N0.221

 振り返って見れば ≫

 

 

 私は、六年程前に七十三歳でクリスチャンになりました。今までの生活を顧みますと、もっと早くから神の存在を知り、キリスト教会に通っておけば良かったと思っています。

私の育った田舎では、キリスト教会がありませんでした。少年のころ、大晦日には兄弟で寒い夜道を40分程歩いて神社に行き、新年の幸せを願い参拝して、帰りに熱いラーメンを食べるのが楽しみでした。上京して学生生活を始めた頃、街頭で「『罪びと』である私たちは、悔い改めましょう」と

呼びかけている人を横目で見ながら、自分は悪いことをしていないのに、なぜ罪人と言われるのだろうか、と思って通り過ぎたものです。

私は六十四歳まで会社に勤めていました。入社以来、主に営業の業務で過ごしましたが、そこでは、担当する顧客管理と新規顧客開拓の外交で、自分の説得力を如何に出し切って顧客に

納得していただくかが大優先でした。ですから、相手の立場を考慮しながらも、それ以上に自我を強調して説得する姿勢が身に付いていたようです。従って、私生活でも家族の思いを大切にして円満に過ごそうとの意欲は充分にありましたが、自己中心、自我を強調する姿勢が基本的にありました。定年も近い頃、クリスチャンの長女家

族と三年ほど、我が家で同居生活をしましたが、親に対し自我を張らず、苦情、不満を言ったことはなく、何事にも謙虚な姿勢に感心し、毎日楽しく過ごしたことを覚えています。その頃、

妻も娘夫婦と一緒に教会に通いはじめていました。日曜礼拝にそろって出かける姿を見て、私も教会に関心を抱きはじめました。当時、教会へは催しがあるときだけの参加でしたが、その

際、牧師や教会員が、お互いに親切でやさしい態度で接しているのを見て、私の気持ちが少しずつ変わっていきました。

聖書を知りたいと思うようになり、牧師と教会員の先輩と妻とを交え、聖書のご指導をして

いただきました。聖書には、「初めに、神が天と地を創造した。」「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世記1章1、27節)

神がすべてのものを造られたと記しています。そして、どこの国民にも同じ太陽が、光と熱を与えているように、全人類にまことの恵みを与えられる神を、『主は私たちの神。主はただひとりである』(申命記6章4節)と記しています。

ある時、友人と囲碁打ちが終わり、食事をしながら歓談しているときに、「私たちは、すべ

て罪人ですからね」と私が言うと、すかさず友人は、「今まで警察の厄介になったことや法律を犯したことはないから罪人ではない」と返事がかえってきました。

聖書で言う罪とは、「悪い考え、不品行、どん欲、よこしま、あざむき、ねたみ、そしり、

高ぶり、親に逆らう者、約束を破る、情け知らず、慈悲のない、わきまえのない者など」(マルコの福音書7章21節、他)です。さらに、不親切や高慢が大きな罪であり、自分は罪人ではな

いということが出来る人はいないはずです。

友人は「聖書では、そのように言っているのか」とうなずいてくれました。後に彼は病床にて、イエス・キリストを信じ天国に召されました。聖書全体を通して、私たちが生きていく上で最も大切な事は、①『あなたの神である主を愛せよ』②『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』(マタイ福音書223739節)であ

ります。ここには、私たちの生きるための明確な目標・指針が示されております。この世に生きる私たちには、すべての人に、そのような教えを行うことは難しいことですが、神のお導きに従い、努力しようとするところに、いくらかの前進があると思います。日曜礼拝に出席し、みことばを聞き、祈りをささげ、神を賛美し、安息にあずかり、恵みと力をいただきます。このような日常生活ができることに日々感謝しています。皆様も聖書を学びに教会においでください。お待ちしております。   

 

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N0.222

 

  辛いときに神さまは働かれる ≫

 

 

 生きていると、辛い目に合うことが何度もあります。神さまを信じようと思ったきっかけは、辛い目にあいたくない、幸せになりたいという願いがあったからです。でも、苦しみは、信仰

を持ってからも時々やってきました。あんなに努力したのに、なぜだろうと思うことが本当に多くありました。幼い頃に、気の強い友だちに悩まされ、だれに相談していいかわからなかった私は、だれかの相談相手になって、困っている生徒を励ませるようになりたいと願い、高校の教師になりました。とてもやる気があり、毎日必死で授業準備をし、部活や校務をし、生徒たちともよく話しをしました。当時私の勤めていた学校では、年に二回生徒が教師を評価するという制度がありました。その時私は、生徒から「授業がつまらない」「話し方が下手」「前の先生の方が良かった」などと悪い評価ばかり受けて、非常に落ち込んだことを覚えています。だれかを助けたかったのに、それどころか非難されるばかりで、悲しいし、恥辱的な気分でした。ただ幸い、同僚の先生方に暖かく励ましていただき、もっとがんばろう、という気持ちになれましたが、この評価がいやで辞めてしまった先生もいました。私も一ヶ月ほど落ち込みました。自分が納得いかない目にあっても辛いですが、親として子どもが苦しむ姿を見るのは、さらに辛いです。前向きに子どもががんばっていた時に、悪意をもっておとしめようとする人がいると、それがたとえ子どもであっても、本当に腹立たしく思いました。また、子どもが何度か挫折して、やっと立ち上がったのに、望ましい結果が出ないと、神さまに対してですら、「どうしてですか?」という恨み言を言ってしまいました。

聖書の中には、こんなみことばがあります。

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」

                    (ヘブル人への手紙12章6節)

神さまは私たちを愛しているから、懲らしめを与えることで、強くしてくださるということです。苦しみに耐えることで強くされる、というのは確かにそうだと思います。そして、苦しみとともに、そこから脱出できる手段も神さまは用意していてくださっていることも、聖書に書かれています。先日、子どもが盗難にあい、お金を盗まれました。買いたいものがあり、一生懸命節約して貯めたお金を盗まれ強いショックを受けていました。この時も、神さまに恨み言を言いたくなりました。しかし、冷静になると、子どもが事故や事件にも巻き込まれず、生きていることが十分な恵みではないかと思えました。盗難にあったことで、お金に対して慎重になると思います。勉強になったと思えばいいだけだ、神さまは最悪のことは避けてくださったと納得できたのです。

 私は、自分の夢だった教師になって、自己流の努力が認められずに辛かったとき、子どもが盗難にあったときも、神さまは、最悪のことを避け、気持ちを切り換えさせてくださいました。

また、子どもがいろいろな問題で苦しむとき、見ていて辛いですが、きっと神さまが良い解決策を与えてくださると信じています。辛いことがあると、苦しく、悲しいけれど不幸ではあり

ません。神さまがともにいてくださるから、必ず道が開けます。神さまを信じ、教会に行くことで、辛いときすら平安があります。どうか、読んでくださったあなたが、どんなときでも安心して信頼できる神さまと出会えることを、強くお祈りしています 

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N0.223

 

№223    夫 と 妻 ≫

 

 1.夫婦げんか

  最近妻との口論が増えたような気がします。それもそのはず今年で結婚21年を迎え、子供が小さかった頃は子育てで忙しくけんかなどはあまりしなかったのですが、子供が成長するにつれて夫婦二人の時間が増え(これはこれで良いのですが)、性格や意見の相違によりつまらないことからよく口論になります。お互いに歩み寄ればいいのですが、20年以上も一緒にいる

と意地と意地の張り合いになり、また、途中で自分が悪いと薄々分かってきても、引くに引けなくなっているのに気づきます。素直に謝ればいいのに、謝るのもタイミングがあり、それを

逃すとずっと気まずい雰囲気が残ります。このような時はただ時間が過ぎて感情が収まるのを待つばかりです。皆さんもこのような経験はありませんか。私は教会で聖書を学び、イエス様の愛をたくさん教えられているのですが、そのような状況になるとそれらの教えは頭から飛んでしまい、恥ずかしながら感情がむき出しになってしまいます。また、自分の論理で相手を論破すると気分上々になりますが、後味はとても悪いものになります。あーあ、なんでこんなふうになってしまうのかといつも後悔し、人間は本当に弱く感情の動物だなと思います。

 

2.夫婦に関する聖書のおしえ

 夫と妻に関して聖書ではこのように教えています(エペソ人への手紙5章2228節)。

「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリス

トは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」これだけをみるとまるで関白宣言のように聞こえますが、そうではありません。続きがあるのです。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、清く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前にたたせるためです。」

聖書では夫婦の仲をキリストと教会の関係にたとえています。教会(妻)のかしらはイエス・

キリスト(夫)であり、私たち(教会・妻)はキリスト(夫)に従うべきであると。一方、キリスト(夫)は教会(私たち・妻)をきよめて、傷のない完全なものとしてキリスト(夫)にふさわしいものとして下さるのです。キリストと教会はとても密接で大切な関係であるように、夫婦の関係も密接で大切であると教えています。

さらに、聖書には「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりま

せん。自分の妻を愛するものは自分を愛しているのです。」と続きます。このように夫に対しては、自分を愛するように自分の妻を愛しなさいという強い口調で説いています。ああなんと耳

の痛い話しではないでしょうか。つまらないことで口論をし、自分が悪くても謝らず、最後には論破してしまうような自分がとても恥ずかしくなります。そのようにならないように日々努力していきたいと強く思う今日この頃です。

 

3.クリスチャンでも弱い

皆さんクリスチャンはきちんとした生活をし、社会的にも模範となり、夫婦円満で、家庭

内が健全であると思っていないでしょうか。もちろん中にはそういう人もたくさんいると思いますが、必ずしもそうではありません(少なくとも私は違います。)幼いころから教会学校に行ってクリスチャンとなった今でも、やはり人間であり弱くつまらないことでよく夫婦げんかをしてしまいます。夫婦げんかぐらいでしたらまだいいのですが、もっと大きな困難、病気・怪我、問題に直面し、道に迷ってしまうことがあります。しかしながら、私たちクリスチャンはそのような状況の中にあっても、光を見出すことができ、正しい道がどの方向かを知っています。それは聖書の教えであり、イエス・キリストの教えなのです。困ったときは聖書を読み、神様にお祈りをすると必ず道が開かれるのです。

 もし何か困難や悩みをかかえて、人生に迷っている方がいましたら、聖書を読んでみて下さい。必ずあなたに生きる指針を与えてくれるものと信じます。イエス様の教えは新約聖書にた

くさん書かれています。聖書は厚くて読むのは大変と思われたら、まずはヨハネの福音書をお読みすることをおすすめします。聖書のおしえはどれ一つとってもとても大切で、たとえクリスチャンでなくともそれを否定することは難しく、人間の道徳の基本となるものばかりです。どうか教会に来てあなたの人生を希望に満ちたものにしませんか。------------------------------------------------------------

 

N0.224

 

 №224    二千十七年六月二十七日 証し ≫

 

 

皆さんは人生の羅針盤を持っていますか?人生の荒波を越える確かな支えをお持ちですか? 多種多様な生き方や価値観を持つこの時代、ここ数年特に携帯電話の普及と競争が進み、パソコンや携帯でメールやゲーム、音楽を聞き、買い物も出来る便利で豊かな情報化社会になりました。個人が尊重され個々の時間が守られ、思い思いの時間を各々の場所で自由に過ごすことが出来る反面、人と人とのつながりが希薄になったように感じます。 情報が迅速かつ簡単に入手出来ることにより行動の枠が広がり、子どもたちの知識は豊かに忙しくスケジュール化され合理的な生き方になってきました。 頭の中でのバーチャル体験を楽しむ現代の多くの子どもたちと雑草摘み、泥団子をコネたり、10人近くの子どもたちで楽しんだかくれんぼや缶蹴り鬼ごっこをした子どもたちとどちらが豊かなときを過ごしているのでしょうか? 本当の豊かさと平安な生活の鍵は?時代の逆行は出来ませんが、その答えは、私の通う高尾キリスト教会にあります。

 私はクリスチャンの家庭で育ちましたが、引っ込み思案の性格にあう学校を中学の先生に勧められ武蔵野の緑あふれる玉川上水近くにある親鸞上人を祀る浄土真宗の高校へ進学しました。

尊敬する祖父が熱心な仏教徒で違和感はなく、日本は仏教を信じる人も多半をしめ、仏教の本質を知らずクリスチャンになるのはいかがなものかと思いました。

仏教には他力本願と自力本願がありますが、親鸞上人、法然上人の他力本願は、南無阿弥陀仏と唱えると死後の極楽浄土の道が開けるというもので、その意味では、キリスト教と似通っていて貧しく知識のないものでもイエス・キリストを信じれば永遠の命が与えられる天国に入ることが出来ると言われています。それに対し日蓮宗や禅宗は、本人が一生懸命信仰に努力し難行苦行を行い、そこに悟りを得るということが理想的な世界としています。

いずれにしても仏教の開祖(二六〇〇年前インドの釈迦族の王子シッダールダ)はお城の東西南北の門で生老病死に苦しむ人々を見て「人の世の苦しみ悲しみはどこから来て、また、人は何のために生きるのか?」その答えを求め出家し、沙羅双樹の木の下で瞑想し悟りを得、諸行無常(この世に変わらぬものはない)、是生滅法(いずれ生あるものは朽ち果てる)、生滅滅己(苦しみ迷いを乗り越え)、 寂滅為楽(一切滅びる中に滅びない本当の幸せがある)と説いています。

ブッダは天国も地獄も説いていないこと、人生をよりよく生きる哲学であることが解りました。ブッダは亡くなるとき弟子のアーナンダを慰め「生きとし生けるすべてのものはちりに帰るのだから悲しむなかれ」と言われました。また、一説によると聖トーマスがインドにキリスト教を伝道したのが仏教に影響し他力仏教が開かれたという説もあります。

 

キリスト教の場合、死後の世界に対する考え方が違います。天地万物を創造された神さまが送られた主イエス・キリストの十字架の贖いによって罪深い人間が許され、主イエスを信じる者に永遠の命が与えられると書かれています。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書三章十六節)と聖書には記されています。

このみことばは、福音書中の福音とも言われ多くのキリスト者に喜ばれ、愛されています。その理由は、

第一の真理

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」とありますように、「世を愛された」とは、私たち一人ひとりをも含めたすべての人(全人類)のことです。私たち一人ひとりが、神に愛されているのです。

 ② 第二の真理

  「そのひとり子をお与えになったほどに」神の愛は、口先のことばではなく、「そのひとり子をお与えになった」という具体的なこと、即ち、イエス・キリストをお与えになられました。キリストは、何を、どうなさったのか。この事がらについてはご一緒に教会で学びませんか。

キリストを信じる者の死後には天国が約束され、そこには希望と救いの喜びがあります。

 

聖書の御言葉は悲しい時、苦しい時強め励ましてくれます。

今も目には見えなくてもみことばを通して私たちの中に豊かな慰めと平安、喜びと生きる力を与えてくださいます。それは、生きて働きたもう神ご自身のみことばなのです。

高尾キリスト教会では聖書の学び、礼拝と賛美を藤田牧師の元で行っています。いつでもお気軽にいらしてください。

ともに希望あふれる主にある平安な道を歩みませんか。

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   N0.225

 祈りの力 ≫

 

私には十代の頃より大切にしてきた友人がいます。毎年旅を重ね、互いの友情を深めてきました。昨年、皆無事に還暦を迎え、十一月にはようやく全員参加での記念旅行が実現しました。

五人揃うとすぐに十七歳の乙女にタイムスリップ!何とも厚かましく、騒がしいおばちゃま集団です。互いの老いを黙認しつつ、「変わらないね~」と、慰め励まし、いつものように夜通

し語り合い、恒例にしている朝風呂の時間となりました。しかし、ここからが悲劇の始まりでした。なんと、最も体の大きな友人が湯舟の中で気絶し

たのです。幸運なことに、そこには数人の看護師さんたちがいました。専門的な知識と無駄のない動きで彼女を湯舟から引き揚げ、応急処置をし、救急車の手配まですみやかに行ってくれ

ました。素人の私たちだけでは重たい彼女を引き揚げることすら難しかったでしょう。その看護師さんたちのおかげで命が助かったと言っても過言ではありません。朝風呂に行かなくて留守番役の私は、この事態を予測したかのように部屋を片づけ、皆の荷物の整理をし、急ぐ理由もないのに朝早くから身支度を終え、皆の帰りを待っていました。それ故、濡れたまま泣きながら知らせに戻った友人に代わり、すぐに救急車に飛び乗り病院まで付き添うことができました。神さまのお計らいとしかいいようがありません。意識不明の彼女の横でひたすら神に祈りました。祈ることで心が落ち着き、神さまをとても近くに感じました。彼女は七人兄妹の長女で、生計を立てるために朝から晩まで働く母親を助け、中学の頃よりアルバイトをしながら高校を卒業しました。とても同級生とは思えない苦労人でした。成績はとても優秀でしたが、進学をあきらめ、家族のために公務員となり四十二年間働き続け

ました。どんなときも前向きで明るく包容力があり、だれからも信頼される人気者でした。私にとっては親友であり、姉のような存在です。今まですべての重荷を一人で背負い込み、と

うとう倒れてしまいました。しかし、これを機にまわりの人間関係や家族、夫婦の関係も回復し、皆がいろいろと気遣い協力してくれるようになったようです現在も病と闘いながら、家族のために働き続けています。私は、神さまが私にとって大切な友人を守ってくださいという切なる祈りに応えてくださっ

たと確信しています。

 

『目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい』(コロサイ人への手紙4章2節)

危機のときも、祈ることで平安を与えられました。信仰歴の浅い私にも、祈るという素晴らし

い武器と大いなる特権をお与えくださいましたことに心から感謝しています。

 

『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』     (ヨハネの福音書1427節)

恵み深き、天地を創造された偉大なる神さま。私たちが、あなたを最も必要とするときに、いつもそばにいて温かく見守って下さいます。神さまのとこしえの愛に心より感謝しています。    

 

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N0.226

 自分のタラントを生かそう ≫

 

 

 テレビに出てくる歌手、俳優、お笑い芸人を見るとその個性や能力に驚かされ、さすがテレビに出る人は違うなあと感心することが良くあります。それらの芸能人を称して「タレント」と呼ぶことがありますが、語源は古代ギリシャの貨幣単位「タラント」から来ているそうです。この「タラント」に関するお話が新約聖書に書かれています。あるお金持ちの主人が旅に出

ることになり、三人の召使にお金を預けることにしました。一人目には5タラント、二人目には2タラント、三人目には1タラント渡し、自分が留守の間、このお金を使って働くように命じました。5タラント預かった召使は、それで商売をして、さらに5タラント儲けました。2タラント預かった召使も同様に、さらに2タラント儲けました。ところが、1タラント預かった召使は、他の召使よりもお金が少ないことを理由に、地面を掘って預かったお金を隠してしまいました。いよいよ主人が旅から帰ってきました。すると、5タラント預かった召使は「ご主人様。私はさらに5タラント儲けました」「そうか、私のために良く働いてくれた。これからおまえには、もっとたくさんの仕事を任せよう」と多いに喜びました。主人は、2タラント預けた召使に対しても、同様に喜びました。ところが、1タラント預かった召使は「私は、お金を少しでも減らしたら怒られると思ったので、地面に埋めておきました。これがお預かりしたお金です。」すると主人は残念そうな顔で言いました。「失敗したら、私が叱ると思ったのか。そのお金を使って喜んで働いてくれれば、私はうれしかったのに。もうおまえには仕事をまかせることはできない。」

 

 このお話の主人は、神様を表しています。神様が私たちに与えてくださるのは、一律ではありません。私たちは外見、言語、民族、体力、知力など、全てに違いがある存在です。人間的

には不公平と思えることであっても、私たちを造ってくださった神様にとっては、一人一人に個性として与えたものなのです。大切なのは、他人を見て劣等感を抱いたり、卑屈になったり、逆に優越感を持ったりすることなく、自分に与えられたものを十分に生かすことなのです。

 私はこの「タラント」の話を読んだとき、私の同僚の顔が頭に浮かびました。私は、建設会社の情報システム部門で働いていますが、入社した20数年前は、今のように業務の情報化は進んでいませんでしたし、私の現在の部署も存在していませんでした。ですから、正式な部署になるまでは、パソコンに詳しい者、ネットワーク構築に詳しい者、プログラムの得意な者など

が集まって、個人の興味や好意で会社の情報化がなされた経緯がありました。ですから、同僚の出身部署も、営業、工事、設計、研究、経理、総務など色々です。

 現在ではシステム改善、新しいサービスの提供による利便性の向上、情報セキュリティ対策など、日々業務は拡大、進化しています。私の仕事が、同僚の「タラント」が生かされた職場

であることに気づかされ、多いに驚きました。テレビに出ている芸能人だけが才能がある訳ではありません。私たちは皆、神様から、この「タラント」を与えられています。与えられた「タラント」を他人と比較することなく、自分に与えられたものを十分に生かして、人として成長することを神様は願っています。神様が喜んでくれる人生を送れるよう、自分の「タラント」を生かして、忠実、誠実でありたいと思います。          

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   N0.227

 

 

 青春の一冊「氷点」 ≫

 

 

 本をあまり好きでない人でも、幼い時に読み聞かせてもらったおとぎ話や、国語の教科書にあった文豪の小説を読んで友情や生きることについて深く考えさせられ、後の生き方に大きな

影響を与えられた何冊かの印象深い本があると思います。私にも自分の人生観、倫理観、価値観に影響を与えた本があるとしたら、聖書以外では三浦

綾子著の「氷点」「続氷点」をあげたい。あまりに有名で説明の必要はないかもしれませんが、「氷点」は、1963年に朝日新聞社が創立記念事業として懸賞小説(懸賞金当時の額で一千万円)

を募集した時の入選作で当時大ベストセラ―となり、繰り返し映画化、ドラマ化もされました。また、クリスチャン作家による作品であることも大変話題になりました。この作品と私の出会いは、今から47年前、私が高校1年生の時でした。朝日新聞に「続氷点」が連載されてなんとなく読むようになりました。そして、既刊「氷点」があることを知りこちらは一気に読破しましたが、感動というよりずしりと重い漠とした命題を与えられたような気持になったことを覚えています。今思えば、私にキリスト教の扉を開けてくれた本でした。当時の私の環境は、全く教会など関係のない世界でした。当時実家は、奥の細道にも出てくる由緒ある臨済宗のお寺の檀家で、檀家の子弟子女は小学校6年生~中学3年生までの毎夏休みに、小学生は2泊3日、中学生は3泊4日お寺に預けられ朝5時から夜9時まで勤行(座禅、読経、住職講話、食事の用意、清掃などの奉仕、勉学、自由時間もあり)を規律正しく課せられました。もともと身体が丈夫でなく精神も軟弱な私には世話をしてくださる僧侶や修行僧の方々の指導が厳しくて緊張緊張の連続でありました。座禅や黙想など心惹かれることもありましたが、高校生からは5泊6日の任意の参加になっていましたので、高校1年の時を最後に行かなくなりました。その頃に「氷点」に出会いました。

 

この作品の舞台は太平洋戦争後の旭川。医者一家を中心に複雑な人間関係を描いています。密会の場面から始まり、殺人犯、夫婦の愛憎と確執、不信と妬み、姦淫、不義の子、敵を愛せ

るか、母と藁の上の養子の葛藤、恋愛、自殺未遂、信頼と友情、赦し、愛は意志といった聖書からも幾つかヒントを得たモチーフで人間模様を織りなしています。50年以上経っても人間の

犯す過ちや愚かさ、そして悲しさは現代と何ひとつ変わりません。日本でも3組のうち1組は離婚しているそうです。悲しいかな、不倫は老若男女に関係なく

珍しいことではなくなり、離婚はいまや普通、連れ子での再婚家庭も増え、もちろん幸せな家庭を築いている人たちも多いのですが、時折虐待など悲しい事件も報道されています。

 16歳の高校生であった私は、潔癖症で、表面的なものの見方しかできなかったのと、キリスト教の素養もなかったので、作者の意図は半分も理解できていなかったと思いますが、今振り

返ると幼稚な解釈もそれはそれで良かったのだと思えます。若い時の自分がいて今の自分がいるのだから。その後、思い出した時に何度か読み返しましたが、年齢を重ねるたびに若い時に

は見えなかった景色が見えてきます。名作のゆえんでしょうか。そして三浦綾子は、小説の最後に次のように書いています。

『一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、

われわれが与えたものである』と。

「氷点」は実に平易な文体で書かれていますのでとても読みやすいです。しかしながら描かれていることは実に示唆に富んでいます。読んだことのない方には是非聖書とともに読んでい

ただきたいお薦めの1冊です。聖書は理解の手引になることでしょう。

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N0.228

 

  神さまのプレゼント ≫

 

 

 今年も最後の月となりました。

この月は神さまのご計画により、イエスさまがこの世に遣わされたご降誕の月です。街ではこの機に乗じてクリスマスう商戦の真っ只中といったところです。教会や家庭でも、御子イエスさまの御降誕をお祝いする準備に余念がありません。ずいぶん昔のことになります。

 私の娘たちが幼かった頃の話しですが、当時は高度経済成長期の時代背景を反映して、サラリーマン生活も徐々に豊かになり子どもたちにも私の娘たちに比較して高価なクリスマスプレゼントを用意する家庭が多くなりました。近所のお友だちがうれしそうに、両手に抱えて持ってきたプレゼントで楽しそうに遊んでいた姿が思い出されます。

 ただ私たちの家族はクリスマスの一日を教会で過ごすということが習慣で、そうすることで

家族全員が心満たされた一日を過ごしました。

 それでもクリスマスイヴには、枕元に、お菓子入りの(当時定番の)長靴のプレゼントをそっと置いてやりました。私たち人間はどうしても目に見える高価な物やきらびやかなものに視線が向かいがちです。ですから高尾教会では、当時から聖書の教えにより厳しい状況の中でお生まれになったイエスさまのことを思い、目から入るのではなく、イエスさまのお生まれになった確かな意味を心に受けとめて極力華美にならないように、子育てに努めてまいりました。

 娘たちもやがて成長して大人になり、現在は人の親となっていますが、その間、私どもに対し、高価なものをねだるようなことは一度もなかったように記憶しております。貧しかった私どもの家庭に在っては、教会における正しく確かな学びが生かされていたのだと今は来し方を静かに振り返り感謝のほかありません。

 聖書「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」          (ローマ人への手紙12章2節)

神さまが、イエスさまをお遣わしくださる目的は、聖書「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)

『お与えになったほどに』このみことばは、イエスさまの御降誕と十字架の死を示しています。また、神さまは、イエスさまによって私たち一人ひとりが、救われることを一番に願っておられます。イエス様のご誕生は、目には見えませんが、神さまが私たちに与えてくださった最高のプレゼントなのです。この上なく感謝の気持ちでいっぱいです。この喜びを皆さまとともに分かち合えたらと思います。どうぞ、お子さまをお連れになって教戒のクリスマスをお楽しみになられたらいかがでしょうか。

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   N0.229

 

 

  新年を迎えて ≫

 

 

 一月は新しい年を迎えて、改めて、自分を見つめ直す良い機会と思います。私は、団塊世代の者として生まれ、今年で七十歳を迎えます。六十五歳で退職をして、それからの五年間の日々

は、勤務で夢中になっていたころの自分とは違う生活となりました。職場からの解放感を味わいつつ、湯殿川や浅川の散歩道に魅かれて、歩く毎日となりました。歩きながら、物心のつい

た頃から現在に至るまでの自分を思い起こす回想録を心の中に綴っています。私の名前の由来や幼い頃の記憶には、いつも父がやさしく見守ってくれた姿があります。

小学生の頃の父兄参観日には、いつも父が来てくれてうれしかったことを覚えています。そんな父でしたが、私が中学に入学してまもなく、脳出血で急死してしまいました。今、父が生き

ていたなら、たくさんの話しができたのに。そして、喜んでもらえたのに。と残念でなりません。でも母は父の分まで長生きして、今年で九十四歳を迎えます。母は女手一つで私たち

四人の子どもを不自由なく(父が残してくれた商売のお陰で)一生懸命育ててくれました。この両親の子どもとして生まれたことを感謝しています。

私は二十三歳で結婚をしました。私には尊敬の出来る良い夫とめぐり会い、二人の娘にも恵まれましたが、主人は、私たちを残して天国へと先だってしまったのです。天国に召されてか

ら今年で十七年目になります。今、二人の娘は私が必要とするときには、いつも助けてくれています。

 

私の本当の幸せは、思い返せば主人が教会の戸を叩いてから始まりました。主人は、聖書を中心に生活をするようになりました。誠実な主人の姿そのものでした。本来人間には、神さま

を求めていく思いがあると思います。神さまを認める能力は、全人類に与えられています。主人は、聖書の中の神さまを信じる信

仰へと変えられていきました。私も、娘たちも自然に聖書に心が向くようになり、家族そろってクリスチャンになりました。主人は、先に天国へ行ってしまいましたが、また、必ず、天国

で会う約束をして見送りました。

 

キリストの弟子パウロは、人間の弱さを見つめて、過ちを犯さないようにという消極的姿勢

から、むしろ進んで神さまを賛美するという積極的な生活を教えています。

 「心の一新によって自分を変えなさい。」       (ローマ人への手紙十二章二節)

 

神さまは、聖書のみことばによって、日々私たちを力づけてくださいます。弱ったり、挫折

しそうになったとき、そのときは気づかなくても、神さまを礼拝することで、聖書のみことば

から励ましをいただいて、支えられています。

 「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。

私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」 

(詩篇七十七篇十一~十二節)

 新年を迎えて、是非教会でご一緒に神さまを礼拝してみませんか。心よりお待ちしています。      

N0.230

 

 none

 

 

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