほどです)がはっきり記されていることです。

 聖書が示しておられるまことの神から離れていること、無視すること、信じないこと等を罪と呼んでいます。しかし、神がどういうお方かを知らないとしたら、神を知ることも呼び求めることも、まして信じることも出来ないわけです。そのために神は弟子や預言者などを通して神のことばを書き記すように命じました。例→神は指導者モーセに対して、「主()はモーセに仰せられた。『これらのことばを書きしるせ。』」(出エジプト記三十四章二十七節)

その他出エジプト記十七章十四節、エレミヤ書三十章二節等。

 私たちは、聖書を読まない限り、まことの神について正しく知ることは決してできません。

また聖書のメッセージを聞かないなら神の御心も、神の聖も、義も、愛も知ることが出来ないのです。神の素晴らしい救いの祝福も、キリストによる確かな永遠の御国の希望も自分と全く無関係となるとしたら、なんと残念なことでしょう。私たちは神にあってもっともっと喜びと希望に裏打ちされた豊かな人生を送れるよう神は備えてくださっているのです。教会において共に礼拝をささげ、聖書を学びませんか。お待ちしております。次のトラクトでは、同じ聖句の残りの部分を説明いたします。

 

№204     信じていのちを得るために(二)

藤 田  正

 

「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

                      (ヨハネの福音書二十章三十一節)

この聖書のことばは、先回(十一月号)も取り上げ学んだのですが、今回も続けて学びたい

と思います。聖書は人間が書いたものですが、ご自分が語ったことを書くようにお命じになったのは神ご自身です。それゆえに聖書は「神の言葉」なのです。

 神を信じるクリスチャンは、聖書を信仰と生活の土台としています。その土台がいい加減なものならば、キリスト教会の説()くメッセージも当てにならないものとなり、真の救いも、

喜びや希望も与えることが出来ず、かえって不幸と絶望に追い込むことになってしまいます。人間には宗教は必要ですが、人々が認める正しい宗教に従うことが重要なことです。それは

これまでの歴史上、世界の人々にどのような影響を与えて来たか、あるいは与えているか。

本当にその人を変え、新しい生活を送っているか、また新しい人間に生まれ変わっているか

等々が吟味されなければなりません。

前のトラクトで述べましたように、ここには聖書が書かれた目的が記されています。

(1)「イエスが神の子キリストであること」人間イエスが、歴史上の人物であり、その方

はまことの神から遣わされたキリスト(救い主)であるという事実です。

 (2) 「キリストをあなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

「イエスの御名」とは、イエス(主は救いという意味)と呼ばれるお方のお蔭でいのち(永遠の)をいただくことができますとの意味。換言すれば(他の言葉にいいかえること)イエス・キリストを信じる者は、永遠の救いにあずかることと言えます。

そのキリストの誕生をお祝いする「クリスマス」を私たちの教会では、十二月二十日(日)行います。そのクリスマス礼拝にぜひ皆さまおいでくださいますようお待ち申し上げます。



№205     婚礼におけるイエス・キリスト

藤 田  正

 

「それから三日後に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた.ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません。』と言った」         (ヨハネの福音書二章一~三節)

新年を迎えてめでたいこのとき、婚礼に関する聖書の箇所に目を向けたいと思います。ユダヤでは「ぶどう酒がなければ、喜びなし」という諺(ことわざ)があるくらいですから、お婿さんやその身内にとってこれ以上不名誉なことはなかったでしょう。手伝いに来ておりましたイエスのお母さんは、このことをイエスに訴えたのです。

ユダヤの家庭では、儀式用に大きな水がめ(八〇リットルばかりのもの)を用意していました。

聖書には「六つ置いてあった」とあります。その水がめに水を満たさせ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行くように言われたのです。世話役はそのぶどう酒を味見し、驚いたのです。今までのぶどう酒とはくらべ物にならないほどの良いぶどう酒であったからです。そして花婿を呼んで「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだ頃になると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

 世話役は、イエスが水を良いぶどう酒に変えられたことは知りませんでした。てっきり花婿が用意したことと思っていました。

 イエス・キリストは天地万物を創造した神でありました。イエスと被造物の関係を次のように言われています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」      (ヨハネの福音書一章三節)

 「この方」とはイエス・キリストのことです。キリスト教において最も重要なことは、キリスト観です。すなわち、キリストをどなたか、と見る立場です。キリストを正しく知る道は、聖書そのものに学ぶことです。教会において学びましょう。

№206     新しく生まれなければ 

藤 田  正

 

 「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから

来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたが

なさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。』イエスは答えて言われた。

『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見る

ことはできません。』」             (ヨハネの福音書三章一~三節)

二人の会話はまだ続きます。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われたイエスのことば

を、ニコデモは理解できませんでした。そして、老年になっているのにどのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎から生まれ変わることなんかできませんと答えた。

 イエスはもう一度言われた。「人は、水と御霊(みたま)によって生まれなければ、神の国に入

ることができません。」

「神の国」とは、この世とは全く違う所で神がご支配し、神のみ心が完全に行われているところで(天国と同義)、そこに入るためには、人間の内側の変革即ち、新しい生まれ変わりが求

められます。「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」とのことばが新しい生まれ変わりを意味しているのです。

聖なる神さまのみ前に出るには普段着ではなくよそゆきを着用しなければなりません。

イエス様は、新しく生まれる方法として「水と御霊(みたま)によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」とおっしゃいました。「水と御霊」によってと。即ち、水は、古い罪を洗いきよめることの象徴。御霊は、天の新しい生命を指しています。救いを熱心に求める人に、神はそのような心を与えてくださるのです。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。」        (マタイの福音書七章七節)

教会でご一緒に聖書を学びませんか。お待ちしております。



№207   よみがえりといのちの主イエス・キリスト

藤 田  正

 

 「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、

信でも生きるのです。』            (ヨハネの福音書十一章二五節)

 春となりますとキリスト教会では、十字架上で私たちの身代わりに死をとげられました、

イエス・キリストの死からのよみがえりを記念するイースターを迎えます。

 主イエスは、生前から弟子たちに、「すると彼らは(当時の指導者たち)あざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子(主イエス)は三日の後に、よみがえります。」(マルコの福音書十章三四節)と幾度も話しておられました。

主イエスの復活は、主エスを信じるキリスト者への救いの保証です。人間最大の敵である死

をも滅ぼされた真の神であられるゆえに、私たちは信じ、従うのです。

№208     良い知らせ

藤 田  正

 

「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて

書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことに

まで及びました。イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のこと

を語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生

きていことを使徒たちに示された。」               

(使徒の働き一章一~三節)

福音のことを別のことばで表現するなら、「良い知らせ」と言えます。それは、イエス・キ

リストは一生を、私たち全人類の永遠の救いのため、また、幸せのために捧げられたからです。

その福音を主イエスの弟子たちは命がけで宣べ伝えたのです。その宣教の歴史をまとめたもの

が、この使徒の働きなのです。

 冒頭のことばは、序文というべき箇所ですが、その中で強調されていることは、十字架の苦

しみを受けられた後、死からよみがえり、四十日の間、弟子たちに現れ、主イエスを信じる者

の救いの確かさを示されたことです。

 主イエスの十字架を、キリストの敗北と見ている人もいるようですが、十字架の後のことを

四福音書に明記されていますように、主イエスは死に墓に葬られましたが、前からおっしゃっ

ておられたように、死に勝利を収め、よみがえられたのです。私たちの考えを越えたことです

が、神の御子としてのみわざを行ったのです。

この神の福音を命がけで宣べ伝えるクリスチャンたちがいた故に、今日の私たちはその恵み

に浴しているのです。世界のキリスト教会は、その福音を宣べ伝えるために建てられているのです。この文書を受け取られた方は、どうぞ最後までお読みください。

 福音についてさらに深く知り、イエス・キリストの救いと祝福にあずかってくださいますようお祈り申し上げます。イエスさまは、一人でも多くの方が救われてしあわせになられることを真に望んでおられます。



№209     神の愛に気付く

藤 田  正

 

 強いられて身を入れずに、仕方なく行うことと、あることに気づいて真剣に、そして、自発的に行うこととの間に大きな違いが生じます。

 

思いやり

 快晴に恵まれ、ヨセフ家の畑の収穫作業は順調に進みました。昨年の不作と違って、今年は

どの作物も増収でした。二人の兄弟が共働きして汗を流したその労に、神は報いるかのように

豊かな実りを与えたのです。二人は喜びのうちに農産物を等しく分けました。

家に帰った弟は考えました。「わたしは一人だが、お兄さんは妻や子どもがいる。大所帯だ。

それだけにたくさんの食物も必要だ。これでは済まない。」このことに気づいた弟は、夕食後、

束を背にして兄の家の納屋にこっそり置いてきました。

 他方、兄は兄で、「わしは、妻や子どもたちに囲まれて、楽しく食事もできるし、生活も送れ

る。だが弟は、一人で食事をし、話し相手もいない。寂しいだろう。かわいそうだ。せめて食

べ物だけでも豊かにしてあげたい。」と思い、その晩、束を背負って弟の物置にそっと置いてきました。

翌朝、弟は物置に目をやると、束が少しも減っていないのに気づきました。兄の方も、確か

に弟にやったはずなのに全く減っていないので不思議に思ったのです。また、翌日の晩二人は

同じようにしました。ところが二人は途中でばったり会ったのです。

 「あっ、お兄さん!どちらへ」「お前こそどこへ」二人とも束を背負っていました。

すべてを知った二人は抱き合って泣いたのです。

 これはイエス様の国ユダヤのお話しです。夫婦でありながら思いやりに欠け、ちょっとした

ことでついきびしいことばをぶっつけ合ってしまう。また仲よくすべき実の兄弟姉妹にもかか

わらず、冷たく突き放してしまうこともしばしばあります。どうも自分本位の考えに左右され

て、他の人への思いやりとか配慮が薄くなりやすい弱さが私たち人間にあります。

聖書のことば

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ人への手紙二章四節)

№210       イエスのことばを信じて帰る

藤 田  正

 

さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスがユダヤ

からガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださ

るように願った。息子が死にかかっていたからである。そこで、イエスは彼に言われた。「あな

たがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」その王室の役人はイエスに言っ

た。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じ

て、帰途についた。彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。』 (ヨハネの福音書四章四六~五一節)

聖書のことばを長長と引用しましたが、キリスト者にとって、聖書のことばは、神のことばです。キリスト教は啓示の宗教と言われており、人間の知恵ではわからないような事を、神が

現し、示しておられます。その神のおことばがまとめられたものが聖書です。勿論、イエス・キリストがお語りになられたことばも神のことばなのです。

ここの王室の役人とは、ガリラヤの国王ヘロデ・アンティパスに仕える高官のことです。

イエスが南のユダヤから北のガリラヤに来られたということを聞いて、イエスの所へ行き息子の病状を訴え、息子の病をいやしてくださるよう懇願しました。しかし、イエスはあまり良い返事をしませんでした。にもかかわらず役人は再度願いました。

イエスは彼に言われました。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」

役人はイエスのことばを信じて、帰途につきました。途中、役人は息子の病気が直ったことを使いの者によって知ったのです。

イエスのことばには力があります。イエスは今も聖書を通して私たちに語りかけています。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き十六章三一節)