N0.241

  今年、本当の神様に教会で出会いませんか ≫

 

 昨年のNHK大河ドラマは「西郷どん」でした。その中で、岩倉使節団の話がありました。岩倉具視や大久保利通など新政府の高官が、欧米に赴き、法律や社会制度を学び、日本の国造

りに活かす為と、不平等条約の改正という目的で行われました。ドラマには出てきませんでしたが、岩倉具視は、訪米欧に際して、日本が、列強の国々と対

等な国として認められるためには、キリスト教が禁教のままではいけないと、日本に来たフルベッキという宣教師に言われていたようです。しかし、行く前はそれほど気にかけていなかっ

たようですが、渡米してそれを実感し、すぐに禁令を解いたようです。私は、常々思うのですが、日本人は、神様が本当に好きな国民だと思います。しかし、真の

神様を知らない。だから、いろいろな物を神様として祀っているのだと思います。私たち日本人には、日本古来の様々な宗教があります。ですから、欧米から社会制度や科学

技術は輸入しても、宗教まではその必要がないと考えているように思います。また、日本人は、人との和を非常に重んじる傾向があります。ですから、小さい頃から知らず知らずのうちに、

そこからはみ出さないように教育されてきました。そんなことから、日本でキリスト教はなかなか広がっていかないのではないかと思います。もし、キリスト教が、単なる宗教の一つであるならば、私はこうして勧めません。しかし、キリスト教は、人間の分類の中で言えば宗教に属していますが、実は、その分類の中に入れてはいけないものであると考えています。なぜならば、キリスト教が伝えている教えは、人が造った宗教でも、人の悟りによって開かれた宗教でもないからです。キリスト教が教える神は、人や万物をお造りになった神なのです。そして、その神からのメッセージが聖書なのです。聖書は、何を教えているのでしょうか。まず、私たちが、神様によって神に似せて造られたこと。私たちだけでなく、天も地も海もその中にあるすべてのものが神によって創造されたと教えています。神は唯一であり、他に神はありません。その神は、全知全能で、聖であり、義であり、愛であり、恵みに富み、情け深い方であると教えています。最初創造された時、人は、神と共に生きていました。それは、実に、素晴らしい愛と喜びと平安の中で生きていたのです。しかし、人類の祖先は、神との約束を破り神から離れて生きていくようになりました。それが罪、キリスト教でいう原罪ですが、それによって死ぬべき存在になってしまったと聖書は教えています。本来、永遠に生きる存在として、神は私たちをお造りになったのに、罪によ

って全ての人が死ぬこととなってしまいました。そこで、神は、救いの計画を用意して下さい

ました。永遠のいのちを与える計画です。その為には、罪の清算が必要なのです。神は情け深く、恵みに富んでおられますが、同時に、全く聖く、全く正しい方ですから、罪をそのままにするわ

けにいかないのです。そこで、神は、ご自分が人となり、この地上に来てくださいました。 その方が、イエス・キリストです。この方は全く罪を犯さず、病を癒し、愛を説いて、人間

の生きる道を教えてくださったのに、十字架につけられて殺されてしまいました。しかし、その意味は、全ての人の罪を背負って、罪を清算するために死んでくださったというのが、聖書の教えです。更に、キリストは三日目に復活されたと伝えています。ですから、真剣にイエス・キリストの贖い(身代わりの死)を自分の罪のためであると信じる者には、神が罪を赦し、永遠のいのちを与えるというのが、神の救いの計画であり約束なのです。 あなたも、真の神様に出会いに、教会にいらっしゃいませんか。

 

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

  それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

ヨハネの福音書316 

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N0.242

 君たちはどう生きるか ≫

 

 

少し前にはなりますが「君たちはどう生きるか」という古い漫画の再販が脚光を浴び、メディアでも広く取り上げられ、若者の間でも多く読まれました。これは人間としてあるべき姿を

求め続けるコペル君と叔父さんの物語です。人生について考える一石を投じたものとして、今の時代に人々が感心を示したことにいささか驚きを感じたものです。現在はスマホでゲームをしたり、SNSで仲間とのつながりばっかりを重視している若者が多く(失礼)、人生について考えたり、人は何のために生まれ、何のため

に生きているのかと議論していないように見える世代でも少しは人生について考えるきっかを与えたのかなと嬉しく思いました。そう言う私もすでに50代後半ですが、若い頃を振り返って

みますとスマホやPCはありませんでしたが、同世代の仲間と人生について議論することはあまりなかったことを思い出し、なんだ自分も同じじゃないかと恥ずかしく思いました。

私は幼い頃から教会に通っていたので、神様がこの世界を創造され人間の生きる目的やどのような生活をすればよいかなど聖書に記されていましたので、心の中で安心していたのかもし

れません。

 聖書の創世記1章というところに神様が人間をどうのように造られたか記述があります。

 

 「神は仰せられた。『さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

  彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配する

  ように。』」

 

 ここに人が造られた目的を見い出すことができます。神様はなんとご自身のかたちとして(物理的なかたちではなく)、人を神に似せたものとして造られ、そして動物を含め生きるもの

ものすべてを支配するようにと人に命じられています。これは神様から人間に与えられた大切な使命・目的です。人間は世の中をしっかりと収めることを神様から命じられており、争い、戦争などでお互いに傷つけあってはいけないのです。さらに、マタイの福音書22章というところには次のような記述があります。ある律法の専門

家が先生(イエス様)に尋ねるシーンです。

 

「先生、律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これが

 大切な第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒

 めも、それと同じように大切です。」

 

私たちを造られた創造主である神を愛し、大事にしなさいということが、大切であるとともに、それと同様に、私たちの周りにいる隣人をも自分自身のように愛しなさいということも大

切だということです。これは人に与えられた生きる中でとても大切な目的です。人々の間でこの隣人愛が十分に理

解されれば戦争などは絶対に起きないはずです。いかがでしょうか。教会に来て聖書を一緒に読み、神の声に耳を傾けてみませんか。

聖書は一般に売っていますので自分で購入し読むことはできます。しかしながらその意味するところを正しく理解することは一人ではなかなか難しく、またその量も膨大であるためどこを

読めばよいか分からないと思います。当教会ではベテランの牧師が懇切丁寧に聖書を解き明かしてくれます。また、信者同士の交

わりもとても楽しいものです。 聖書を通してあなたが生きる目的を理解し、あなたの人生が素晴らしいものになることを信じて止みません。

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N0.243

 神が共にある人生 ≫

 

 

人間関係や仕事など、人は人生においてさまざまな試練にあうことがあります。試練にあうと、先の見えない暗闇にいるかのようで、不安と絶望感に押しつぶされそうになります。

私も以前はそうでした。しかし、今はクリスチャンになり教会に繋がっています。試練を前向きにとらえられるようになりました。

 人の痛みは同じ経験をしないと、なかなかわかってあげられないものです。そういう意味ではさまざまな試練も必要ではないかとさえ思えるようになりました。

私は40代、二児の母です。受験、就職、結婚、出産と、人生の転機を経験しました。私には常にお祈りできる神様がいて、相談できる場所として教会があります。

 問題が起きた時、私はまず、全知全能の神にお祈りします。神様はいつでもお祈りを聴いてくださいます。神様が絶対に何とかしてくださるという強い意志を持ち、神様により頼み、祈

りながら解決の糸口をさがします。時がくると神様は思いもよらない方法で、その問題を解決に導き、それと同時にお恵みを与えてくださるのです。現在子育て中の私は、先日、ハンナの会(教会の女性だけの勉強会)に出席しました。子育てを終えた、私の母親世代の教会員の方々に子育ての悩みを相談すると、色々なアドバイスや励ましをもらいました。

 【恐れ、不安、心配の多い人生経験を子供に相続させてはいけない。むしろ、子供を愛し、すべての必要を満たしてくださる神様に安心してゆだねることが出来るように導きましょう。】

 この頂いたアドバスと、皆が私のために一緒にしてくれたお祈りのおかげで、何とも言えない安心感、心の平安が与えられ、希望を持って元気になることができました。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して

くださるからです。』               (ペテロの手紙 第一 5章7節)

 

子育ては試練の連続です。育児にはマニュアルがありません。むかしの育児は、大家族で、お手本になる人が一緒に暮らし、隣り近所も交えて支えていた面もありました。現在は核家族

化がすすみ、私の育った時代と現在では、子育ての環境が大きく違います。子供の頃に受けたしつけや経験だけでは通じないことも多くなり、手探りで子育てをしている状態です。だから

こそ、大切な子供を、愛を持って育てていくには、神の助け、そして悩みを打ち明けることのできる場が必要だと思うのです。私たちクリスチャンには、心の拠り所となる神様が共にいてくださいます。また、礼拝や集会を通して、聖書について学び、神様のことをより知ることができる機会の場として教会が与えられています。教会にはたくさんの分かち合いの場があります。困ったことをいつでも相談できる牧師、たくさんの教会員がいて、悩みを共有でき、解決に導いてくれます。是非、教会で一緒に聖書について学び、神様が共にいてくださる、平安のある人生を送って

みませんか。

 『あなたがたのあった試練はみな人の知らないものではありません。

神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさい

ません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。』

                  (コリント人への手紙 第一 1013節)

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N0.244

№244     永遠のいのちに生かされること

 

 

 いよいよ今年も、東京でも桜の開花宣言が発表されました。冬の間、葉を落として枝だけになった森の木々も、また新芽が生えて花が咲き、新緑の眩しい季節が訪れるかと思うと、いのちの力強さと同時によみがえりを感じます。生きていることは、それだけで素晴らしいと改めて感じます。

 この時期、教会では、クリスマスと同じくらいかそれ以上に大変大切なお祝いがあります。それは、イースターです。これは、イエス・キリストが、十字架で死なれ、墓に埋葬されましたが、三日目によみがえったので、そのことをお祝いするものです。このように聞くと、外国の宗教のお祝いだから、日本人の自分とは関係ないと思ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。しかし、実は私たち日本人にも、全世界の人びとにとっても大切なことなのだと聖書は教えています。それは、永遠のいのちに生かされるかどうかがかかっているからです。

およそ2千年前、イエス・キリストは、この地上にお生まれになりました。私たちと同じように赤ちゃんとしてお生まれになったのでした。しかし、その出生は、大変不思議なものでした。まず、何百年も前から救い主として、神の御子がお生まれになることが預言されていました。また、処女が聖霊によって身ごもると預言されていました。それは何故か。それは、生まれて来るのは、神の御子であり、神が人間の姿をとってお生まれになるという預言の成就であったからでした。真の神は、このイエス・キリストを通して、全ての人の罪を赦し、永遠のいのちを与えようと計画されたのでした。では、どんな方法でそうされたのでしょう。

イエス・キリストは、ご自分が神の子であることを私たちがわかるために、真の神様とは、どんな方なのかを教えてくださいました。真の神は、天地万物をお造りになった方。私達人間をも造られた方である。全く聖く、全く正しく、恵み深く、愛の方であると教えてくださいました。また真理について語り、人はどのように生きるべきなのかを教えてくださいました。そして、言葉だけで信じることが出来ない人の為に、いろいろな不思議なみわざをもって信じることができる様にされました。それは、例えば生まれつき盲目な人の目を見える様にされたり、あらゆる病を癒されました。死んだ人を生き返らせることもされました。また、湖の上を歩いたり、暴風を静めたり、自然さえもこの方の言うことを聞くことを見せられました。本当の神様だからできることをされた。それは、一人でも多くの人が、このイエス・キリストこそが、神の御子であると目が開かれて信じるためでした。

イエス様は、神ご自身が人となってこの世に来られた方なので、この方の中に全く罪を認めることができませんでした。しかし、当時の権力者であったユダヤ人の宗教指導者たちは、それを認めませんでした。自分を神とするということは、神を冒涜する者であるとして、十字架につけて殺してしまいました。全く罪の無い聖いお方なのに。しかし、イエス様の死は、私たちには思いもよらない別の意味を持っていました。それは、全ての人の罪を贖(あがな)うための死だったということです。聖書は言っています。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙310節~12節)。私たちは、良いこともしますが、同時に悪いことも考えてしまいます。つまり、私たちは、神に似せて造られた素晴らしい存在であるにもかかわらず、全ての人は、生まれながらにして罪の性質を持っているということです。人の物を盗むことや倫理的な罪を犯す事だけが罪ではありません。心の中で悪いことを考えることや真の神を認めない事、神に従わないことも罪なのです。人は、この罪によって死ぬべき存在になってしまったと聖書は言っています。死が、罪の結果ならば、この罪が贖われたならば、いのちを受け取ることができる。それが、福音なのです。神は愛ですと、イエス様が教えて下さいました。神の愛は、今も私たちに注がれていて、全ての人が、真の神様に立ち返ることを求めておられます。もし、自分の心の中の罪を、悔い改めたならば、神様はどんな罪をも赦して下さるのです。真の神に立ち返るならば、神は真実で正しい方ですから、全ての罪を赦し、悪からきよめて下さり、永遠のいのちを与えてくださるのです。イエス様は、私たちの最大の敵である死をも打ち破り勝利を取られました。私たちは、イースターをお祝いして、この永遠のいのちに生かされることを喜びます。神様と共に歩むことに平安と希望をもって生きていこうと思います。神様は、私のところに帰って来なさいと今も待ち続けておられます。あなたも、教会に来て、このいのちを頂きませんか。

 

聖書の言葉 ヨハネによる福音書1125節~26

 イエスは言われた。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。

わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

  また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

このことを信じますか。」

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N0.245

 叱ってくださる方 ≫

 

 「地震、雷、火事、オヤジ」昔から日本で恐れられているものの代表です。地震、雷、火事は現代でも大変恐ろしいものですが、今や「オヤジが恐い」は死語になりつつあります。

テレビの街頭インタビューで、多くの若者が両親とよく会話し、一緒に買物をすると答えてます。孫が欲しがるものを何でも買い与える甘く優しい祖父母が増えているようです。平和で

微笑ましいことではありますが、人生の荒海を超えていくには、幼いときから恐い人がこの世にはいるという適度な緊張感を訓練する必要があるのではないでしょうか。

 むかし、私の幼いころは恐いオヤジがたくさんいました。主人の母方の祖父は玄関の入口の部屋の火鉢の前で一日中、家人の出入りに睨みを聞かせて、ふるまいが悪いと怒鳴る恐い人だったそうです。私の父方の祖父も無言の恐さがありました。また母方の祖父は口やかまし型の恐い人でした。私の兄は、庭をブラブラ歩いているだけで

歩き方が悪いと叱られていました。私は不用だと思っていた習字半紙の書き損じの紙で折紙をしていたら、祖父に曲がった腰で物差しを振り上げて追っかけられ、訳もわからず必死で逃げ

た記憶があります。祖父はこの半紙を伸ばしてトイレの落し紙として利用していました。風呂には「湯船に手ぬぐいを入れるな!!」と恐い木札がかかっており、緊張して入ったこと

を覚えています。大家族なので湯を汚すとあとの人に迷惑がかかるということです。祖父に叱られた事は数知れず、私だけでなく家人みんな今でも会うと語り草になっています。

明治20年代に生まれた祖父たちの時代は変化の激しい時代でした。祖父の家は、旧東海道の宿場町で宿屋を家業としていましたが、鉄道の開通にともない宿を閉じ、紳士服を作る職人

となりました。和服から洋服に移り変わる時代で店は繁盛しましたが、これもまた時代の変化で既製服の波に飲まれてしまいました。祖父はいち早く近隣の高校に足繁く通い、学生の半既

製服を個人に合わせて仕上げるという方法で何枚かの契約を取り付けました。現在も学生服を取り扱う店として存続しています。また、その商いをするかたわら、30歳を過ぎたころから書

道を勉強して書道塾を開き、息子に商いを譲ったあと、87歳で生涯を終えるまで働き続けました。社会保障も整わず、いつ一家が露頭に迷うかしれない厳しい時代を生きる緊張感がそこに

はあります。人に疎んじられ、孤独を恐れない生き方の教訓を私たちに残してくれました。

今の時代は、複雑で悪がはびこり、自由が放縦に流れる世です。優しさと甘えの中で育った子どもたちが挫折することがないように、いまこそ私たちを正しく叱ってくださる人を必要とし

ている時代はありません。祖父は、勉励刻苦(つとめはげむこと)、必死に家業を守ろうと頑張

ってきました。しかし、祖父よりもはるかに優れた神さまは、優しさと厳しさをもって再三再四、私たちに

「いつも目を覚ましていなさい」「いつも用心しなさい」と呼びかけておられます。 愛に裏打ちされた神さまの忠告に耳を傾けてみましょう。

「父母を敬い、老人に優しく、礼儀正しく弱いものに寄り添う」真の強さと、苦境を乗り越える力を与えてくださいます。

 

『すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるもので

すが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』

(ヘブル人への手紙1211節)

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N0.246

 

none

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N0.247

« キリストを信じて »

 

 

 私は大阪でクリスチャンの両親の下に生まれ、実家のすじ向かいにある教会の日曜学校に幼いころから通っていました。

天地創造から始まる旧約聖書の物語や、イエス様の誕生から召天にまつわる新約聖書のお話を繰り返し聞いて大きくなりました。その間一年を通じて教会で催される季節ごとの様々な行

事が、とても楽しみでした。

春はイースター(イエス様の復活のお祝い)の卵探し、夏は泊りがけのキャンプ、秋は遠足、

クリスマスは降誕祭の催しやプレゼント、キャンドルサービスなど・・・。今のようにゲームや行楽施設が整っていない中でも、心身ともにとても充実した子供時代を過ごしました。

 何十年経った今でもとりわけ心に残っていますのは、貧しい人々のために尽力しておられた賀川豊彦先生が、大阪の伝道集会に来られた時のことです。私はまだ幼稚園の年長組の頃だっ

たと思いますが、弟と共に父に連れられて集会へ行き、優しく頭をなでていただいた事、その大きな温かい先生の手の感触が忘れられません。高校二年の時に受洗し、青年会ではキャンプファイヤーやクリスマスの寸劇をしたり、キャンドルサービスでクリスマスの讃美歌を歌いながらご近所や病院を回ったことが、懐かしく思

い出されます。 結婚して主人の仕事の関係で六~七回転勤し、その都度住まいの近くの教会へ子供たちと通

っていましたが、今から四十年前高尾に定住することになりました。このような一枚のトラクトに目を通したのがきっかけで、三十七年前から高尾教会に伺うようになりました。その間息子夫妻と主人も先に天に見送ることになりましたが、クリスチャンが永遠に住まう天の御国で再び会える日を楽しみにしています。

この春次女一家が同居することになり、孫共々高尾教会の礼拝、祈祷会、婦人会に出席できますことは、晩年の私にとってこの上ない幸せです。この上は、父母から受け継いだ信仰を四

代目の孫が継承してくれることを望むばかりです。聖書には、「主イエスキリストを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」と書

かれています。私たちは気づきませんが、神様はいつでも一方的な愛と恵みをもって両手を広げ待ってくださっています。この先何が起こるかわからない苦難の多い世相の中にあって、心に永遠の平安と安らぎを与えてくださるイエス・キリストに出会うために、教会へぜひ一度お越しください。

 

   聖 書

    『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

     わたしがあなたを休ませてあげます。』     (マタイの福音書1128節) 

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N0.248

«  鏡に映る私 » 

 

 

大抵の方が、外出前には鏡の前で髪を整え、身だしなみを一応点検してから安心して出かけていらっしゃると思いますが、時には時間に追われ慌てて飛び出し、人に指摘されて恥ずかし

い思いをされた経験もあろうかと思います。そのように鏡は、私共の外見を写していろいろ気付かせてくれる実に便利な物だと改めて思います。でも、どんなに立派で高級な鏡を手に入れたとしても、心の中まで見える鏡はありません。もし自分の内面を映してくれる鏡があったら欲しいと思いませんか。でもある方は自分の事は自分が一番よくわかっているからいらないよとおっしゃるかもしれませんし、またある方は内面が見えたら恥ずかしいからいらないと言われるかもしれませんね。ところが見つかりました。私の内面を映し出してくれる鏡とは、真の神さまのことが書いてある「聖書」です。 何故なら神さまは、私たち一人ひとりのすべてについてご存知で頭のてっぺんから足の先ま

で、自分自身気付かないでいる心の内面までも神さまはお見通しです。私たちは人を外見で判断しがちですが、神さまは心をご覧になるお方であり、私の弱さ、汚れた心に対して聖書を通

して日々指摘し続けてくださいます。少し、私の子ども時代を振り返って見ますと、戦後の貧しい生活を田舎で過ごし、一にも二

にも我慢の時代を経験しました。みんな生きるのに精一杯でした。人間的基準から特別はみ出

さない生き方をしていれば良いと思っていました。長年まったく真の神さまの存在を知る機会もなく過ごしてきました。やがて社会人となり、

物質的にも恵まれた時代を迎えました。厳しい時代を経てやっと人並みに新家庭を持つことができ、ささやかな幸せを感じていました。そんなとき、私に初めての苦難が訪れ、その問題を

現実として受け入れることができず苦しみました。青菜に塩の如くすっかり落ち込んでしまい、今までの我慢と粘り強さではどうすることも出来ず、まわりが見えなくなってしまいました。

 人生には自分の力、努力ではどうにもならない苦しみがあることをはじめて経験しました。そんな情けない私の話しを聞いてくれたのがクリスチャンの知人でした。「教会に行くしかない

わね。」と自信を持って言われた一言に、藁にもすがる思いで躊躇することなく教会の礼拝に出席しました。初めはさっぱり理解できませんでした。「石の上にも三年」の月日が経過した頃、

暗闇に一筋のひかりが差し込んできたような気持ちになったことを今でも鮮明に覚えています。きっとイエスさまが暗闇から私を引き上げて「いらっしゃい」と招いてくださった瞬間だっ

たと今は思います。自分ではどうしようもないところまで沈んで、初めてイエスさまと出会い、徐々に気持ちも軽くなり前向きに考えられるようになりました。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」    (マタイの福音書1128節)

 

自らを責めつづけ、まわりが見えない状態の私に聖書の言葉が励ましとなり、少しずつ目の前の苦悩を現実として受け入れる勇気が出てきました。できればその場から逃避したいと思う

私の弱さ、欠点もすべて神さまはご存知の上で歩むべき道を示し、希望と喜びを与えてくださいました。苦しいとき、自分一人ではなく、イエスさまが一緒にその苦しみを背負って乗り越

えさせてくださったのです。聖書に、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」(詩篇5522節)と書いてあります。苦難にあうのは辛いことですが、私には苦難を通して訓練することが必要だったのだと今は思えます。後期高齢となった今も、神さまは日々私の心の内面を映し出す鏡となって軌道修正をしてく

ださいます。この先どんな状況にも初心を思い起こして、神さまを見上げることができるようにと願う毎日です。

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N0.249

《 静かなクリスマス 》

 

 

街にジングルベルの軽やかな鈴の音が響き、クリスマスツリーが色鮮やかに輝いています。さあ、いよいよ楽しいクリスマスの幕開けです。子どもたちは勿論のこと、大人さえも思わず

「うきうき」した気分になります。この季節、子どもたちはサンタクロースの大切な贈物に期待を寄せながら、生意気にもその存在の有無を槍玉にあげて気分を高揚させたりします。一方、親たちは、子どもの夢を壊さないよう、期待を裏切らないようにと半ば真剣にいいサンタクロースになろうと努めます。想像するだけでも、街のあちこちから何か暖かく幸せな気分が漂ってきます。私の子どもたちが幼かった頃は、クリスマスを今のように大騒ぎして迎えることはありませんでした。それでも世間の親たちと同じように、クリスマスイヴには、子どもたちの夢が叶い

ますようにとの思いを込めて、せいぜいお菓子くらいしか入っていない粗末な贈物をそっと枕もとに置いてやった記憶があります。今にして思えば、貧しかった私たちの悲しいくらい精一杯の愛情でした。ジングルベルの音が聞こえてくると「マッチ売りの少女」の話がテレビ放映されることがあ

ります。薄幸な少女が、一本のマッチがつくり出すかすかな温かさの中に幸せを感じながら、天に召される象徴的なシーンで映画は終わります。私たちには点にしか思えないほのかな温か

さも、少女には、大きな暖炉も比較にならない幸せの瞬間であることが描き出されています。私たちの手が届かない所で神の底しれない愛、救いの手が働いていることを感じてはっとさせ

られます。

クリスマスは教会で、本当の幸せ(福音)をプレゼントして下さる方のご誕生をお祝いする日です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」と聖書にありますが、神は、自らの罪を告白し赦しを乞う者に対し、その罪を赦し、永遠の命を与えることを目的とされ、イエス・キリストをその代償、生贄(いけにえ)としてこの世にお遣わしになり

ました。私たちクリスチャンにとってのクリスマスとは、自分の日頃の有り様を反省し、神の赦しを得て本当のプレゼントが頂けるように心静かに祈る日でもあります。福音を期待する高

揚感はあっても、そこには自ずと静かな時間が醸し出されます。私たちのクリスマスに、ネオンきらめくあの華やかさはありませんが、いわゆる宴の後の虚

しさもありません。言わば、クリスマスがこれからやって来る幸せへの始まりだからです。イエス・キリストが、私たちを福音へと導いて下さる始まりなのです。荷が負えない道中は代

わりに負って下さり、終(つい)には天国へ凱旋する道を開いて下さる希望の門がクリスマスなのです。私たちクリスチャンにとって、クリスマスはそういうものです。あなたも、一度は教会で、静かにクリスマスをお迎えになってはいかがでしょう。

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N0.250

 

  この世の片すみで ≫

 

 

 私の叔母の現在の生活についてお話しします。叔母は、成人した自閉症の息子と、寝たきりになって入院している夫とを抱え困窮しています。

 叔母は、戦後の高度経済成長期に生まれ、素直にのびのびと育ち、音大でフルート演奏を学んで活躍しました。その後、優しく人の良い叔父と出会い結婚して、順風満帆な人生を送っていましたが、授かった息子が強度の自閉症と診断されました。夫婦共一体となり、息子の成長のため日々最善を尽くしました。その息子も成人し、これからの人生の見通しもついた矢先に叔父が交通事故に遭い、寝たきりになってしまいました。数年かかってリハビリをしてなんとか自力で歩行できるようになり喜んだのも束の間、急激に認知能力が低下し、現在長期入院に至っています。

 今まで、度重なる試練に耐えて努力をし、ひたむきに頑張ってきた叔母ですが、あまりの辛さにうつ病を患い、孤独の中、日々なんとか過ごしている状態です。

 私は近くには住んでいるものの、家族があり仕事を持つ身でありますので、叔母のために少しの助けもすることが出来ず、心苦しく思っています。病院側も、叔父の症状の重さ、複雑さに対応し切れないようすです。叔母は、一生懸命頑張ってきたのに何故ずっと苦しみが続くのか、毎日が辛く、孤独でわずかな楽しみも無いと訴え続けています。

 一昨年のクリスマスは2425日と叔母の家で過ごしました。叔母はクリスチャンで、かつては熱心に教会に行き、それを心の拠り所としていたのですが、叔父の事故以来、教会の礼拝や行事にも参加できなくなり望みもなく、ひたすら号泣していました。それを聞いても私はどうすることも出来ず、ただうなだれるしかありませんでした。

 そんな叔母を、近くに住んでいる友人が親身になって助けてくださっています。叔母の所属する教会の信徒で老人介護と障害者福祉に見識のある人です。非常事態のときは深夜でもすぐ駆けつけて援助してくれるそうです。実際、その友人の存在が叔母家族の大きな支えになっています。そしてまた、叔母自身、困窮の中で切実に神さまの導きを求め、祈り続けています。

 私も、世の中から孤立し、毎日耐え忍んで生きている叔母の家族に必要な援助ができるよう、神さまに祈り求めています。そして、私が今いる教会でつながっている信仰の友と祈り合い、叔母の生活が窮地に陥ったときにすぐ助けられるように(叔母の友人のように)信仰を強めていこうと思います。

 〔主よ。その人が病の床にあるとき、支え、

力を失って伏すとき、立ち直らせてください。〕(詩篇42:4)

 〔主は病の床で彼をささえられる。

  病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。〕(詩篇41:3) 

 

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