N0.231

 神の小羊 ≫

 

 

 キリスト教の聖書は旧約と新約が有り、いずれも神と人との約束(契約)が書かれています。旧約は、まず最初に「神が天と地を創造された」(創世記)で始まり、新約は、神の子イエスが

人として地上に下られ(クリスマス)救い主として十字架刑で人間の罪を負ってくださったばかりではなく、三日目によみがえられ(イースター)天に帰られるまでの御業を弟子たちによってあらわされた書物です。

 初めに神が言葉だけで万物を創られました。最後に神に似せて人を造り、地のすべてのものを支配する特権をお与えになりました。しかし、人間は悪魔にそそのかされて、神が禁じられた知識の木の実を食べたのにもかかわらず、人を愛してくださり、中東のイスラエルを神の

民として選ばれました。 しかし、彼らは神にそむき続けたその歴史と、それでも神が人間を愛してくださり、救い主を与えると約束されたことが記されています。多くの預言者たちによって神からの言葉が取り継がれ、その預言は新約でことごとく成就しています。しかし唯一わたしはいつの日か再び地上に来る。今度は救い主としてではなく裁(さば)き主として(黙示録)

 この預言はまだ実現していません。キリストは、私たちのために自らの命により代価を払ってくださり、断絶した神と人との間の仲介者となってくださいました。おかげで私たちは自らを悔い改めてイエスさまを信じる信仰で神に近づくことが出来るようになりました。

 4月には復活されたイエスさまをお祝いするイースターが行われます。キリストは、また「神の小羊」(ヨハネの福音書1章36節)とも「良き羊飼い」(詩篇23篇)とも呼ばれています。

イスラエルは昔から牧畜が盛んで、信仰の父と呼ばれたアブラハムや孫のヤコブ、有名なダビデ王(やがて子孫よりキリストがお生まれになった)等も若き日羊飼いだったこと、イエスが誕生された知らせを天使が真っ先に野宿している羊飼いたちに告げて一番にお祝いに駆けつけたこと等、羊や羊飼いのことが多く書かれています。

 以前ニュージーランドへ行ったとき、羊の毛を刈るショーがあり、屈強な男性の足の間に挟まれて、おとなしく毛を刈られるところを見て、キリストがお生まれになる七百年前、預言者

が後にお生まれになる主イエスを預言して、「毛を刈る者の前で黙っている羊のように」(イザヤ書53章7節)と書かれていることばを思い出しました。

羊であると同時に羊飼いでもあるイエス様が今の混沌とした世の中で行く先の判らない迷える羊である私たちを正しい道に導いてくださるという壮大なご計画の一端をどうぞ教会へ来て味わってください。      

 

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 N0.232 

 あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのだ。≫

 

二〇一八年二月九日から始まった、冬季韓国平昌オリンピック、そして三月九日からのパラリンピックも無事に終わりました。今回のオリンピックは政治的生臭さのあったオリンピックではありました。日本は、オリンピックにおいて新記録となるメダルを13個、パラリンピックにおいても10個取得しましたが、何より何事もなく終了したことはありがたいことです。

 競技は勝負事ですから、多少運・不運もありましょうが、勝者も敗者も出ます。しかしながら、熱戦の中では、いろいろドラマも生まれました。戦いの結果、お互いの健闘を称え合う心に残る美しい場面もありました。まさにジス・イズ・スポーツです。この期間中、さまざまな方々の解説、コメント、エッセイ等がありましたが、私の心に一番残ったのは、作家吉田修一氏のことばです。『選手は人としてこのオリンピック競技場に努力をせずに立っている者はいない。この大舞台に立つまでどれ程の努力をしてきたのかは、私たちにも想像できる。』

「2月12()読売新聞記載」結果としての勝者も敗者も私なんかの想像以上の努力をしてきたことでしょう。頭の下がる思いです。さて、私は、この努力と云う言葉に思うことがあります。私はずいぶん前にバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになりました。では、クリスチャンになるために私は何か努力をしただろうか? 実は全く努力はしていません。

私は、両親がクリスチャンでしたので、子どもの頃から、今日まで教会の日曜礼拝を守ってきました。もし人が、これを努力と評するなら私のしてきた努力は、たったこれだけです。だれが見ても、これは努力とは言わないでしょう。もしクリスチャンになるための努力が必要だとの条件があれば、こんなノホホンとした者ではイエス・キリストの愛に触れ、守られるようにはなれなかったでしょう。そもそも人間の知恵と努力だけでは、神を信じる者にはなれないと聖書にあります。また、聖書にこうあります。『あなたがたがわたし(イエス・キリスト)を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。』  (ヨハネの福音書1516節)

 信じようとする心に神は宿ります。そして、神に選ばれる者となり、神の愛と平安とあわれみの内にある者となります。聖書はこのようにもいっております。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』         (マタイの福音書1128節)

 だれでもそうですが、初めからキリスト教を理解する人はいません。我々もそうでした。教会は、決して敷居の高いところではありません。そして、いつも神さまは、あなたの側に居て、あなたの心をノックしています。どうぞ教会の扉を叩いて入って来てください。ご一緒に聖書の話しを聞きましょう。

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N0.233

 

 あ し ≫

 

 私は、30年以上勤務した会社から別の会社に転職しました。しかし、いろいろな事情があって、一年半前に、また元の会社の関連会社で仕事をすることになりました。ですから現在の職場は、元の会社からの出向者や転籍してきた人たちが大半を占めていて、三分の一位は顔見知りの人たちです。また17年前に大病した際、2年弱、お世話になった職場でもあったので、企文化の違いもなく、私にとっては溶け込み易い職場でした。それ以上に、転職した先での人間関係に少なからず傷ついていましたので、また元の会社の

関連会社に戻れたことは大きな安心となりました。

しかし、大量の案件を、スピーディーに審査する業務なので、正確さと専門的な知識が要求されます。また、様々なケースや難案件もあります。従って、その処理や審査の仕方は、経験に依るところも大きく、なかなか覚えることが出来ず、今も苦労をしています。やはり長く勤務している人にはかないません。しかし、私は、半年過ぎたところで、まとめ役の人が定年を迎えたので、その後任になってしまいました。当然、私以上に長く勤務している人や先輩方もいますので、何かと気を使わなくてはなりません。また仕事も正確さを徹底して要求されるので、少しでも適切でない判断や処理をすると他のセクションからも指摘を受けるので、張り詰めた状態が日々続いています。そのうえ、昨年は家内の大病と息子の大怪我も重なって、精神的にも相当落ち込みました。「神様、何故でしょうか」という思いを抑えることが出来ない毎日を過ごしました。人生には楽しい時ばかりではなく、辛い時もあると日頃から言い聞かせてきたとは言え、や

はり辛いですね。

皆様は、本当に辛い時、どのようにそれを克服されていますか。私は、今も試練の中にあり、いまだトンネルを抜け出た感じはしませんが、何とか毎日を過ごせています。毎日聖書を読み、一日一日を感謝して、課題を祈り、御心を求めてお祈りをします。また毎週教会に通い、教会に集まる皆さんと一緒に聖書の話を聞いたり、讃美歌を歌ったり、祈ったりして、神様に礼拝を奉げています。そうしていると自然と慰められ、癒されていくのがわかるのです。聖書には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ人への手紙2:10)とあります。私たちは神様の作品なので、神様のところに帰った時、本当の安らぎを感じられるように造られているのです。神様の御手は、私の全存在をその根底から支えて下さっています。神様の愛は、私を包みこんでくださっています。唯一にして真の神様がいらっしゃること。これは、私の力、私の助け

です。もし、イエス様を信じる信仰に導かれていなかったら今頃どうなっていたかと思うことがこれまでにも沢山ありました。28年の信仰生活を通して感じることは、イエス様を信じてきて「良かった」の一語に尽きます。神様は、決して遠い存在ではありません。恵み豊かで、私たちとともにいて下さる方です。教会にいらっしゃいませんか。一緒に神様を礼拝しましょう。お待ちしています。

  

   「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

    主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

    主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

    たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。

    あなたが私とともにおられますから。

    あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

    私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、

       私の頭に油をそそいでくださいます。

    私の杯は、あふれています。

    まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

    私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:1~6)

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N0.234

 罪の赦しはどこに ≫

 

 

 皆さんは過去に自分がしてしまった過ちにさいなまれたり、人から傷つけられたことが時々頭をもたげて日常生活の中に暗い影を落とすことはありませんか? 

 私は、五十歳を過ぎて仕事を辞め、一人静かに家に居るようになった頃から若き日にしてしまった言動や人から言われた冷たいことばが次々と心に沸き上がり胸苦しくなることが多くなりました。それは、両親であったり、子どもや或いは身近な親切な人たちに対してがおもだったと思いますが、忘れてしまおうと思っても年々胸に大きく膨らんできて、このまま晩年を生きるには心が重いと感じるようになりました。病院の母の死の床で、これを言っておかなければと意を決し、耳もとで「今までわがままな娘でご免ね。」と囁くと、かぼそい声で「いいよ~。」と優しく答えてくれたことは、私にとって慰めとなりました。謝って赦されることで心を楽にしてくれました。母から辛うじて赦しを得たのですが、赦しを請うべき方の多くはお墓の中です。しばし佇み、「すみませんでした」とこうべを垂れても赦されたという実感はもてず、いつまでも心に残ります。

目を転じ、世の中にはもっと辛く苦しい罪過の中にある方々が多くおられると思います。豊かで恵まれた環境の中にあって、一見幸せそうに見える人の心にもことの大小はあれ、罪責感に苦しんでいる人生かも知れません。自分ではどうすることも出来ないことが多く、相手の方は忘れてしまっているようなささいなことであっても私の心にはわだかまりが残り、自身の生涯に少なからず影響を与えます。解決の見えないジレンマの中で出会ったのがキリスト教でした。聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を

赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1章9節)と書かれています。犯してしまった悪いことに対しては、必ず代償が必要です。「ご免なさい。」だけ

では不充分です。キリストは、私たちの罪のために十字架刑にかかり代価となってくださいました。私たちに

求められているのは、代価を払ってくださったキリストを信じ、なお悔い改める必要があります。皆さんはこの真理を信じることが出来るでしょうか。過ぎたあやまちを神に告白し、再び同じあやまちをしませんと赦しを請い、赦されたと実感できる人生です。悔い改めこそが自分を変革する原動力です。二十年経ち七十一歳となった私は今、過去のあやまちを不快な出来事として思い出すことはもはやありません。むしろ今までお会いした方々に感謝し、墓参したいという気持ちに変わりました。キリストを信じたらそうなりました。神のあわれみと恵みだけが罪を赦し救うことができます。不思議ですが、私が変えられたのは事実です。現在は日々の課題に前向きに取りくもうとしています。あなたも、今、おかれているご自分

の人生を静かに黙想し、素直な心で神を感じてみてください。私たちを造られた神は、目には見えませんがすぐ近くにおられ、私たちの問題をよくご存知です。そして、私たちに良くしてくださるお方です。

 

 『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

(コリント人への手紙 第二 5章17節)

 

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N0.235

 

none

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N0.236

 

「隠れキリシタンの世界遺産登録」について思う事 ≫

 

 

 最近は、明るいニュースより暗いニュースの方が多いような気がします。中には、悲惨、残忍な事件の報道もあります。

 こんな中で、個人的に、また、クリスチャンとしても明るい温かいニュースがありました。それは、江戸時代の「キリスト教・禁教期」に弾圧されても弾圧されても信者が信仰を持ち続

けた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を「ユネスコの世界文化遺産」に遺産登録するようにと「イコモス」が勧告したという記事です。ここまでこれたのは、文化庁や関係各

人の努力の結果と推察します。特に、服部英雄九州大学名誉教授(長崎世界遺産学術委員長)は、「潜伏キリシタンは、そもそも姿を見せないものである、隠れていたものを見えるようにす

ること(資産、不動産)は、容易なことではない」とコメントしています。 信仰は心の眼で感じるものですから、眼で見えるようにすることへの証明は不可能だからでしょう。

「隠れキリシタン」と云えば、江戸幕府によるキリスト教への迫害、弾圧を小説にした作家遠藤周作(カトリック教徒)の「沈黙」(一九六六年)は、有名なので読まれた方も多いと

思います。また、最近では巨匠マーティン・スコセッシ監督による再映画化(二〇一六年)も大きな話題となりました。弾圧、拷問の様子は文字で読むより、映画の方が生々しく眼をそむ

けたくなる描写も多々あります。実は、キリスト教への迫害、弾圧は、江戸期の日本だけのものではありません。二千年前に、イエス・キリストが福音を述べ伝えたときから迫害、弾圧はありました。ですから、宗教の自由を保障された今の時代のクリスチャンは困難期にあった多くの先人クリスチャンの信仰のおかげであるのです感謝。

 さて、小説「沈黙」では、信者や司祭たちが苦しい拷問の中にあっても依然として神は沈黙を続けます。クリスチャンの端っこにある身ではありますが、さすがに「何故だ!」と思いました。ですから、ノンクリスチャンの方が「?」と思われるのは当然のことです。司祭ロドリゴは、自身のためではなくて、苦しむ信者の解放のために「踏み絵」を踏みますが、悩むロドリゴにイエス・キリストが語りかけます。「踏みなさい。お前の足の痛みはわたしにはよくわかる。わたしはこのために世に来たのだから。

わたしは沈黙していたのではない、お前たちと一緒に苦しんでいたのだ」と。

最後にロドリゴは自身に語ります。「自分は彼らを裏切ったとしても、あの人(イエス・キリスト)を決して裏切ってはいない、今までとはもっと違った形であの人を愛している。

あの人は沈黙していたのではなかった。たとえ、あの人が沈黙していたとしても、私の今日までの人生はあの人について語っている。」

 私の経験では、信仰とは神がどんなときでも一緒にいてくださる「安心感」であると思っています。今、我々は明日何が起きてもおかしくない時代を生きています。

 教会にいらして、神の安心感を一緒に得ませんか。

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N0.237

 若い日に主を覚え、主に守られた人生を歩む ≫

 

岡山県に住んでいた昭和27年(小学校1年)のことです。当時は経済的に苦しく、白米のご飯を腹いっぱい食べた記憶がありません。田んぼを持たない我が家では、痩せた土地でも一定量の収穫が得られる蕎麦を栽培して自家製粉し、豊かな生活を妬ましく思いながら来る日も来る日も美味しくない「蕎麦がき」を主食にしていたように記憶しています。

そんな暮らしをしていたある日のこと、父が手入れの行き届いた山の尾根に私を連れて行き、山つつじが美しく咲き乱れる斜面に寝転ぶよう促してから言った言葉をふと思い出しました。

「むかし、この村には太郎君と次郎君という名の少年が住んでいた。太郎君は、遊びの誘いには乗らず毎日を勉学にいそしんでいた。一方次郎君は、とんぼやちょうちょなど、自然の生き物と遊ぶのが好きで、それら昆虫たちと日々楽しく過ごしていた。二人のうちどちらの生き方を選択するかは自由だが、どちらの選択が賢明か考えて行動するように。」

貧しいサラリーマンの家庭に育った者が、この世の生存競争に伍していくために必要なものは何なのか、その術を教えようとしてくれたものと思います。人生の大半を歩んだ末に、頭のどこかにしまい忘れていた幼い日の父の言葉を思い出しました。これを機に、これまで歩んできた道を振り返ってみるのも残された人生の生き方にとって、意味があることと思います。

私と妹は、社会人として自立するまでの一時期を兄に養われましたが、その事実を当然のこととして受け止め、あまり意識して来ませんでした。私と妹が自立した後は、兄の経済的、精神的負担は、両親の自宅介護という内容に形を変えて継続していました。冷静に考えれば、これらの負担はほかならぬ私個人のものでもありましたが、私はそれに気づこうとしないまま問題の解決を歳月の経過に委ねてしまいました。改めて、兄の兄弟愛、家族愛に感謝していることを明らかにします。

幼い日に、父が与えてくれた人生の示唆を、心に留めて歩まなかったことは否めない事実であり、父の期待に沿わない人生を選択してしまったという思いを払拭できずにいます。

しかし、ささやかではありますが平和な家庭があり、信頼しあえる家族がいることも事実、

時に逡巡しつつも、神の恵みに感謝する毎日です。

私は、25歳の時にバプテスマ(洗礼)を受けクリスチャンになりました。その日以降は人生観が変わり、他人の隠れた意地悪やちょっとした敵対行為など、大抵のことは赦せるようになり、生活して行く上で心にゆとりを持つことができるようになりました。

思いますのに、私と妹に対する兄の自立支援も、クリスチャンである兄嫁の陰の支えがあったからできたことだと思います。そして、その背景には、イエス・キリストの御業が働いていたことに思いを致さざるを得ません。

聖書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(伝道者の書121節)。」とあります。天と地とを創造された方が、同時に私たちの創造者なのです。この事実に目覚めると、おのずと正しくしかも豊かな人生を歩まねばとの思いを強く致します。若い人が、若い日のうちに創造者である主を覚え、聖書に基づき、少しでも早く神の御心に従った人生を歩まれることをお祈りします。

 

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N0.238

 

 私の賜物 ≫

 

 私は、信仰を持つまでは自分に自信がないのに評価してもらいたくて、苦手なことも出来るふりをしていました。そのため、結果はともなわず自らを責めては落ち込む日々を過ごしていました。しかし教会の皆さんは自分の賜物(才能・特技)を生かして喜びをもって教会のご奉仕をしていました。でも、私は信仰をもってもしばらくの間は自信が持てませんでした。そんな中、ふとしたきっかけで教会学校にたずさわることになりました。するとみなぎるパワーが湧き上がり、喜びをもって子どもたちと向き合っている自分に気づきました。また、子どもたちの言動や表情に対して、私の感受性が人一倍はたらき始めるのを感じました。そして、神さまから与えられた宝物である子どもたちを、教会学校で笑顔にしたいと自然に思うようになっていました。

 毎週教会学校で頑張っている子どもたちのために、また、地域の子どもたちのために、楽しいイベントを教会で開きたいと思うようになり、サマーフェスティバルという子ども中心のイベントを夏休みに行う企画をたてました。イベントでは、教会学校で練習をしているハンドベルやバンドの演奏を行ったり、教会という日頃立ち入りにくい場所で近所の子どもたちが神さまを学びながら、一日を楽しく過ごせるように、流しそうめんやすいか割り、クワガタ抽選会などを行い、幸い十年近く続いています。ですが、毎年子どもたちに楽しんでもらいたいという私の思いが強すぎて、イベントの内容が盛りだくさんになってしまい、教会のみなさんには大変多くの負担をお願いすることになり申し訳なく思っています。

しかし、私は、どんなに準備が大変でもこの企画に関しては、自分の力量以上の発想が浮かんできて、喜びをもって毎年準備に励むことができ自分でも不思議に思っています。改めて考えてみると、神さまは、私に信仰を通して、子どもが大好きということに気づかせてくださり、その思いを生かして教会学校での役割を与えてくださり、子どもたちの伝道に用いてくださっていることに気づきました。

今年もサマーフェスティバルを終えたばかりですが、緊張した表情で初めて教会に来てくれた子どもたちが、聖書の学びを通して徐々に笑顔になっていく姿や、教会学校で育ち来年は社

会人として巣立っていく青年たちが、今はイベントを盛り上げてくれるようになり、今年も神さまに心から感謝をしています。一般社会においては、人と比較されることが多く、また、自分の出来ないことや苦手なことに目を向けられがちですが、神さまは、一人ひとりを愛してくださり、一人ひとりに賜物(良いもの)を授けてくださっています。また、自分でも気づいていないかもしれない賜物を神さまに依り頼むことによって見いだし生かすことによって、自信が湧いてきて喜びをもって生きることができます。聖書には「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ人への手紙4章6、7節)と記されています。

 

現在私には、中学三年の息子がいますが、高校受験を目の前にして、息子の賜物が生かされ

る高校へと進学できるように、神さまにすべてを委ねて祈れる自分になれたことを、心から感謝しています。

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N0.239

 本当の幸い ≫

 

 

「幸い」と言う言葉から、何を思い浮かべるでしょうか。金銭的に恵まれていることでしょうか。誰もが知っている有名な会社に勤めていることでしょうか。インターネット、情報機器

の発達により、今まで個人で知りえなかった情報や、出来なかったことが容易になり、人間が思う幸福感が多様化しているのが現代といえるでしょう。

聖書では「本当の幸い」について書かれている箇所があります。主イエスは山の上での説教で、多くの弟子、聴衆の前で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と話されました。(マタイの福音書5章3節)

主イエスは「幸い」という言葉を、私たちが考える幸せな生き方とは違う次元で使っておら

れるようです。心が貧しいとは、心が空っぽであることを意味します。心が空っぽとは「神様の前に誇れるものは何もありません。神様の助けがないと自分には何もできません」と認めて、神様にあわれみと助けを求めることです。神様は、自分の力に頼ろうとする人には感心されません。むしろ、神様は自分の弱さを知り、その弱さを認めている人の近くにいてくださるのです。これが、神様に祝福される人に見られる、心の態度です。ここで言われている「幸い」は、自分の幸福感ではなく、神様からの祝福なのです。私はクリスチャンになってから、六年ほど経ちますが、それまで十六年もの間、洗礼を受けることがありませんでした。一番大きな要因は、先ほどの「心の貧しい者」の心の態度ではな

かったからです。小学生の時に親の事業の失敗、祖母の介護もあり、両親がいつも夜遅く、休みなく働く姿をみて成長しました。また、高校三年生の時には、実家がもらい火により全焼してしまうことが起こりました。一生懸命働く両親の姿をみていましたので、火事に遭った時には「世の中、神も仏もあったもんじゃない」と心に強く思いました。

親に金銭的な負担をかけないことを条件に大学に進学し、アルバイトをしながら無事に卒業することができました。学生時代の経験から、強い人間にならなければ生きていけないという

強い意識がありました。社会人になってからも、辛い学生時代をやりぬいた自分に対しての誇りと自信があり、自分は強い人間だという意識が常にありました。そんな私と神様の接点はク

リスチャンであった妻でした。妻に誘われ教会の礼拝に出ましたが、経済的にも安定し、仕事も順調でありましたので、信仰など一切必要ないという思いがありました。

そんな私に転機がありました。妻が妊娠し数週の早い頃に出血し、切迫早産で絶対安静のため入院したのです。それまでは自分のことだけで生きてきて、困ったことがあっても何とか出

来るという自信がありましたので、このような事態になりはじめて自分の無力さを知り、祈ることを覚えました。幸いにも無事に生まれ、母子ともに健康でありました。

また、会社の業務システム構築のプロジェクトに参画し、仕事が思うように進捗せず、はじめてしごとでかべにぶつかり、じぶんのちからだけではどうすることもできないことをしったのもこのごろでした。クリスチャンになるまでの私は、強い人間であろうと生きてきました。しかし、いくら強い人間になろうと頑張ったところで、完全である神様の前では無力です。自分の力に頼ろうとせず、自分の弱さを知り、神様により頼むことで、「本当の幸せ」という神様からの祝福がある人生を知りました。これからもクリスチャンとして、自分が不完全であることを正直に認

め、弱い人間であることを自覚して生きたいと思います。

 

 『主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに

完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうた

めに、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』

(コリンント人への手紙 第二 12章9節)

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N0.240

 

 

 老後の生きがい ≫

 

 

 私の会社生活は六十四歳まででしたが、それからの十数年は、あっという間に過ぎてしまいました。だれでもそうでしょうが現役の頃は毎日仕事に追われ、余裕のない目まぐるしい日々でした。学生の頃にクラブ活動に夢中になりすぎて勉強をおろそかにした苦い経験があり、その後の学生生活と会社現役中では趣味の楽しみは慎んできました。

 会社生活を終えて時間の余裕ができたので、夫婦で話しあいそれぞれ選択して習い事を始めました。妻は習字を、私は囲碁と油絵を選びました。ある教室に囲碁は週に一回通い、油絵は年に六枚の作品を提出し添削指導を受けて、さらに年一度の展覧会に出品するというものでした。囲碁教室の生徒仲間は定年後の元気のよい人たちでしたから、先生の講義・生徒との対局が終わって後、その仲間たちと喫茶店での談笑は楽しいものでした。どちらの趣味も運動不足になりがちです。そのために朝の散歩は欠かさず、高尾山には度々出かけ八王子の自然を満喫していました。夏には、旧同僚の友人たちと遠方の夏山登山を繰り返し、あっという間に十年が過ぎていきました。

 そのころ、妻は月に二回の習字の稽古に通い、また私に遠慮しながら教会に出席していました。まじめに教会に通う妻を見て、せっかくの日曜日が忙しいことだ、私はクリスチャンにはなるまいと思いながら車で送迎をしていました。妻は稽古事で忙しい中を以前と変わらず優しい態度で、私の趣味や行動に理解を示してくれました。そして、妻は私に気遣いながら教会に通っていました。

 私は好きなことに自由な時間を費やす、その繰り返しの中で何故か心が満たされないものがあるのは何故だろうと思うようになりました。妻が聖書を開いているのを見て、私も教会に行ってみようかと、つぶやくと妻は喜んで連れて行ってくれました。私には用はないと避けていた教会でしたが、やさしい牧師と親切な教会の方たちとともに、日曜礼拝で賛美し、祈り、説教を聞いて、素直に良かったと思いました。

長い間あこがれてきた趣味の世界でした。それが実現してもなぜか虚しさが残る、その足りないものが何かを教会の日曜礼拝に出て理解できた思いでした。それからは聖書を開く機会が増えました。聖書には、私たちが生きるための指針が記されていることを知りました。イエス・キリストを信じて、「神の愛の深さ」に接するとき、平安と満ち足りた心、癒しが与えられます。

朝目覚めたとき、就寝時には、短い時間ですが、家族と周りの人のために、また神さまから受けた救いや恵みに感謝し、祈りをささげるようになりました。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(ペテロの手紙 第一5章7節)

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』(ピリピ人への手紙4章6節)

孤独を感じるときには、イエス・キリストがいつもあなたと共にいて慰め、助けてくださいます。ご一緒に、この神さまの恵みにあずかりませんか。 

 

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