N0.211

 

  ベスト・フレンド ≫

 

 

 私が子ども時代一番好きだった本は「赤毛のアン」だったと思います。特にアンと親友のダイアナとの交流のストーリーが大好きで、いつもダイアナのような親友が欲しいと心に願っていました。でも、現実社会でダイアナを見つけることはとても難しかったです。仲良くなった友達は何人かいましたが、私の心を本当に満たせるような友情はなかなか築けませんでした。

子ども時代はお人好しで、極力人に優しい子でいようとしたためよく人に利用されました。嘘をつかれたり、八つ当たりされたり、変ないじめに巻き込まれたこともありました。

本当に自分自身を出せて、分かち合えるダイアナのような親友をいつも探していましたが、なかなか見つかりませんでした。私は高校時代に神さまを信じて受洗しました。教会学校に通っていたので、神さまはいるものだと、自然に受け入れ、信じていましたが、受洗したきっかけは高校での友達とのトラブルで少し疲れていたことでした。そんな私に、

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

(イザヤ書四三章四節)

という聖書のみことばが示され、心を打たれました。他人にずいぶん軽く見られることの多かった私を「高価で尊い」と重く受けとめてくださった神さまのみことばを読み、なんだかうれ

しくてホッとしたことを覚えています。その後も親友が欲しい、と思う気持ちはなかなかやまず、だれかと親しくなっては、何か違う、と失望する日が続きましたが、ある時、人に求めすぎている自分に気がつきました。聖書には、いろいろな偉い人、優れた人が登場しますが、完璧な人はいないのです。素晴らしい王様が浮気をしたり、人を殺すこともありました。人はみんな罪人で、みんな弱い、自分自身を含めて、みんなずるく、人を利用する部分があることに気づいたのです。そんな時に、レーナ・マリアさんというゴスペルシンガーのコンサートに行きました。

レーナさんは生まれつき両腕がなく、片足が短いという障害を負っています。でも、とても美しい声で神さまの歌を歌い、聞いていて本当に素敵だと感じました。そしてレーナさんはこう

言いました。「神さまは私のベストフレンドです。どんな話しでも聞いてくださいます。」その話しに改めて納得してしまいました。人間の友達は完璧になどならない、でも神さまは違う、

と確信したのです。こう思ってから、私はようやく人にいろいろ求めなくなっていきました。神さまがずっと親

友として共にいてくださるのです。そんなのわからない、と子どもに反発されたこともありました。確かに目に見えない神さま

が親友だなんて、おかしく思える人も多いと思います。でも私は、こう実感できたときに、とても気持ちが楽になったのです。

 人間関係に苦しむ人がいたら、心から伝えたいのです。神さまはあなたの最高の友達として、

いつも共にいて見守って助けてくださるということを。実際に、完璧ではない人に、いろいろ求めていると、非常に苦しくなります。人は、苦しみを和らげてくれる人を見つけると、やが

てその人に怒りをぶつけるようになると聞いています。

私自身もなぜだかわからない怒りをぶつけられたこともあり、また、私もぶつけていたこともあったと思います、でもそのようなことは無意味だと思います。なぜわかってくれないのか、

という怒りをぶつけても相手がつぶれてしまうこともあります。神さまに祈りの中で打ち明けて、すべてわかってもらえることで、多くの人がきっと穏やか

になれると思うのです。よく意味が分からないようでしたら、ぜひ教会にいらしてください。あなた様が、苦しみを

和らげられて幸せになれますように、神さまに祈っています。   

 

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N0.212

 

 ありがとう ≫

 

 

 四年前の七夕の夜、母は、織姫となりこの世を旅立った。それより十年前の八月八日、既に彦星となって母を待っていた父は、元教師であったが、終戦の混乱で旧国鉄職員となり、後に

駅長として働き家族を養ってくれた。物作りが得意で寡黙な人だった。母は聖路加国際大学で看護学を学び、ブランクはあったが、看護婦長として七十五歳まで現役だった。とても器用で

料理上手な優しい人だった。そんな立派な両親を、私は泥沼の人生に巻き込み、二人の寿命を縮めてしまった。

 母は父亡き後、私が最も辛く苦しい時に、経済的、精神的に多くの援助をしてくれた。母は若い頃から甲状腺の病を抱え、晩年には腎臓と心臓も患っていたが、そんな母に家事のすべて

を任せていた。自分が生きることに精一杯だった私には、母の身体を気遣う余裕など無かった。

気が付くと母は認知症も併発していた。綺麗で立派だった姿は変貌し、ボロボロに崩れ壊れていく。仕事を持ち一人での介護生活に疲れ果てた私は、命の恩人である大好きな母に対し、

何度も罵倒した。そんな先の見えない壮絶な戦いの日々は続いた。

 今思い返すと、ただただ母に甘えていたのだった。私のストレスを母にぶつけることで、何とか人間性を保つような卑劣で最低の娘だった。

 しかし、お別れの時がやって来た。大量のモルヒネにより意識が遠のく寸前まで私を気遣う母。そして最後に絞り出すように出た言葉は「ありがとう」だった。

 まるで夢の中の他人事のようで涙も出ず、茫然と白い母の顔を眺めている自分がいた。時間が経つにつれ、例えようの無い悲しみと寂しさ、後悔と喪失感、自責の念が津波のように押し寄せ、全ての物が白黒と化した。ただ救いとなったのは、優しい笑顔の綺麗な母の姿しか思い出せなくなっていた事であった。

 認知症は不思議な病。母には、痛み苦しみを忘れさせ不安を取り払ってくれた。私には、壮絶な戦いが母への償いと思わせ、最愛の母との別れを楽にしてくれた。まさに神さまからのギフト病なのかもしれない。時が経ち徐々に立ち直り始めた頃から、不思議に良いことが次々と起こり出した。まだ神さまを知らなかった私は、天を見上げては「父さん、母さん、ありがとう」と何度も涙を流した。それから間もなく、教会の門をくぐり、初めて神さまの存在を知った。そして、主イエス・キリストの偉大な愛を信じ、人生最高の誇りと喜びを得ることになった。『ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。』(詩篇一三六篇四節)

 奇跡は起きた。私の息子はスタジオ兼サウンドバーを経営し、自らも演奏している。体力と実力勝負の厳しい世界なので、家庭を持つことは百パーセント諦めていたが、彼の生き方を愛し尊敬してくれる笑顔の素敵な女性と結ばれ、子どもまで授かった。どんな時も笑顔を絶やさないお嫁さん似の孫娘は、天真爛漫で食欲旺盛。何を出しても一口食べるたびに「○○さん、おいちいね。ありがとう」と満面笑顔。そしてアナと雪の女王の「ありのままに」を全身全霊で踊りながら歌う。その無邪気で一生懸命な姿は、ダビデ王が神さまを崇め、心から讃美する姿と重なって見えた。この幼子から多くのことを学んだ。

 二人を見て息子が笑顔、三人を見て私も笑顔。こんな風に笑顔の輪が広がり、世界中の人々が幸せになりますように。そして、孫娘の黒い瞳の輝きがいつまでも守られますように。今日も静かに手を合わせる。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』(テサロニケ人への手紙第一 五章十六~十八節)

 神さまは私を恵み、イエス・キリストの十字架の贖いを通して、愛をお示しになられました。私が立派なので神は私を愛してくださるのではありません。罪深いものですが、その私をも愛して下さる父なる神に感謝し、神の御名をほめたたえます。ハ・レ・ル・ヤ

 『この方(キリスト)にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは、神の豊かな恵みによることです。』         (エペソ人への手紙一章七節)

 『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。』  

                           (ヨハネの手紙第一 四章十六節) 

 

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N0.213

 

 

 神の恵みに支えられて ≫

 

 

 数日前、運転免許証更新のために必要な「高齢者講習」の案内が届きました。自分的には、そこそこ元気ですし運転にも自信がありますので、わざわざ受講しなくても良いのではないかと、勝手に思っていましたが、法律(道交法一〇八条のニ)で決まっているとの事なのでシブシブと行ってきました。その帰り、ふと、こんな事を思いました。「自分はもうこんな年齢(前期高齢者)になったんだな」「何の取り得も、力も無い自分がよくここまで来られたな」と、同時に、いろいろな事があったけれど、ここまで生きて来られたのは正に「神さまの恵みだな」と。

 徳川家康は「人の一生は、重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし」と言ったそうです。大金持ちは大金を持っているがゆえに、お金のことで心配し悩み、問題を持っているそうです。まして、我々のような一般庶民が悩みや心配事のない筈はありません。

 以前、先輩にこんなことを言われたことがあります。「心配事や悩み事や問題のない家庭は無い」と。では神さまを信じている我々クリスチャンはどうでしょうか?

 我々クリスチャンも人間ですから、病気もします、心配事もあります、困難にも直面します。いうならば問題や、悩み事、心配事のないクリスチャンは居ないといってもよいでしょう。

 私は両親がクリスチャンでしたので、ごく普通にクリスチャンの道を歩みましたが、振り返ってみれば、いろいろな困難、問題に直面して来ました。

 具体的には申せませんが、学校、結婚、子育て、親との死別、従妹の事、借金の事、またサラリーマンでしたので会社での仕事、上司、部下との事等。

 今、考えてみますと自分の能力、実力で解決した物事は何もありません。すべて人間の考えも変えることの出来る神さまの力と、恵みのゆえでした。他人は「運がよかっただけ」「単なる偶然」と言うかもしれません。しかしながら「運」「偶然」だけでこんなに何回も、何回もなにもかも上手く行く事があるでしょうか。

 私は困難に直面した時には、こうしてきました。先ずは、自分の出来る限りの最大最善の努力をします。同時に、次のみことばを信じて祈ります。

 『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。

労苦はその日その日に、十分あります。』  (マタイの福音書六章三四節)

 『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。』 (マタイの福音書十一章二八節)

 そうすると不思議なことに、心に安らぎが生まれて来ました。

 実は、今現在悩み事、不安事が無いわけではありません。でも、神さまはこの事をもうご存知なのだから何とかしてくださるだろうと、すべてをお委ねしております。

 いかがでしょうか、教会に来て、神さまにお会いしませんか。神さまは待っておられます。 

 

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N0.214

 

 生かされている奇跡 ≫

 

 

 残暑の厳しい季節を過ごしながら、数年前に起こった出来事を思い出して、書き留めています。その年は、例年より一層、残暑を厳しく感じました。

 結婚を機に八王子へ越してきて、間もなく誕生した上の娘と共に高尾教会に通って数年が経ち、下の息子を出産しました。赤ちゃんが与えられた生活を呑気に楽しんでいた矢先、新生児の訪問健診において、暑い中水分補給が足りず、黄疸と診断されたため総合病院に入院しました。病院側の説明によると、一週間で退院できるとのこと、楽観的に考えて毎日お見舞いに通っていました。あと一日で退院という日に面会したとき、以前より子の反応が鈍くなっていました。看護師より、睡眠時間が長めだと聞きました。

 その日の深夜、病院からの電話で「状態が悪化している。明朝いちばん救急車で都立小児病院へ搬送、緊急手術を行う。」という連絡を受けて血の気が失せる思いでした。翌朝担架に乗せられた我が子とともに救急車で、搬送先の病院へ着くや否や、待機していた医療スタッフが一斉に集まり処置にかかりました。控室ではなす術もなく、ただただ神に祈りました。たった二週間の命で別れをする覚悟をしなければならないのか、突然の事態に直面して初めて人間の無力を心底まで思い知らされながら、ひたすら祈り続けるしかありませんでした。

 ようやく医師が現れ、身体状態の経過や処置内容などの説明を受けましたが、助かるかどうかは、その時はまったく判らず、その後数日間、何をどうして過ごしたか思い出せません。ただ、通っている高尾教会で、神に助けを求めたことははっきりと覚えています。死の恐怖を自分だけではとても抱え切れず、家庭内でも緊迫した空気の中、居ても立ってもいられず、通院途中に教会へ駆け込み、すがる思いで牧師にお祈りをお願いしました。

 数日経って、息子との面会が許されました。ベッドの上で眠っている小さな身体に長い管が数本巻かれ、処置のために身体中、水分でパンパンになってむくんでいました。ピーッピーッと無機質な機械の音が絶えず鳴り続けている中で、横たわる子を、ただ茫然と眺めていました。自宅に戻ると、産後二週間でまだ万全ではない身体をおして、日常の家事や、当時小学生だった上の娘の見守りをして生活をまわすだけで精一杯でした。

 そんな状況の中での必死の祈りが聞かれました。子どもの状態が日に日に回復し、たまにニコッと笑うのを見ては、ほほえましく思い一安心しました。

 秋が深まるころ、すっかり元気になった息子を迎え、退院することができました。神に感謝の意を表すにしても、とても言葉では言い尽くせないほどの大きく深い喜び、また、教会の皆さまが全体で祈ってくださったことを誠に感謝しております。

 あれから、子どもの成長する中で家族の他の問題が起こったり、子の健康面での困難も多く、決して順調とは言えない日々ですが、その度に、神に支えられていることを実感しつつ、今年九月に、息子の六歳の誕生日を迎えました。神によって生かされていることの感謝と、遠い昔より命がつながれていることの奇跡を覚え、今度は次世代へ命をつなぐ役割を私は神によって与えられていることを考えて生きて行きたいと思います。

 『聞いてください。主よ。私をあわれんでください。あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。』(詩篇三〇篇十~十二篇抜粋)

 

 

 

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N0.215

 

№215    聖書を学ぼう ≫

 

 

一 旧約聖書と新約聖書

聖書は世界のベストセラーと言われますが、世界中の言葉に翻訳されキリスト教徒に限らず多くの人々に読まれています。キリスト教では旧約聖書と新約聖書の両方を使いますが、ユダヤ教は旧約聖書のみ使います。

 旧約聖書と新約聖書の違いは、旧約聖書はイエスキリストが登場する以前の出来事が記述されているのに対し、新約聖書はイエスキリストが登場し全体の中心となっています。しかしながら、旧約聖書においては多くの預言者(神様の言葉を伝える人)によってイエスキリストの存在が予言され、救い主が必ず現れるということが示されています。

 旧約聖書は天地創造から始まり神様とモーセやサムエルなどに代表される預言者とのやりとりやイスラエル民族の歴史的な出来事が書かれています。イスラエル民族は神から選ばれた選民ですが、どんな状況に置いても神様に忠実に従うのはそうたやすいことではなかったようです。

 新約聖書はイエスキリストの教えとその生き様によって神の愛が終始示されています。そして使徒(イエスの弟子)たちの働きによって多くの人々に福音が述べ伝えられました。新約聖書からキリスト教の真髄を読み取ることができます。

二 聖書に出てくる不思議な出来事

 聖書とくに旧約聖書にはたくさんの不思議な出来事が出てきます。これは神様がイスラエル民族を助けるために起こした奇跡の数々でした。いくつか例を挙げます。

1)2つに分かれる海(旧約聖書:出エジプト記)

 イスラエル人たちはエジプトで長い間奴隷として苦しい生活を送っていました。人々は神に助けの祈りを捧げ、神はモーセという指導者をたてて下さり、エジプトの王パロに働きかけます。ところがパロは奴隷としてのイスラエル人がいなくなることを危惧し、神様からの様々な災いがエジプトの国に起こったにもかかわらず渋り続けてきました。最後には大変恐ろしいことが起きたため、パロはついにイスラエル人を解放することに同意します。イスラエル人は急いでエジプトから出て行くのですが、パロはイスラエル人を解放したことを後悔し、軍隊を連れてその後を追いかけることになります。ある日モーセたちは海辺に来たとき後ろからエジプト軍が迫ってきて絶対絶命の危機に会うのですが、突然強い風が吹きそれによりなんと海の水が壁のようにそそり立ち、海底に乾いた地ができたのです。そしてモーセたちはそこを通り、先へ逃げることができたのです。エジプト軍もあとから追ってきたのですが、神は火や雲でエジプト軍をかき乱し、また戦車の車輪をはずしたりして進むのを困難にされました。そしてイスラエル民族が海を渡り終えた後、モーセが手を海の上に差し伸べると水はもとの状態に戻り、エジブト人は全員海の中にのまれて一人も残されなかったのです。このようにして神は奇跡を起こしてイスラエル人を助けてくれたのです。これは映画の1シーンのように思えるものですが、聖書によると本当に起きた出来事として記述されています。

2)崩れる城壁(旧約聖書:ヨシュア記)

 これはイスラエルの指導者がヨシュアという人のときの出来事です。エジプトから逃れて来たイスラエル人は神様から約束された地を目指して荒野を彷徨っていました。そしていろいろな部族と戦いを挑みその場所を都度占拠して行きました。ある日エリコという町に来たときです。その町は城壁がとても頑丈で誰もそれを崩すことができませんでした。彼らは神に祈りました、どうすればこの頑丈な城壁を崩し、エリコの街を占拠できますでしょうか。神からの支持は次のようでした。契約の箱(モーセの十戒が書いてある石の板がはいっている箱)をかつぎ、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、その箱の前を進み、さらに武装した者たちが、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進み、町のまわりを一度だけ回りなさい。このようにしてイスラエル人たちは町を日に一度まわり、六日間そのようにしました。七日目になると今度は町を七度回り、七度目に祭司が角笛を吹き、ヨシュアの指示のもとに人々は叫び声をあげたのです。するととたんに城壁ががらがらとくずれ、それを機に町に侵入してそれを攻めとったのです。武器や道具を使用して城壁を崩すのではなく、契約の箱とともに町を回っただけでそれを崩すことができたのです。これは神の力によるものに他なりません。

三 最も不思議な出来事(新約聖書:ルカの福音書)

 何よりも最も不思議な出来事はイエスキリストの誕生です。イエス様の母親はよく知られているようにマリヤ様です。マリヤはダビデという由緒ある家系のヨセフの婚約者でした。ある日ガブリエルという名前の天使がマリヤの前に突然現れ言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」これを聞いたマリヤはとてもびっくりしひどく戸惑いました。私はまだ結婚しておらずヨセフの婚約者なのにと。つづけて天使ガブリエルは言いました。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。この子は優れた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。」さらにガブリエルは言いました。「聖霊があなたの上に望み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」このようなことを言われたマリヤはそんな不思議なことが本当に起きるのかと思いつつもそれを神の言葉として素直に受け入れました。その後、ガブリエルの言った通りにマリヤにかわいい男の子が産まれ、イエスと名付けられました。これがクリスマスです。

 処女から子が生まれるということは大変不思議な出来事ですが、何よりも最も不思議な出来事は生まれる子が神の子であるということです。すなわち神の子が人間の姿となって生まれたということです。この世界にとってこれ以上の奇跡は無いのではないでしょうか。神は罪を犯した人間が滅び行くことに心を痛め、人類全体を救うために一人子であるイエス様をこの世界に誕生させて下さったのです。

四 聖書の学び

 このように聖書には実にたくさんの不思議なことが書かれています。これは作り話でしょうか。もしそうならば二千年たった今もう存在しているはずがありません。聖書は長い時間をかけていろいろな人々がいろいろな場所で執筆した神の言葉の集大成です。驚くべきことに内容の矛盾がひとつもないということです。それもそのはずです。編集長は神様なのですから。

 神様は私たちをとても愛しておられます。神様は実にそのひとり子イエス様をこの世界に送って下さいました。そしてイエス様を通して人類全体が救われるようにと道を示してくれたのです。

 自分の人生に何か足りないものがあると思いっている方はいませんか。クリスマスももうすぐそこに来ています。子供たちのクリスマス会もあります。クリスマスを機に教会に来てみませんか、そして聖書を共に学び人生の目標を見つけてみませんか。人間にとって本当に必要なものは何かが見つけられると確信します。

 

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N0.216

 

  大切なのに忘れがち ≫

 

 

一層寒さが増す中、皆様はいかがお過ごしでしょうか。先日私は学校の実習で房総半島の海岸へ行く機会がありました。寒い冬の海で連想するなんとも印象深い出来事があったので、今

回はそのことを書かせていただこうと思います。「留学をしてみたい」高校2年生だった私は当時、ノートにこう綴っていました。本棚に放

置されていたノートをふと見返してみたのです。海外に出たことはなく英語も全く話せなかったのですが、憧れを抱いていたのでしょう。私はその数年後の今年、オーストラリアに留学し

てきました。留学初期、海外は自分にとって全くの新天地で、わからないことだらけでした。そして何か新しい事が起きるのだと思うたびに心を躍らせていたのをよく覚えています。目の

前のあらゆるものが輝いて見え、すべてのものが自分を歓迎しているかのように思えました。事実、留学先で私がお会いした大学の方々や、その友達はみな陽気で優しく、私を温かく迎え

てくださいました。特に、留学期間中ずっとお世話になっていた教会の方々は家族のように親身になって、初めての一人暮らしに骨を折っていた私を助けてくださいました。

というのも、私は幼いころから日本の教会に通っており、神様の恵みによってクリスチャンになっていましたので(ここでは詳しくはお話ししませんが)、留学先のオーストラリアでも毎週

日曜日には教会に行こうと決めて、恩師に紹介していただいた教会に通ったからでした。その教会はとてもアットホームな雰囲気で、共に礼拝の時をもった後、一緒に食事をし、時には連

れ立って映画鑑賞したこともありました。こうして私は多くの人との温かい出会いにより励まされて、自分の新しい学業にも生活にも好スタートを切ったのです。

 当初は見知らぬ新しい環境なので安全には最大限の注意を払っていました。しかし、よく「慣れというものは怖い」といいますが、その通りで留学期間も残りわずかという頃には、私も一

緒に留学した友人も随分海外での生活に慣れ、受入れ先の近辺だけではなく、遠方まで出向くようになっていました。秋の5月頃だったでしょうか、ある雨の寒い日に私は友人たち数名と

連れ立って小旅行に出かけました。目的地は有名な映画のモデルにもなった桟橋です。それは海に向かって約二キロも突き出したように架かっている規模の大きいものです。家を

出るときは雨が降っていたのですが、移動している間にやみ、到着するころには晴れました。そこで私たちはさっそくその桟橋に入り、記念写真を一緒に撮ったり談笑したりしながら歩き

始めました。気分は最高でした。仲の良い仲間たちと一緒に騒ぎながら外国の観光地に繰り出すのですから。そうこうするうちに桟橋の中間をやや過ぎたところまで来ました。浮かれてい

た私たちは空が暗くなって風が異常に強くなっていることに気づいていなかったのです。あたりには人がいなくなって、心なしか桟橋の下の海面水位は少し上がって荒れ始めているように

みえます。急いで私たちは陸のほうへ引き返し始めました。ところが、風速も非常に強くなってしまい、傘も持っていない私たちに追い打ちをかけるかの如く雹が降ってきたので大変です。

幅の狭い桟橋が濡れて滑るので、強い風に押されて海に落とされそうになりました。雹は5分ほど続き、寒い日でしたのでいよいよダメかと思われたとき、私は神様に祈りました。「全能の

主よ、あなたでしたらどうか雹を止め、私たちの命をお守りください。」するとそのあと次第に雹は弱まって止み、海もしばらくして何事もなかったかのように、静かになってしまったので

す。私と友人を守ってくださった神様に感謝しています。クリスマスが近くなって、楽しい雰囲気があち らこちらで見える中、私のスリリングな回

想にお付き合いいただきありがとうございます。

最後に一つだけお伝えしたいことがあります。クリスマスは、神の子イエス・キリストが、私たち人間の犯してしまう罪をあがない、天国に行くための道を示すために人としてご降誕な

さった日です。ぜひ、これを読んでくださる皆様におかれましては、そのクリスマスの本当の意味を見つめ直していただきたいのです。

 少し早いですが、あなたに神さまの祝福がありますように。メリークリスマス!

                              

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N0.217

 

 マリヤとマルタ ≫

 

 

 聖書には女性に対する言及が数多くありますが、中でもルカの福音書一〇章にあります「マリアとマルタ」姉妹の記述は大変印象深いものです。内容を要約しますと、姉妹の家を親しくしていたイエスが訪問するという場面です。姉のマルタはもてなしに気を遣いあれこれと忙しく動き回りますが、妹のマリヤは座り込んでイエスの話しを聞いています。「私だけにおもてなしをさせて手伝わない妹に何んとか言ってください」マルタはイエスに不平を言います。するとイエスは「あなたはもてなしであれこれ心配して気を遣っていますがどうしても必要なことはひとつです。マリヤやそのよい方を選んだのです。」当初、私はイエスのこの答えの真意が理解できませんでした。一般的には、来客を落度なく、失礼のないように心配りをすることは大切で、マリヤの態度は怠惰であると言えるでしょう。私はマルタに少しの同情を寄せていました。私の古い友人に、いつ訪問しても快く迎えてくださる方がいました。「どうぞ入って」と言われるので誘われるままお邪魔すると普段の生活そのままということがよくありました。いつの日だったか、冷凍のおにぎりをレンジでチンして出してくださったことがありました。そのおにぎりは大変香ばしく、ほほえましく飾らない彼女のおもてなしに、いつも楽しいひと時を過ごして帰ったものでした。私ならどうでしょうか? 迎える準備が出来ていないとか、もしかしたら自分の都合で玄関先の対応になっていたかもしれません。「おもてなし」の神髄を彼女から教わることとなりました。しかし、この姉妹の話しはもてなし方を教えるのが本意ではありません。マリヤは、イエスの大切な話を聞くという一番重要な方を選んだ、ということです。自分の半生を振り返ってみますと、あそこが大きな節目の曲がり角だったと思えるときもあれば、小さな出来事のその時々の選択の場面もあり、自分の足あとは独りよがりなものでなかったかと思い返しています。仕事や家事を優先して子どもの問いかけを後回しにしなかったろうか。上京した親兄弟に自分流を通して不快な思いをさせなかったろうか。

 体切なときに安易な道を選び、失敗したこともありました。一つひとつの細やかな選択が集まって支流となり、やがて本流となって私の人生の流れを決めていく。親が何を大切にして生きているかを見て育つ子どもたちに確かな宝物を残していけたらどんなにいいでしょうか。

「隣人を愛する」これを神はいちばん大切な事と教えています。「自分を愛してくれる者を愛したからと言って何の報いが受けられるでしょう」(マタイの福音書五章四六節)自分に敵対する人、人から愛されない人、好きになれない人を愛することを神は喜ばれます。身近な家族や親兄弟、義理の親兄弟、友人知人たちがお互いの違いはありますが、近くの人を愛していくところに、ひいては戦争の無い平和な世界に広がっていくのではないでしょうか。憎しみではなく、愛を選びとることは、人間には難しい選択です。マリヤはイエスの、みことばを聞く方を優先させました。イエスがどれ程の犠牲を払い、私たちを愛してくださったかを自らが認識したとき、イエスは私個人に働かれ、他の人を愛することができるようになります。自分が愛されていることが分からないと他の人を愛するは出来ません。私は今まで、多くの選択の過ちをしてきたと思っています。

 マリヤとマルタの教訓は、私の足りないところを示してくださいました。しかし、クリスチャンとなる道を選びとらせて頂いた選択は、私にとって、正しい最優先事項であったと固く信じております。年が改まったいま、是非、心の一新をして、聖書に親しんでいただけたらと願っております。 

 

 

 

 

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N0.218

 

 祈りについて ≫

 

 外国の映画(テレビ)には、よく「教会」の場面が登場します。そして信徒の方がお祈りをしているシーンが多くあります。キリスト教をよく知らない方でも「教=祈り」というイメージをお持ちの方は多いのではないでしょうか。それくらいキリスト教において「祈り」は大切なものです。クリスチャンの信仰生活は祈りの生活であるとも言われています。ですから、もし祈りの無いクリスチャンが居たとしたら、それは間違いなく偽物と言って良いでしょう。

 「祈り」については、いろいろな表現があります。「祈りは神との対話」「祈りは魂の呼吸」「祈りは心の世界」「祈りは、神を信じた者の特権」等々。

 では、一体何を願い、祈っているのでしょうか。一言で言うなら、答えは「いろいろです」世界平和について、戦争、災害などについて、教会員仲間のこと、個人的には家族、親族、知人、友人や直面している困難について、病気や心の不安について、仕事や近所問題について、等々。(人間、生きていく上で、全く問題の無い人はいません。)

 何故クリスチャンは、これほど祈りを大切にするのでしょう。それは信仰の導き手であり、神の子どもでもあるイエス・キリストが熱心な祈りの方でもあったからです。

 ルカの福音書二二節四四節には、『イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。』と記されております。イエス・キリストでさえ真剣に祈られたのですから、私たちには、さらに必要な事なのです。

イエス・キリストはこのように言われています。

『あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』

(マタイの福音書二一章二二節)

 私は今まで、いろいろな事を神に求め、願い、祈りをしてきましたが、反省と感謝の繰り返しです。今でも祈り事の多い身でもあります。今日まで神に聞き入れていただいた祈りも多々ありますが、神に聞き入れてもらえなかった祈りもあります。でも、その時に何故?という疑問より、納得の出来る心の持ち様や、自分の期待していたのと違う最良の解決方法を示してくださいました。最後に、祈りについて、おそらく他の宗教には無いキリスト教独特の教えは、「とりなしの祈り」です。

 神は、自分のためだけではなく、『すべての人のために祈りなさい。また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。』(テモテへの手紙第一 二章一節)と言われます。

 信仰心の弱い小さな自分としては難しいものがありますが、少しでもそれに近づける信仰者になれるように祈っております。

 教会で、御一緒にお祈りをしてみませんか。教会は、いつでも皆さまをお待ちしておりますよ。

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N0.219

 

 

 

 愛は神さまから ≫

 

 

聖書は、神さまの愛について語っています。神は愛であると聖書は教えています。聖書が、いつの時代でも最も多く読み続けられているベストセラーなのは、その為ではないか

と思います。人は愛を求めています。どの時代の人も、例外なく。愛されることなくして、私たちは生きていけない存在なのです。誰も大人のまま生まれてくることはありません。

 すべての人が、赤ちゃんから人生をスタートします。赤ちゃんは、決して一人では生きられません。必ず、親の愛情や人々の愛情を注がれなければ生きていくことは出来ない無力な存在

です。思わず、かわいいと抱きしめてしまうのは、愛情を注がれる存在として神さまが造られたからでしょう。

 しかし、残念ながら、この世界には愛がない言葉や行いに満ちていることも、もう一つの現実です。人は、愛されたいと思うのに、愛されない、愛されていると感じないという事があり

ます。そこに、私たちの悩みがあり、苦しみがあると思うのです。人は、完全な愛と永遠の愛を求めます。いつまでも続く愛を求めます。そうでなければ愛ではないと考えるからです。

 神さまによって、神さまに似せて造られた私たちは、直観的に何が本当の愛か、真実の愛かがわかるのかもしれません。しかし、私たちは同時に、自分にその力がないことも覚えます。

傷つきたくないので、自分を守ろうとする気持ちが先立って愛することができなかったり、愛には犠牲が伴うので、それに自分が負けてしまったり、傷ついた経験が愛することを臆病にしてしまったり、自分の弱さや不完全さを心の中に認めるからです。他者には、愛を求めますが、自分には愛する力がない。全く、私たちは身勝手な存在です。

でも、真実の愛を求めています。こんな私たちに、聖書は何と言っているでしょうか。神さまの愛のうちに戻って来なさいと、一貫して語っています。神さまが愛の方だから、そ

の神さまの愛を頂きなさい。自分自身に頼らないで、神さまを仰ぎ見て帰って来なさいと言っています。日本人は、他国の人びとに比べて、人に迷惑をかけたり、頼ったりすることを嫌います。

何でも自分の力で行うことを好む傾向があります。ですから、神さまの愛のうちに戻ってくるように言われても、何かこちらの方でもしないと気が済みませんし、ただでもらえるものは、

値があるように思えないのかもしれません。しかし、神さまにこそ、真実の愛があります。 聖書には、愛の賛歌という箇所があります。私は、これを読むたびに、神さまのご本質が愛であり、この方の愛をもっと深く知りたいと感じます。

  『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になり

   ません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

   不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、

   すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。』 

(コリント人への手紙134節~8節) 

是非、教会でご一緒に、真の神さまについて、学んでみませんか。

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N0.220

 

 子どもの教育と隣人愛 ≫

 

 

近頃気になることは、知り合った者同士の間で起こる少年事件が、これまでの常識では想像もしなかったような惨たらしいものであったりすることです。情報の伝達手段が凄まじい勢いで進歩して来たことで今まで目に見えなかったものまでが否応なく視界に入るようになったとでもいうのでしょうか。

私が子どもの頃に発生した事件では、仮に止むを得なかったとしても肉親の愛又は仲間内の情と言ったものが表面に滲み出ていたような気がします。しかし、近頃の事件には、そう言った通常は介在するであろう筈の肉親の愛、仲間内の情と言ったものが微塵も感じられないことです。

こうした事件がごく普通に発生するようになった背景にはどうした事情があるのでしょうか。バーチャルな世界の台頭により本来人間が有すべき感性が減退したとでもいうのでしょうか。それとも余計な事にはできるだけ関わりたくないという自己保身に基づく無関心がもたらした結果なのでしょうか。私の子どもの頃にも少年の関係する事件はいっぱいありましたが、最近、社会を賑わしているような深刻な事件はあまり記憶にないような気がします。今よりも人間の繋がりが濃密であって、一面においては、他人であっても肉親の親子、兄弟に接するがごとくで、それぞれが隣人の生活内容をよく理解し適度に交わっていたからではないでしょうか。すなわち、私の子どもの頃は、子どもが遊んでいれば隣のおじさん、おばさんが愛情を注ぎつつそれとなく監視の目を行き届かせ、もしも子どもの行為が危険な領域に入ればすかさず介入し、深刻な結果を招来しないような安全配慮のシステムが自然に出来上がっていたような気がします。こういうシステムの中から子どもたちもおのずと危険な行動、してはならない行為を弁え、無意識のうちに社会生活の上で最低限必要な道徳律、規範意識を養って行動したように思います。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(聖書、伝道者の書121節)」。もともと、こうした倫理観は、子どもの頃の日常の自然な社会生活から身につけて行くもので、その背景には隣人愛(必要とされる人即ち隣人の愛:聖書、ルカの福音書1025節~37節)の働く環境がなくてはなりません。そのためには、日頃から謙虚に隣人の立場に立って、その人の身になってものを考え真実その人を理解することです。お互いが必要とされる関係、即ち「隣人」となればテレビや新聞を賑わす不幸な事件もおのずと減少することでしょう。人間が第一にすべきは、まず社会生活の基本を学ぶべきであり、これこそが教育の本旨です。教会はこの点に留意し、教会学校を通して神の愛を説き、その中で、子どもたちがごく自然に平和の基本である愛の心を養い、規範意識を身につけるよう努めています。オバマ前米国大統領が「退任のあいさつ」で引用した言葉『他人のことは、その人の視点から物事を考え、その人の身になって様々な角度から考えて初めて本当に理解することができる』とありますが、そうすることによって真実他人を理解し、愛することもできます。

教会はこれかれも皆さんの視点に立って子どもの教育やものを考え、皆さんに必要とされる存在(隣人)であるように努めていきたいと思います。